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2006年4月30日 (日)

こっちはちょっとすっきり。

また堀江さんがらみなのですが、「保釈金3億円」って聞いて、ひょぇ~~~って感じがしませんでしたか?いや、私が知らなかっただけですか?

普段、たま~に保釈金を払って保釈されたってニュースを耳にすることはありましたが、ちゃんと調べたこともなくて、おまけに大抵そういうニュースが流れるときは「大物」であることが多いので、「保釈金3万円で」みたいな話は聞いたこともなく。

結局、お金持ちは出られるけど、びんぼ~人は出られないってことなの??と疑問に感じつつも調べようと思っては忘れてを繰り返していました。

で、さっき思い出してようやく調べてみました。とりあえずここを参考にさせて頂いたのですがお蔭でちょっとすっきりしました。
そういえば、保釈金って、正式には「保釈保証金」って新聞とかにも書いてありましたね。要するに「保証金」なんですね。裁判所に保証金を払って、裁判が済んだら返してもらえるんですね~。そうなのか~~。賃貸物件借りて、問題がなければ保証金が返還されるって感じですね~。(敷引とかはないんでしょうね、当然。)

けど、保証金を返してもらえなくていいと思えば裁判に出廷せず、逃亡してもいいってこと?まあ、もちろんそれは捜索されて発見されたら連れ戻されるんでしょうけど。連れ戻されても、そのときには保証金は没収なんでしょうか。。。(またちょっと気になる。。。)

個人の「資産及び性格」を考慮して決めるんだったら、万一、いや兆にひとつぐらい、私が保釈金を払わなきゃいけなくなったら、3万円ぐらいで出してもらえるでしょうかね?うむぅ。

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2006年4月29日 (土)

なんかすっきりしない。

堀江さんが釈放された。

例によってテレビも殆ど見ていないし、新聞で多少の情報を得たぐらいなのだけれど、たまたま見たニュースに、なんだかとてももやもやした。

L社の広報だっただろうか、釈放に対するコメントを求められ、「ただの一株主に過ぎないので関係ない」というようなコメントを出したと報道された。

私は以前のブログにも書いたことがあるが、堀江さんのことは嫌いではない。
現段階では「容疑者」だし、彼のことだからきっとかなりやり手の弁護士さんに依頼もしているだろうから、最終的にどんな判決が出るかはわからないし、彼自身が罪を否認しているとも報道されていたけれど、全てのことが、本当に全く彼の知らないところで成されていたということはないのだろうなと思う。
ただ、仮に法律に違反し、罪を犯したのだとしても、今でも私は彼を嫌いだとは思っていない。もちろん、もともと好きではないけれど。

あれだけ短期間ですごい勢いで上り詰め、L社の社名を知らない人はいないぐらいになったのは、間違いなく彼の功績だ。
私は経営のことはよくわからないけれど、あんなに短期間であれだけ儲けようと思えば、法律を遵守し、安全な橋を渡り続けていては恐らく無理なのだろう。彼が以前そんなことを言っていたように思うが、結局は違法ギリギリの線や、法律の解釈の仕方、法の裏側を。。。そんなことを積み重ねてああなったと考える方が自然な気がする。

事件後、あのL社が新たに社員を採用したかどうかはわからないが、少なくとも今いる社員の殆どが彼がいた頃、彼の手腕や才能に惹かれ、また、知名度に惹かれて集まったのではないのだろうか。

もちろん、彼は「金で何でもできる」というような発言をしていたというような報道も耳にしたし、所詮は「お金」や「名声」だけで成り立っていた、極めて希薄な人間関係だったというだけなのかもしれない。

ただ、それでも、「関係ない」という発言はどうなんだろう?
お前のせいで俺達は迷惑を被っているんだ、どうしてくれる?とでも言いたいということか?
けれど、彼がいなくなったL社がここまでガタガタになってしまったのは、結局「彼の会社」だったからなんじゃないのかと思う。うまく言えないのだけれど、中小企業のやり手社長が一代で作り上げた会社がその社長がいなくなった時点で幕を下ろすような、それと同じようなものを感じるのだ。

やり手社長を失った中小企業だったら、自分達の明日の生活のためにとにかく必死で努力するかもしれない。けれど、そのとき、社員達は社長のことを「あの人は関係ありません」って言うんだろうか?

どうもうまく言えないけれど、なんだかずっとすっきりしない。

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2006年4月28日 (金)

恩師が残したもの

今日、本当に思いがけないコメントを頂いた。

(前略)3月から4月にかけて教職員の移動が新聞紙面に載り、恩師の名前を探す自分が居ました。約30年前に大変お世話になった先生の所在を知りたくて、先生の名前で検索したところ、このブログに出会いました。(中略)
約30年ほど前に西区の外れの中学校に勤務され、当時25~30歳だったかな?担当は数学で、野球部の監督をされていました。(中略)男前で当時は清水健太郎似と評判でした。もし何か情報をお持ちで教えていただけるようでしたら幸いです。

(注:一部具体的表現を曖昧にさせて頂いています。)

正直言って驚いた。こんな風に、全く知らない方からコメントを頂くことになるなんて思ってもみなかったし、30年ほど前の恩師を今になって探そうと思われたということにも驚いた。恩師の影響は30年を経ても変わらぬほど大きかったということだ。

さすがにいたずらの書き込みではないとは思ったけれど、どこのどなたかもわからないので、お返事には差し支えのない範囲で私のわかる情報をお伝えするに止めた。

その後その方から改めてメールを頂いた。
その方のメールにはこんな一文があった。

30年前に○○中学校で野球を(勉強も)教えていただき、その教わった事を、私が今、近所の少年野球部員に伝えています。

やはり恩師は偉大な方だ。何十年経とうともこうして恩師を思い出し、懐かしむ人がいる。感謝する人がいる。恩師の教えを受け継いで、それを子ども達に伝える人がいる。

恩師の姿を見ることは今世ではもうできないけれど、沢山の教え子の中で恩師は生き続け、その思いを子ども達へ届け続けているのだ。

ね、先生。これからも私達のことしっかり見ていてくださいね。
けど、先生って「清水健太郎似のオトコマエ」だったんですね。気がつかなくってゴメンナサイ。(笑)
でも、先生は私の人生で最高にカッコイイ先生です。多分それはこれからも。
頑張りますね、またこれから。いつか先生に会えるときまで。

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2006年4月27日 (木)

こんなのがあるって知らなかった。

最近、以前にも増して世情に疎いことはしばしば告白済みですが、小泉首相のメールマガジンも発刊当初から登録しているので送られてくるものの、実はもう何ヶ月も読まずにそのままフォルダ行きになっていました。

で、今日配信のものでたまたま、こんな見出しが目に留まりました。

★☆ 政府インターネットテレビ配信中! ☆★
 
http://nettv.gov-online.go.jp/

 小泉総理と「でんじろう先生」の楽しい実験模様は2CHで配信!
 ゴールデンウィークにご家族でどうぞ!

皆さんはご存知でした?政府インターネットテレビ。
一体いつからこんなものがあったのでしょう?全く知りませんでした。。。
でんじろう先生はかなり有名な方ですし、ここで配信されている実験もお馴染みのものではありますが、こういう施設があるんだなぁ、近かったら行ってみたいなぁと思ったりしつつ見ていました。

他にも色々なチャンネルがあるようですね。
でも、結局時間がなくって、そう見る機会もないままになるんでしょうけど。。。

ちょっと新鮮な発見だったので書いてみました。
(皆さんはと~~~~~っくにご存知かもしれませんが。。。)

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今日は

深夜更新予定です。
どうぞ宜しくお願い致します。

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2006年4月26日 (水)

大人を超えるとき

昨日、うちのスーパー新5年生とのレッスンがありました。
中学受験の予定もないことを考えると、宿題の量は決して少なくなく、おまけにやっていることもかなりレベルが高いことです。普通に公立小学校に通っていれば、全く出会うことのないような問題まで彼は日々解いてくれています。

2年生の夏に出会ったときには、計算は速いけどそれ以外は何かが飛びぬけてできるというほどではありませんでした。
そして、その頃からずっと、家庭学習では主にお父さんが彼のことを見ていてくださったようです。

そのお父さんは中学生のお嬢さんの数学や理科もご指導しておられたそうですし、もしかすると理系崩れの文系の私より、理数系にお強いのではと思っています。

最近は、結構自分ですいすい解いてしまう彼なので、宿題でお父さんのご指導のあとを見せて頂く機会もあまりなくなっていました。
おまけに、私自身も去年辺りから、とりあえず経験や知識の量ではまだ私の方が勝っているものの、数量感覚というか、数を見たときの反応などはもう完全に彼には叶わなくなってきていました。

大きな数を見ても、瞬時に1万が1万個あるとか、2400を400で割ったら6だとかそういうのがわかるのはもちろんのこと、それだけでなく、おおよその答えを数字を見るだけで大体感じ取ってしまうようです。

昨日も、小数の四則混合計算で1箇所□になっているところに入る数を求めるという、大人でも面倒でできればやりたくないなぁと思うような問題を、パッと見て「あぁ、足せばいいんや。」とか、「かけるんや。」とか、全く当然のことのように言うのです。(おまけにそれが全部合っている。。。)
もう本当に、彼の頭の中を見てみたい!!という衝動に駆られることはしばしばです。

そんな彼の昨日の宿題の中に、どんぐりさんのこんな問題がありました。

「鰻のヌルヌルは自分専用の細長いベッドルームを作ることにしました。そこで、幅0.064m・長さ16cmの木製のベッドを購入しましたが、どうも寝心地が良くありません。そこで、ヌルヌルはベッドにカーペットを敷きつめることにしました。カーペットは正方形の物を切らないで使うことにしました。なるべく大きな正方形のカーペットを使うとして、何枚の正方形カーペットが必要でしょうか。」

この問題は算数の単元で言えば、最小公倍数を利用する問題になるのだと思います。因みに彼はまだその学習はしていません。
おまけに、メートルをセンチに直したところで、6.4cmと小数になってしまいます。
かなり難しい問題とも言えるでしょう。

このプリントには珍しく久しぶりに大人が書いたような図と文字があったので、彼に尋ねるとお父さんが書いたとのこと。そうか、難しかったから一緒に考えたんだなと思ってふと見ると。。。。。。。答えが違うのです。。。(苦笑)

丁寧に絵も描いてくださっていて、ちょっとした勘違いかなと思いながら、その日のその他の文章題は全部ちゃんとできていたので、とりあえず彼に尋ねてみました。

「これ、考え方はバッチリなんだけど、もっと少なくてもできるねん。わかる?」

と尋ね終わらぬうちに彼が、ちょっと納得いかなそうに言いました。

「10枚ちゃうん?」

・・・・・・・・・・。
いや、その通りです。彼の口調からすると、彼は10枚だと思っていたのに、それを否定されたのかもしれないような印象でした。
これはお父さんの立場を悪くしてはならないと思い、とっさに

「う、うん、そうやで。すごいなぁ。よくわかったなぁ。」

と言ってそれ以上の追求を避けました。(苦笑)

彼はまだ5年になったばかり。まだまだ伸びることでしょう。この分だと、私が彼から算数を教わる日も近いかもしれません。

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2006年4月25日 (火)

「やさしさ」とは

色々な書籍や素晴らしい先生方の実践などに出会い、「やさしさ」というものについて改めて考えさせられることが多い。

以前、多湖先生のしつけ本だっただろうか、ころんだ子どもに対して「痛くないわね?」と声をかけなさいというようなことが書かれていてかなり驚いたのだが、その後も色々な経験を経て、気づいたことがある。

これまで私は教室に来てくれる子ども達に対して、先回りして何かをしてあげることがしばしばあった。
ゴミを捨てたそうにしていれば、言い出す前にゴミ箱を出してあげたり、小さい子がひもを結ぶのに苦労していたら代わりにやったり、教室に来てすぐ喉が乾いているらしい子どもが言葉足らずで「お茶」とだけ言ってもお茶を出してあげたり、そんなことは数え切れないほどしてきてしまった。

けれど、それは本当の意味での「やさしさ」などではなかったのではないかと気づいた。
ゴミを捨てたいのであれば、自分で捨てに行く、もしくは「ゴミ箱取ってください」と言わせる。
ひもがうまく結べないのであれば、お手本を見せたり、根気よく待ってあげたりする。
お茶がほしいときにもきちんと「お茶をください」と言わなければお茶を出さない。
そういうことを小さいうちからしてあげることこそ、子ども達が大きくなったときに「礼儀正しい」とか「しっかり躾けられている」とか「賢い」とか評価され、他者ともうまくやっていけるようになるのではないか。

小さい子は「お茶」と言ってお茶が出てくれば、それが当然だと思う。親以外の大人に対しても「お茶」と言えばお茶をもらえると思ってしまうかもしれないし、くれない大人をひどい人と思うようになるかもしれない。

実は、私が子どもの頃、うちの母は「お茶」というと「お茶がどうしたの?」と聞き返し、すんなりお茶を出したりはしてくれなかった。きちんと述語まで言わなければ、要求に答えてくれなかった時期があったことを思い出したのだが、どうやらうちの母親はなかなかできた母だったようだ。

例えば、子どもの靴の紐や服のボタン、ファスナーなどをお母さんなどが代わりにしてあげるのはた易いことだ。けれど、せっかく指先をしっかり使って、その子が賢くなれるチャンスを奪っているのだ。

おまけに、じっと待つことは結構忍耐がいることだ。特に急いでいるときなどは、子どもがするのを待つより親がした方が早いということもあるだろう。けれど、待てずに親が手を貸し続ければ、子どもはなかなかできるようになりはしないだろう。初めに時間をかけることで、その後は親の手を借りずにできるようになっていくはずだ。

最近は一人っ子や、多くても2人兄弟という家庭が多くなったことも、親が子にすぐに手を貸してしまう原因なのかもしれない。大勢の子がいれば、やってあげたくても手が回らないということにもなるのだろうけれど、子どもの数が少なければ、至れり尽くせりで手をかけられるのだろう。

私はこの教室をしながら、子どもにいかにして賢くてステキな子に育ってもらうかということしか考えていない。特に小さいうちは、自分のことを自分でできる。自分の希望をきちんと言葉にできる。そういうことが、算数や国語、英語のお勉強なんかより遥かに大事なのではないかと思っている。というか、そういうことがきちんとできない子どもは結局大きくなってから伸び悩むように思うのだ。

だから最近は、極力手を貸さずに待つようにしている。(それでも癖でつい気を利かせて先回りしてしまったり、手を貸してしまったりするのだけれど。。。)時間の許す限り、励まして見守り続ける。お手本を見せたりすることはあっても、子どもの代わりにやってしまうことはなるべく避けるようにしている。

ただ。。。幼児のレッスンのときや子どもの送り迎えのときのお母さん達の目がまだ時々気になってしまうことがある。
口には出されないけれど、心の中で(先生、そのぐらいやってあげてほしいわ。。。)と思っている方もおられるかもしれない。なんて不親切なんだろうと思われているかもしれない。そんなことが気になるのだ。

同じようにお母さん方でも、本当は待って子どもにやらせたいと思っていても、周囲の目が気になったりして、なかなかそれができないという方もおられるのかもしれない。

けれど、優先すべきは子どもを伸ばす(ステキな子どもに育ってもらう)ことなのだし、「教えない」ということは必要以上に助けないということと同じなのかもしれない、そんなことを思いながら、つい手を貸してしまいそうになるの自分に今日もブレーキをかけるのだ。

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2006年4月24日 (月)

久々に。(今日はど~でもいい内容です。)

月曜はもともと、欠席した人の振替や、体験にいらしてくださる方に対応させて頂くため、固定したレッスンを入れていません。
ですが、なんだかんだで月曜も完全にOFFだったことはあまりなく、レッスンがないときにはお知り合いのお手伝いがあったりと、終日フリーでのんびりということは最近では記憶にありません。

で、今日は午後から、塾を辞めてご縁がなくなっていた教材会社さんへ教材を見せて頂きに行くことになっていたので、久しぶりに「街」へ出ました。
お天気もよかったのでいい気分で訪問し、対応してくださった女性がまた若くってとてもお綺麗。おまけに接客がとても素晴らしく、それだけでも「ここで教材を買いたい!」と思ってしまうほどでした。(笑)
もしかしたら、彼女目当てにわざわざ営業所まで足を運んでおられる男性の先生もおられるのではと思うほどでしたよ。(笑)

色々見せて頂き、以前からほしいと思っていた教材を分けて頂いたのですが、実はその教材、もしかすると「極めてニーズの低い」ものなのかもしれません。なぜかというと、これまで書店や他の教材会社の教材なども色々探したのですが、思うようなものがなかったのです。つまり、そんなものをほしいと思う人が少ないということなのだろうなと。。。

その教材会社さんにはあることはわかっていたのですが、中学生の教材は必要な部数が少ないもので、連絡する勇気がなかなか出なかったのです。こうなったら自分で必要なものを作るか?とも思ったのですが、その時間がなかなか取れず、思い切って連絡をしたら分けて頂くことができました。

どんな教材かというと。。。ワークブックの部分に一切なんの説明も書かれておらず、問題だけが並んでいて、しかもそれが計算問題だけにとどまらず、図形や関数、文章問題などまでカバーしているのです。おまけに、問題量もそれなりにあるし、難易度もある程度高い。
これがほしかったんです、とっても。

なぜかって?普通の問題集やワークブックは、単元の初めには新しく習うことの説明が書いてあり、場合によっては問題の解法もヒントというレベルを超えたところまで書いてあったりして、読んでやってみたら、よくわからないけどできましたってなるものが少なくないように思うのです。

おまけに、教科書や参考書、問題集に書かれている説明はしばしば難しい書き方をされていて、読んでもよくわからなかったり、もっと簡単な表現があるじゃない?と思うことも多いのです。

更に更に、うちで小学生から学んでくれている子達は、自分達で考えてみることに慣れていますから、わからないところだけヒントを出すというスタイルで進めるには、要点の説明や解法のヒントはいらないのです。

ずっとほしかったものが手に入って、今日はちょっとご機嫌です。(お姉さんも綺麗だったし。(笑))

で、せっかく久々に街に出たのだしと、いつ以来かわからないけれど、お気に入りの服屋さんを覗いてみました。塾に勤めていた頃には毎月のように通って、かなりのお買い物をしていたのですが、「夢を食べて生活する」ようになってからは数ヶ月に1回行くかどうかになっていました。

もちろん、服もほしいとは思っていましたが、それより本や教材が優先していたということや、時間的にも気分的にも「服を見に行く時間」が取れなかったということもあったように思います。

で、久しぶりに以前はお馴染みだった店員さんとおしゃべりしながら楽しく服を物色し、「半年ぶりぐらいかなぁ?」と話しながら、メンバーズカードを取り出したところ。。。。。。前回そこでお買い物したのは、昨年の5月だということが判明。なんと!ほぼ1年近く行っていなかったなんて!!(実は今でも信じていないのですが。。。)

秋頃からずっと忙しくしていたのは自覚があるのですが、そういえば、夏頃は「霞を食べて」暮らしていた時期だったような気もするので、もしかしたらそうなのかもしれません。
しかし。。。ほぼ1年経っていたということに、この1年の早かったことを改めて強く感じました。今の教室に引っ越して間もなく1年になりますが、毎日が飛ぶように過ぎているように感じていたのは気のせいではなく、どうやら本当に飛んでいっていたようです。。。記憶から。。。。。。

ちょっぴりリフレッシュもできましたし、明日からまた頑張ろうと思います。

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2006年4月23日 (日)

やっぱり気になる。。。

深夜に更新する予定が、週末の疲れか、電気もパソコンもつけたまま意識喪失、夢の世界へ行っておりました。。。もし深夜に覗いてくださった方がおられましたらお許しください。
では、深夜に書くつりだったブログをUPさせて頂きます。

沢山の塾長さんたちがブログで話題にしておられるが、「公立塾」のことがやっぱり気になるので少し書かせてもらおうと思う。

このところ本当にテレビも新聞も殆ど見ていないので、この情報自体ブログから知って、ネット検索してみたけれど、あまり詳しいことまではわからなかった。
とりあえず今の段階では新聞発表になった程度にしか知らされていないということなのか、私が発見できていないのかはちょっとわからないけれど。。。

「経済的理由などで塾に通えない子を対象にした公立塾」という表現に対し、少なくとも私が目にしたブログは殆ど、既存の塾はどうなるんだ?とかそれなら学校でもっとどうにかしたらいいじゃないかとか、「公立塾」の存在というか、教える側というか、そういうものについての意見だったように思う。

もちろん、それは私も思わなくはない。
けれど、このニュースで私が一番気になったことは「経済的理由などで」というところだ。

国が税金を投入してやるのであれば、本当に「経済的理由」で塾に通えない家庭への「救済」としての位置づけなのかもしれないし、逆にそうでなければ(一般の塾に通うことのできる家庭の子も希望すれば通えるというような曖昧な基準だったりすれば)、それに税金を投入するのはなんだかおかしいような気もする。

仮に「生活保護」の延長のような位置づけで、所得制限などの条件をつけた上で、その条件を満たした家庭の子どもは希望するなら来てもいいですよということにしたとしよう。
けれど、もしそうなった場合、公立塾に行く子は「経済的に苦しい家庭の子」ということを世の人みんなが知ることになるのではないのか?

小学校高学年や中学生になれば、自分の家庭が経済的に苦しいということは、子どもなりにわかるようにもなるだろうし、例えば家長が不慮の事故などで亡くなったり、働こうにも病気などで働けなかったりして、どうしても生活保護を受けねばならないような場合、大抵の子どもはそれを隠したいと思いはしないのだろうか?

自分の家は貧しいということを、人に話したいと思う子どもは決して多くないような気がする。特に小学校高学年や中学生になれば、それを理由にからかわれたり、いじめられたりすることだってないとは言えないだろう。

とすれば、仮に「経済的理由」という条件をつけることで、「公立塾に行っている子は経済的に苦しい家の子(子ども達の感覚では貧乏な家の子となるだろうか。。。)」という暗黙の認識が出来上がり、それによるイジメや差別が起きたりはしないだろうか。また、それが嫌で、実際には塾に行きたいのに行かないという子だって出てきはしないだろうか。
私の考え過ぎか?

しかし一方で、大量に定年を迎える教師の受け皿のようにも言われているが、それは一体どういうことなのか?一般企業で定年を迎えた場合、一部の会社ではその後も嘱託など一定期間残ることができたりもするようだが、多くの人が職を失う。その後まだ働きたい、働かねばならないという人は自ら仕事を求める努力をするのではないのか。

なぜ公務員は国がそれをお膳立てしてくれるんだろう?教師だって、指導力やこれまでの経験があれば、定年後自分で塾を開くことだって、そういう業界に再就職することだってできるのではないか?なぜ国がそれをしなければならないのかわからない。

仮に、本当に「経済的理由で通塾できない家庭の救済」が目的なのであれば、定年後の教師はボランティアで(まあ、交通費などは支給してもいいと思うけれど)、無償でも子どもを伸ばしてあげたい、わかるようにしてあげたいという人を募ればいいのではと思うし、万一、定年後の教師の救済の方が目的なのであれば、そんなことのために税金を投入されるのは理解し難い。(まあ、しばしば理解できないことをしてくれるのが国なのだと思うけれど。。。)

とにかく私は、既存の塾が「公立塾」を恐れているという発言よりも何よりも、設定される基準によっては、結局は子どもはそこに行きたがらず、準備のために大量の税金が使われ、ムダに終わるというようなことが起きはしないかということが気になる。

学校や児童館などの公の施設を使って、本当に無償に近い形で先生方が子どもを指導するというのであれば、大して予算が必要になる訳でもないだろうから(といっても、お役人のやることの「予算」の感覚は一般企業や一般人とは明らかに大きくずれているようでもあるので、私企業がやるより遥かにお金がかかるのだろうなとは思うけれど。。。。。。)まあ試しにやってみれば?とも思わなくはないが、仮に指導者にある程度の報酬を支払うということになるのであれば、生活保護の延長のような制度として、必要な人が申請すれば、私塾に通える程度の費用を援助する、もしくは無利子または超低利子で貸し付けるなどするという方法など、もっと他にやり方があるような気がする。

発表されている情報がまだあまりに少ないので、今後どういった方向へ進むのかわからないが、私にはどうもこれは「いい政策」のようには思えない。

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2006年4月22日 (土)

深夜更新予定です。

今週もあっという間でした。

そして1日は本当に早くって、気づけば今日ももう22時半。
書きたいことはあるのですが、後ほど更新させて頂く予定です。

どうぞ宜しくお願い致します。

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2006年4月21日 (金)

考えさせる(2)

この本で「ウサギ殺しの少女」を喩えにし、宮本先生がおっしゃりたかったことは、可愛いからといって手をかけ、何でも手伝って、その結果、子どもの生きる力、考える力を奪って、結局は「人」としての「死」に追いやっているということではないかと思うのです。

少女は動物が大好きで、赤ちゃんウサギに触ってしまうより以前から、ウサギ小屋の掃除などもし、お母さんウサギの世話などもしていたという設定になっているのですが、好きで可愛くて仕方なくて、つい触れてしまった。その結果、赤ちゃんウサギを死に至らしめてしまった。この喩えは私にとってあまりにも重いものだったのです。

私は子ども達が大好きです。塾に勤めていたときからずっと、ひとりでも多くの子にできる喜びを味わってほしいと思って頑張ってきたつもりでした。けれど、わかり易く教えれば教えるほど、ジレンマに陥っていったのです。
要するに、私がしていたことは、彼らの生きる力、考える力を萎えさせることだったのではないかと気づき、愕然としたのです。

独立を決めたとき、素晴らしい先生と今の指導法、宮本先生を初めとした素晴らしい先生方の著書に出会ったことで、私の考え方は180度近く変わりました。

いかに教えず、気づかせるか。子ども自身に考えさせるか。
今はそのことしか考えていないと言ってもいいぐらいです。

最初の頃は不安で仕方ありませんでした。
新しい内容に進むときも、まずやってみてとプリントなどを渡すのです。もしできれば私はマルを付けるだけ。それでお月謝を頂いていいんだろうか。。。ずっとそれが気になっていました。

教材だって、勤めていた頃は、教材費を頂いているのに使わないものがあってはいけないと言われていたし、やらずに残すのはもったいない(?)気もして、極力全てをやるようにしていたのに、今では1枚のプリントのうち数問やらせてみて、できていれば残りは手付かずのままおしまいにすることもあるのですが、それもいいのかと不安でした。

けれど、実際、その方が子どもは楽しくやれるし、1問に対する集中度も上がるし、頭にも残るのです。本当にいいことだらけ。(これに関しては小学生についてで、中学生などはある程度の量をこなす必要もあるかと思いますが。)

もちろん、私は子どもに気づかせるために必要な教材や教具を考えたり、わからないときには小出しにヒントを出せるよう準備はしたりしていますが、昔と今では指導スタイルは全く変わりました。

それでも、今の方が明らかに子どもたちは伸びているし、頭にも残っている。それは間違いありません。
教えなくたって、子ども達は初めて見る問題にでも自分なりに挑んでいきますし、考えている姿はとてもカッコイイものです。「知らないことだから初めに説明してやらねば」というのは、ある面では大人の勝手な思い込みに過ぎないのだと最近では思っています。

なぞなぞやパズルなどが好きな子達は、本来あれこれ考えることが好きなのです。
誰でもわかる簡単ななぞなぞなんて結局は楽しめないのと同じで、ちょっと骨のある問題の方が解き甲斐もあるのではないかと思います。
パズルの組み立て方、解き方を全部教わって、その通りにやってできたって、ちっとも嬉しくないように、説明を聞いてその通りにやって解けたって、結局何にも楽しめないのです。

幸いなことに、これまで「ちゃんと教えてくれない」と文句を言った子はひとりもいませんし、やり方を教えないことでお家の方から苦情を言われたこともありません。

もしこの先、「やり方を教えてくれないからイヤだ」という子に出会い、私の考えを伝えても納得して頂けないようなことがあれば、私は迷わず、「やさしく手取り足取り教えてくれる、昔の私のような先生」のところへ行って頂こうと思っています。

宮本先生のこの言葉がとても心に残っています。

「ウサギ殺しの少女ケース1はかつての私です。流血教師も熱血教師も間違いでした。二度と同じ過ちは繰り返しません。」

私は「流血教師」だった時代は一度もありませんが、一所懸命なつもりで子どもの考える力を奪う指導は、この先もう二度としないと、深く心に刻んでおこうと思っています。

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2006年4月20日 (木)

気が長い

今日、小学校高学年の男の子がお母さんと妹さんと一緒に体験に来てくださった。「利発」という言葉がぴったり来るような、とても賢い男の子だった。
この子だったら、本人が興味を持っているし、わからないことが気持ち悪いようだから、きっと相当のレベルまで行くんだろうなぁと思いながら、彼に何かやってもらいながら、お母さんとお話をしていた。

まだ学年としては習っていないのだけれど、彼自身が興味を持って、先の学年の参考書などを買って色々勉強しているらしく、分数の割り算のことを質問された。

結局、最終的にはひっくり返してかけるということになるのだけれど、テクニックを教えるのは後で構わないと思っているし、そのテクニックさえ、できることなら子ども達自身で発見してもらいたいと思っているので、考える手立てをいくつか示すに留まった。

彼は本当に感心なことに、納得しないと「わかった」とは言わない。正直言って、短時間で唐突に分数の割り算だけを説明しても、その場で完全に理解できるとは私も思っていなかったし、多分半分わかったかわかってないかだろうなというところで次のレッスンの時間が迫っていたので、もしこれから一緒に勉強できることになったら、またゆっくりやろうということにした。

そのやり取りを見ていてなのか、お母さんが私に尋ねられた。

「先生、気が長いですか?」

とっさのことだったし、お母さんが言いたいのはきっと、他のお母さんたちからしばしば伺っている、「自分の子には我慢できずに口出ししてしまう」という類のことだろうとわかったので、「そうですね」と答えてしまった。

でも、その親子をお見送りした後、ふと考えた。
「気が長い」とか「忍耐強い」とかっていうのは、何か腹立たしいことやイライラすることがあっても、それを我慢するということなのではないかと。
そうだとしたら、私は決して気は長くないし、忍耐強くなんて微塵もない。しんどいことを我慢してコツコツやるなんて、私は大の苦手だ。

要するに、私は子ども達に対して「我慢して怒らない」のではなく、そもそも全く腹が立たないのだ。考えることに時間がかかっていたって、それに対してイライラしないのだ。

実際、私は大人に対しては忍耐強くない。お年寄りならともかく、ATMで若い人などが後ろの状況とかに全く気づかずもたもたしているとイライラするし、通行の妨げになっている違法駐輪や違法駐車などには、心の中でぶつぶつ文句も言う。面倒なことは嫌いだし、どう考えても私は気が長いとは言えない。

実際、子どもに対しても、ルールを守らなかったり、人を傷つけるようなことを言ったときには容赦なく怒る。

多分ただ単に、時間がかかろうとも、理解しようとしている子に対しては、腹が立ったりイライラしたりするという感覚が私にはないだけなのだと、そんなことに今日改めて気づいた。

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2006年4月19日 (水)

何気ないひと言

今日仕事に向かう途中、小学1年生らしき女の子とお迎えのお母さんとすれ違った。
まだ真新しいランドセルをお母さんが持ち、中を手で探りながら歩いていたのでなんだか目に留まった。

お母さんが女の子に向かって尋ねるのが聞こえた。

「ご飯ちゃんと食べられた?」

女の子は「うん」と答えた。

その次にお母さんの口から出たのはこんな言葉だった。

「うそぉ。残したんじゃないの?」

すれ違いざまに聞こえたその言葉に、私はなんだか少し悲しい気持ちになった。

もちろん、親子なのだし、もしかすると普段その子はあまりご飯を食べないのかもしれない。好き嫌いが沢山あって、いつもご飯の残しているのかもしれない。
それに、お母さんも軽い気持ちで言っただけで、その子も何も感じていないかもしれない。

だけどなんだかひっかかった。

入学してまだ日も浅い女の子。1年生になったんだからと、きっと色々なことに頑張ろうと思っているのではないだろうか。
仮に普段好き嫌いをしていても、学校では頑張って食べたのかもしれない。もしもそうだったら、彼女はお母さんの言葉をどう感じるだろう。

せっかく頑張って食べたのに、うそつきだと思われた。。。
万一彼女がそう感じたら、この先彼女はもう頑張って嫌いなものを食べようとか、残さず食べようとか思わなくなってしまったりはしないだろうか。

もし仮に、彼女がお母さんに嘘をついたのだとしよう。実は食べられなくて残したけれど、言ったらお母さんに叱られる。。。そう思って嘘をついたのだとしても、彼女が「残さず食べた」と言ったとき、お母さんが「そう、よく頑張ったのね。さすが1年生ね。えらいわね。」そんな言葉をかけていたら、嘘をついてしまったことをほんの少し悔やみながら、次は頑張って食べようと思ったりはしないだろうか。

嘘をつくことで、誰かが傷ついたりするのであれば、そういう嘘はついてはいけないということをしっかり指導すべきかもしれない。
だけど、彼女の言葉は仮に嘘だったとしても、誰も傷つかない。仮に嘘だったとして、それはお母さんに叱られるのが嫌でついたのかもしれないけれど、もしかすると、大好きなお母さんをがっかりさせたくなくてついたのかもしれない。

それに、何よりそれが嘘でなかったとき、彼女は悲しい思いをするのではないだろうか。

今思えば、子どもの頃自分がついた嘘なんて、母には全部嘘だとわかっていたのかもしれない。それでも私の言葉を信じてくれた母に対し、「なんだ、お母さんを騙すのなんて簡単だ」なんて思ったことは一度だってない。嘘をついているのに、それを信じてくれた後には必ず、何だが気持ちが重くなったものだ。

すれ違いざまの一瞬のことで、その親子の背景も何もわからないけれど、なんだか少し考えさせられたひと言だった。

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2006年4月18日 (火)

考えさせる(1)

さっきテレビで宮本先生の算数教室と宮本先生ご自身が特集で紹介されていました。
これまでお写真では見たことがありましたが、動いて(?)おられる宮本先生を拝見したのは初めてで、なんだか感激してしまいました。

1学年20人だけの算数教室ということで紹介されていましたが、伸ばす秘訣は「教えないこと」というスーパーが出ていました。

宮本先生がインタビューに答えてお話されていましたが、飄々とした雰囲気で淡々と話されるにも関わらず、やはり子どもへの愛情をひしひしと感じました。

「教えない」はイコール「考えさせる」ということなのだと思います。
考えさせるための効果的な手立てが、教えず苦しめる(と先生は表現しておられました)ことなのだと。
「苦しめる」という言葉だけを聞けば、子どもになんて仕打ちを。。。と思う方もおられるかもしれません。けれど、宮本先生が子ども達を「苦しめている」のは、そこを経て子ども達が伸びる、より幸せになれる、それを確信しているからなのだろうと思うのです。

宮本先生の「強育論」を読み終え、その後ずっとずっと自分の中に強く残っている思いがあります。

「もう絶対、うさぎ殺しの少女にはなりたくない。。。」

先生の著書に、こんなことが書かれていました。

赤ちゃんうさぎが可愛くて、少女は思わずうさぎに触れてしまう。
そして、帰る時間が来てうさぎを親の側に戻そうとしたが、親は赤ちゃんうさぎを遠ざける。そこで少女は思い出す。「ウサギの赤ちゃんに触ってはいけない」と言われていたことを。何度戻しても親は遠ざける。気になりながらも少女は家路につくが、翌日一番に見にいくと、赤ちゃんうさぎは冷たくなっている。

そんな例が挙げられていたのです。可愛くって触れてしまった少女は許されるのかと。そんな内容だったと思います。

ものすごく重い言葉だと思うのです。
そして、昔の私は「うさぎ殺しの少女」だったのではないかと思うのです。

思えば、独立するまではずっと、どうやって教えるか、いかにわかりやすく説明するかということばかり考えていたように思います。

どうやってわからせるか。
ある意味、それが全てだったと思うのです。

難しい言葉をわかりやすい言葉に言い換える。何通りもの説明を考える。わかりやすそうな教材を探す。そんなことは色々努力したつもりでした。
(続きます)

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2006年4月17日 (月)

不器用な生き方

ときどき、自分ってなんて不器用な人間なんだろうなと思うことがある。
普段はあまり考えないのだけれど、何かちょっとした事件が起きたりすると、改めてそれを思い知るのだ。

先日来、書籍紹介の方のブログに正直言って私にとっては「得体の知れない」と表現したい、上手くいえないが、それを見ると気持ちが悪くなるような、体調を崩しそうな、そんな空気を持った書き込みがいくつか並んだ。

一番初めは、まだ読み始めたばかりのその本を(タイトルを書くとそれでまた新たに検索に引っかかりそうなので控えおきます)紹介したときにいきなり、挑発的とも取れるコメントがついた。
無視しようかとも思ったし、削除しようかとも思ったけれど、本当に「得体の知れない」人種だったら、それがかえって相手を刺激して、やっかいなことになってもイヤだなと、どうにかコメントを返した。

その後、きっともう来ないだろうと思っていたのに、ご丁寧にまた、やはり何を言おうとしているのかわからないコメントを残され、同じ人なのか違う同種の人なのか、似たような空気のコメントが並んだ。

正直かなり憂鬱な気分になった。この本を紹介するんじゃなかった。。。そう思った。ブログを読んでくださっているお知り合いにチラッと愚痴ったら、自分なら記事ごと削除すると言われた。

確かにそうだ。これ以上来られたくなければ、あの本さえ紹介から削除してしまえばいいのだろう。これまで他の本ではただの一度もそんなことはなかったのだから。
正直なところ結構迷った。この本に拘って、折角これまでコツコツと積み重ねてきたものを一気に崩されかねない不安と紹介記事を削除する躊躇いを天秤にかけ、それでも結局削除はできずにいた。

そのうち、見ず知らずの方から、立場はやや対立する意見ではあったけれど、素晴らしいコメントを頂けた。かなり救われた。
そして、改めて追記を書いた。そこに新たにステキなコメントを頂けた。これでもう大丈夫だと思った。

しかし、昨日のアクセスを見ていると、ある特定のリンク元からのアクセスがかなり集中していることに気づいた。そのリンク元に行ってみたが、アダルトサイトに繋がるバナーが大量に並んだページの一番上に、私の追記記事のURLが出ているだけの奇妙なページだった。

わからないなりに調べてみたところ、どうやらそれは某有名巨大掲示板のどこかに私のその記事へのリンクがはられているということらしいということまではわかった。
けれど、その掲示板があまりに巨大過ぎて、一体どこにどんな風に紹介されているのかは結局付き止めることができなかった。

正直言ってどうしてもわからない。私はただの1冊の本を紹介しただけだ。それも、幼少期に無防備にメディアに触れさせることの危険を伝えたかっただけで、特定の誰かを批判した訳でも攻撃した訳でもない。いい本だから読めと言ったつもりもない。
読んでどう感じるかは人それぞれだと思うけど、ひとつの意見として読んでみてほしいと思ったに過ぎない。

その何がそこまで特定の誰かの癇に障ったのかが本当にわからないのだ。

あのブログを荒らされるのはもちろんイヤだ。この先もまだ何か起こるのかもしれないと思いながら過ごす時間は不毛にも思う。
お知り合いがアドバイスしてくれたように、さっさとあの本だけをコメントごと削除して、何もなかったことにすれば、そのうち忘れることなのかもしれない。

そう思うのに、どうしてもその決心がつかないのだ。

自分は誰かを誹謗中傷したつもりもない。誰かにケンカを売りたいわけでもなんでもない。ただ、いつも紹介しているのと同じように、自分が読んだ本の1冊を紹介しただけだ。
なのに、こんな形で何かに屈して、その記事を削除することがどうしてもイヤなのだ。

私は昔っから、力で押さえ込まれるとかってことが大嫌いだ。その力は時には暴力であり、時には権力であるかもしれない。
とにかく、たとえ力で叶わないとわかっている相手でも、自分の信じるところをそれによって曲げるのは、殴られるのと同等か、もしくはそれ以上にイヤなのだ。

その昔、まだ塾に勤めていた頃、ある日塾の1階で誰かが叫んでいるのが聞こえた。何事かと思って降りてみると、知らない子達が3人でうちの塾生の中3の男の子を囲み、塾の前でそのうちのひとりが塾生に殴りかかったのだ。
詳しいことはもう忘れてしまったが、3人のうちの1人に対して塾生が何か怒らせるようなことをしてしまったようで(それは本人も自覚があるようだった)、その子がなぜか全く関係ない子を2人引き連れて塾にやってきて、連れてきた子が彼に手を出したのだ。

もし仮に、彼が怒らせた子自身が1人でやってきて、彼と1対1でケンカをしたのなら、もしかしたら私は止めなかったかもしれない。(状況によるが。)けれど、なんで本人じゃないのが2人も一緒に来て、その関係ないのが手を出すのか全く理解できなかった。
それは明らかに卑怯だと思った。

ただ、相手は中学生の男の子3人。こっちは私ひとりだ。正直怖かった。だけど、もしここで傍観したり、見ないふりをして逃げたら、多分この先ずっと後悔する。そう思った。
殴られるかもしれない。。。そう思いながら、手を出した子ども達に向かって怒鳴りつけた。

少なくとも塾の前だ。他の子ども達への影響だってある。おまけに3人で来るなんて卑怯過ぎる。殴り合いになりかけているのを引き離し、手を出した子をじっと見つめて怒鳴りつけると、その場から3人で走り去った。とりあえず大事に至らず、みんな授業に戻った。

その日授業をしながら考えていた。帰りにどこかで待ち伏せされるかも。3人で囲まれたら、力では叶わないな。。。正直怖かった。だけど、殴られたって、何をされたって、だからって「あのとき止めずに傍観していればよかった」という後悔だけは絶対しないな、だからそれでよかったんだと思ってもいた。

幸い、その考えは杞憂に終わり、その後何も起きることはなかったが、今回ふとそのことを思い出した。
それはひとつの例で、これまで幾度となくそんな「不器用な選択」をしてきたように思う。

仮にこの先私自身が、色々な意見に触れ、文献に出会い、経験を重ねた結果、これまで紹介している書籍に対して何か考えが変わることはあるかもしれない。そうなったとき、自分の判断で記事を削除したり、訂正したりすることはあるかもしれない。
けれど、外的要因でそれをするのはどうしてもイヤなのだ。

ありがたいことに、昨日普段よりかなりアクセスが多かったにも関わらず、何も嫌なことは起きなかった。
もしもこの先、また何か気分が重くなるようなことが起きて、そのことで読んで下さっている方にまで嫌な思いをさせてしまうようなことになったときには、何か対応を考えなくてはならないと思うが、とりあえず今はそのままにしておこうと思う。

どうしてこう融通が利かないんだろうと思わなくはないけれど、これが私なんだから、これからもそんな自分と付き合っていくしかないなと思う。

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2006年4月16日 (日)

お母さんの笑顔

昨日は久しぶりに高校時代の同級生のお宅に、独身の友だちと一緒に招いてもらい、料理上手の同級生の手料理を堪能しつつ、おしゃべりに花を咲かせた。

この同級生一家は本当にステキで、私的に「理想の家族」だなぁといつも思う。
で、そんな理想の一家の長女、長男はありがたいことに私の教室の子たちでもある。

規則正しい生活をさせ、悪いことをしたらしっかりと叱り、体によい美味しいものを日々食べさせて、習い事はある程度以上には増やさず、外遊びもしっかりさせる。
もう本当に子どもにとってこんな素晴らしいことってないと思うぐらい、いい家庭だ。そして、子ども達は本当にいい子達に育っている。(私が育てた訳じゃないけど。(笑))

ただ、改めてしみじみ思ったことは、彼女ら夫婦はいつまでも本当にいい感じに仲がいい。子ども達のこともとても真剣に考えていると私は思っているけれど、口では「こんな可哀想な子達はいない」なんて言いながら、時々は子どもをご両親なんかに預けて2人でデートしたりもしている。

こんなことまで書いたら友人に怒られるかもしれないけれど、友人はいつ見てもすらっとしていてスタイルがいい。Gパン姿もカッコいい。昨日もそれを褒めると、私から見たら羨ましい限りのスタイルにも関わらず、1キロでも太ったら旦那さまにすぐバレるというのだ。
すごいなぁと思った。結婚してもうかなりになるのに、要するに旦那さまは今でもしっかり自分の愛妻のことを見ていて、ちょっとした変化にも気づくということなのだ。

もちろん、お互いに色々努力している面もあると思う。けれど、両親がいつも仲良くしていてくれることは、子ども達にとってはもしかすると何よりも一番嬉しいことなのではないかと思ったりするのだ。

友人の場合、旦那さまのお仕事柄、会社にお勤めのお父さんなどと比べて、家族に関われる時間が長いということもあり、尚更「仲のよい両親」を見ていられる子ども達はすくすくと健全に育つ気がするけれど、多くの家庭では特にお子さんが小さいうちは、お父さんは夜遅くまで仕事で、子どもの寝顔しか見られないということも少なくないのかもしれない。
だけど、そうであれば、旦那さまは奥さんを幸せでいさせてあげることを考えてもらえたらなと思ったりもするのだ。(もちろん、お仕事で疲れていてなかなか余裕もないのかもしれないけれど。)

なぜそう思うかと言うと、これまで子ども達を見てきてなんとなく感じていることなのだけれど、子ども達はお母さんがいつもニコニコ幸せそうにしていてくれることが何よりも幸せなんじゃないかなぁと思うのだ。
お母さんが病気で辛そうだったり、何か嫌なことがあって笑顔が消えていたりすると、多分心配で仕方なくって、他のことが手に付かなかったりするんじゃないかと思うのだ。育児本は数え切れないほど存在するけれど、何よりも大事なのは「お母さんの笑顔」なんじゃないのかなと、そう思うのだ。

じゃあ、お母さんが笑顔でいるためには。。。と考えたとき、すごく単純に「夫婦仲がいい奥さん」はいつも幸せそうに笑っているんじゃないかなと思うのだ。(まあ、もちろん時には笑えないこともあるだろうけれど。)

世のお父さん方にお願いしたい。可愛い可愛い子ども達のためにも、あなたの大切な奥さんに幸せを感じさせてあげてくださいと。
何もそんな難しいことじゃなくって、「これ美味しいね」と料理を食べたり、「いつもありがとう」とお礼を言ったり、「お、今日の服いいね」って声をかけたり、要するに気にかけて、言葉をかけてあげれば、それだけでもいいんじゃないかと思うのだ。

お母さんが満たされた笑顔でいれば、多分子ども達も同じように笑っているんじゃないかなと、そんなことを思う。

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2006年4月15日 (土)

今日もたくさん楽しかった。

昨日のレッスンでの出来事。(ちょっとバタバタしていて昨日は更新できませんでした。。。)

まだひらがなが読めないと伺っていた年中さん。
数字も書けるかどうかって感じだと伺っていました。

正直言って、ひらがなが読めない子とのレッスンは初めて。さて、これからどんな風になっていくのかなぁと結構楽しみにしていました。

レッスンの初めの方で、今日はまず1から3までの数字の書き方を一緒に練習しようとプリントを用意していました。
プリントを見せると、彼はひと言「ぼく書かれへん。」と答えました。

まずは「1」を書いて見せ、同じように書いてみてというと、それは真似して書いてくれました。
次に、2も同じように書いて見せて、書いてみてと言ったのですが、「ぼく2書かれへん。」とまた言います。(笑)

一緒に書こうかと、彼の手を持って一緒に「2」を書きました。上手に書けたので、もう一度今度はひとりで書いてみてもらいました。
そして次に3を書こうとすると、やはり「書かれへん」と言うのです。(笑)

もちろん同じように手を添えて一緒に書き、その後自分で書いてみてもらいました。多少いびつであったものの、上手な3が書けました。

「上手に書けたね~。」と言うと、彼は少し満足げな顔。

そう言えば、昔、私もお習字の先生にこんな風に手を添えて書いてもらったなぁということを思い出し、一所懸命書いた字に沢山まるがもらえたことがすごくすごく嬉しかったなぁと思い返していました。

その後、しばらく他のことをしてから、今度はひらがなに関するレッスンを少ししました。
お母さんのお話では、まだひらがなは読めないということでしたが、これまで目にしてきているものもあるはずだしと、もしかしたら読めるのでは?と思うようなものは「これ知ってる?」「これ読める?」と時々尋ねてみました。
すると、結構読めるのです。側におられたお母さんも驚いておられましたが、大きな声で読みながら、やっぱり彼は嬉しそう。もちろん、私もとっても嬉しい。

できなかったことができるようになること、知らなかったことを知ること、それは本当はこんなにも楽しくってニコニコしちゃうことなんだ。「できたぞ!」って満足げな、とてもいい表情をするものなんだ。

それを見た周りの大人が、「すごいすごい!!」っていっぱい褒めてくれて、もっともっと頑張ろうって思うんだ。間違いなくそうなんだ。

とすると、1年でも長くその状態を続けていってあげれば、子どもは楽しくっていくらでもどんどん学び、新しいことに挑戦し続けるはずなのだ。

頭ではわかっていたことだけれど、彼とレッスンするようになって、改めてそう気づきました。

もう小学生だからとか、もう高学年だからとか、そんなの本当は関係なくって、できたことはどんどん褒めてあげたらいいんだと思います。もちろん、年齢が上がってくると、照れ臭くって何か言い返してきたりするようになるかもしれません。だけど、絶対心の中では嬉しいはずなんです。

できないことを見つけて責めるのではなく、できることを見つけて褒める。それを続けていけば、きっともっともっと多くの子ども達が楽しく幸せに学んでいけるんだろうな。そんなことを思います。

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2006年4月14日 (金)

ハッとするひと言

昨日、4月に年少さんになったばかりの可愛い女の子とカラフルなクマさんの教具で遊んでいたときの出来事。

遊び終えてプラスチックの板状のクマさんを、何も考えず無造作にケースに戻していたときでした。

「やさしくしないとダメ。」

まだ3歳の彼女が突然私に向かって言いました。

もちろん、投げつけていた訳ではなく、ただ無造作にケースの口の部分で手を離していただけなのですが、ケースの中でクマさんたちがカチャンと音を立てていました。

それを見た彼女の言葉にすっかり感激してしまい

「ごめんね。そうやね。クマさん痛かったね。」

そう答え、そのあとは彼女に合わせ、意識的にそ~っとしまいました。

ただのプラスチックのプレートのクマさん。もちろん痛みなど感じるはずもありません。ですが、そんなものにも「やさしくしてあげよう」と思える彼女に本当に感動し、とてもとても嬉しくなってしまいました。

普段、私自身が物を大事に扱わない子どもに対して同じようなことを言うこともあるのに、ちょっと反省もしました。

きっとプレートのクマさんたちは彼女に感謝しているに違いありません。

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2006年4月13日 (木)

ちょっとツボ。

仕事とは全く微塵も関係ないような気がするのですが、こんなのを発見してしまいました。
こういうことを思いつくセンスもすごいと思うし、やってみてそれぞれの感想をまとめているところもなんだか素晴らしい。ん?仕事に関係ないような気もするけど、思いついたことを実際に色々なパターンで試してみて、その結果をまとめるってのは立派な「学習」とも言えるのかも。

とはいえ、ネタは極めてど~でもいいネタですので、お時間のある方だけ覗いてみてください。私は結構ツボに入ってしまったんですけど。(笑)
ひらめきの月曜日 単色弁当

いや~~!!こんなのも見つけてしまいました!!こっちの方が先だったみたいですね。
ダメだ。。。このままでははまってしまうかも。。。気をつけよう。
はっけんの水曜日 青くする実験
しかし。。。見ているだけで食欲が。。。
ホント、ダイエットには効果的かも。(苦笑)

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分子と分母

昨日のレッスンでの出来事。

私はレッスンのとき、極力「説明」を控え、子ども自身に考え、発見してもらうきっかけを与えられるよう心がけているのですが(といっても、それもなかなか難しく、まだまだ修行の身ですが。)、簡単なことで言えば、分数の分子と分母について初めてその言葉に出会う子達にはまず尋ねてみることにしています。

「このどっちかが分子でどっちかが分母なんだけど、どっちがどっちだと思う?」

子や母という漢字を知っている子であれば、そう尋ねられると必ず子どもなりに考えてくれます。そして、これまでのところ尋ねた子全員が「上が分子で下が分母」と答えてくれています。(初めの頃はお母さんが子どもを負ぶっているから上が子どもで下がお母さんなんだと説明してしまっていたこともありますが。。。)

で、理由を聞くとそれなりに答えてくれるのですが、昨日ちょっと面白いことがありました。
いつものようにどちらがどちらと思うか尋ねると、「下が分母」と答えてくれた4年生。理由を尋ねると

「こっちの方が大きいから。」

と答えてくれました。確かに、そのとき渡していたプリントにはまだ真分数しか出てきておらず、全て下の数の方が大きかったのです。
そこで、ひとつ仮分数を書いて、これならどっちだと思うか尋ねてみました。すると、なんのためらいもなく

「ん?こっち。」

と上の数を指差しました。

「そっか。大きい方が分母で小さい方が分子やねんね?じゃあ、そのときどきで分子と分母は変わるんやね?」

そう尋ねると、彼は頷きます。今思えば、そこで分子と分母が同じ数のものを書いてもう一度尋ねてみてもよかったなと思いますが、これまでになかったパターンだったので、とっさには思いつきませんでした。

けれど、「大きい方がお母さん」という考え方はとても有効だと思っていて、本来お母さんが大きくなければおかしいのに、子どもの方が大きくなっているものは「仮の姿」だから「仮分数」というし、お母さんの方が大きいのが「真の姿」だから「真分数」と呼ぶのだと、言葉の意味から理解させていくことがより簡単になると思うのです。

分子・分母は簡単なので説明をしたところで大抵の子はすぐに覚えてくれるとは思います。
だとしても、「上の数字を分子、下の数字を分母と言います。」と説明されたら、子どもによっては漢字の意味さえ考えずに通り過ぎてしまう子だっていると思いますし、中には忘れてどっちがどっちだったかわからなくなる子だっていないとは限りません。
それをまず子ども自身に予想させることで「覚える作業」ではなくなると思うのです。

これは小さな例ですが、色々なことに活かせると思っています。これからもまたご紹介させて頂く予定です。

因みに。。。「大きい=背が高い」ととらえ、上が分母という意見が出る可能性はあるかなぁと思ったりはするのですが、万一「上から押さえつけてるから上が分母!」とかいう答えが出た場合はうまくフォローし切れるかどうか自信がありませんので、その点はどうぞご了承ください。(苦笑)

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2006年4月12日 (水)

変わる瞬間

教室を始めてから7月で丸3年になるのですが、やはりまだまだ毎日が発見の日々で、いくら学んでも学びきれるものではないのだろうとも思っています。

幼児・低学年をメインとした教室で、それまで勤めていた塾での指導とは180度近く変化した子ども達への指導の仕方(正確には、今は「指導」をしているのではなく、アシストしたりフォローしたり、子ども自身が発見してくれるお手伝いをしているという感じですが)に初めは戸惑うことも多かったのですが、それにはもう随分慣れました。

子ども達に対しても、当初は1回のレッスンで最低このぐらいは進まなきゃ、親御さんに申し訳が立たない。。。そんな風に思ってしまうこともあって、子どもがまだ十分に理解できていないかもしれないのに進めてしまうようなこともあったように思いますが、それもかなりなくなって、今は「目の前の子どもの状態」だけを何より優先して考えられるようになってきました。(それがいいかどうかはそれぞれお考えがおありだと思いますが。)

それでもやはりまだまだだなぁと気づかされることが時々あります。
過信や慢心に釘を刺してもらっているようで、ありがたいなと思いながら、そのたび反省し、気持ちを引き締め直します。

今日もそんな出来事がありました。

4月から1年生になった女の子がいます。
すごく可愛くて、理解力などは十分あり、頭のいい子だと感じているのですが、少し甘えたさんなところがあったり、コンディションによって集中が続く日と続かない日があったりで、本来持っていそうな力がまだ十分発揮されていない感じがしていました。

ただ、お母さんは、他の習い事は体験や見学の段階で嫌がったりで、こうして毎週通えているだけでもすごいんですと(私に気を遣ってくださっているところもあるのだと思いますが。)言ってくださっていたので、焦らずちょっとずつだなと思ったりしていました。

幼児のレッスンは多少慣れてくれるまではなるべくマンツーマンでレッスンをするようにしているので、彼女はこれまで私と2人でレッスンしてきました。
そして今日、新年度でタイムテーブルが動いたことなどもあり、ひとつ上の女の子と2人でのレッスンになりました。

1年生になり、彼女なりに何か気持ちの変化があったのかもしれません。更に今日はひとつ上のお姉ちゃんと一緒のレッスンですから、余計何か思うところがあったのかも。

ここしばらくは20までの足し算・引き算をやっていて、足し算はもうかなりすらすらできているのですが、引き算に関してはこれまで、玉の教具を使わないとなかなかやってくれない状態が続いていました。
理解に時間のかかる子であれば、私ももっと気長にいくらでも見せてあげていたと思うのですが、彼女が頭がいいと感じていたせいで、心のどこかで「もう見なくてもできるのでは?なのに、思い浮かべるのが面倒で見たいって言っているのでは?」と思っていたことに気づかされました。

今日のレッスンが始まってしばらくして、引き算のプリントになった途端、やりたくないという態度に変わりました。でも、お隣に2年生のお姉ちゃんがいるからか嫌だとは言いません。
もうできるはずなのになと思いながら、まず1枚目のプリントは教具を直に触っていいことにして解いてもらいました。
次に2枚目のプリントでは教具を目で見てもいいけれど、触ってはダメということにして解いてもらいました。
3枚目のプリントでは見せる時間を短くしたり、簡単そうな問題は見ないで考えてもらったりしていたところ、突然彼女が言いました。

「これいらない。見ないでやってみる。」

すごくすごく嬉しい言葉でした。
と同時に、すごくすごく申し訳ない気持ちになりました。
ふざけていたのでも、考えたくなかったのでもなく、ただ単に彼女の中でまだ教具を使わないでできるという自信が満たされる「そのとき」が来ていなかっただけだったのかもしれません。
もちろん、1年生になったことや1つ上のお姉ちゃんが一所懸命難しい問題に取り組んでいたことも何かきっかけになったのかもしれませんが、とにかく今日その瞬間、彼女の中で「見なくても考えられそうだという気持ち」が芽生えたことに間違いはありません。

その後黙って見ていると、1問、また1問と結局残りの問題は全部、教具を見ずにきちんと正解を出してくれました。
私ももちろんすごくすごく嬉しかったですが、彼女の顔もなんだか誇らしげでした。

小さい子がふざけたり、やる気なさそうにするのは、その問題が難しいと感じている場合があるということはわかっているつもりだったのに、一歩間違えたら、彼女を「引き算嫌い」にしてしまうところでした。

彼女の変わる瞬間を見られたことを本当に嬉しく思いますし、その姿を見られたことで改めて自分を振り返り、反省させてもらえたことに感謝しています。

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2006年4月11日 (火)

今日の出来事

今日もみんなよく頑張ってくれました。
今日のレッスンの中でちょっと印象に残ったことをご紹介します。

新4年生の男の子は今日は大きな数の学習でした。前回、前々回に続いての今日だったので、数に関してはかなりよく理解ができている感じです。

ちょっと話は逸れますが、うちに来てくれている子達を見ていると、ここで初めて大きな数を学習したという子たちはみんな、明らかに私より大きな数の理解が速いように感じます。あくまでも予想なのですが、私は学校でどんな風に教わったか全く記憶になく、その後、大人になったら、数字には3桁ごとにカンマが打たれるということに慣れてしまい、正直言って、3桁ごとの区切りは日本人にとっては全く何の役にも立たない(と私は思っている)ため、結局、「一、十、百、千、万、十万・・・」とつい数えてしまいがちなのに対し、子どもたちは3桁ごとのカンマは知らない段階で、数字は4つずつ区切ってそれぞれの部屋に入るというような学び方をするので、どんな桁の数が出てきても、まず4つずつ区切り、それぞれの部屋に万や兆などの名前をつけるだけなので、多分イメージがしやすいのだと思います。羨ましい。。。

話を戻しますが、その彼の今日の問題の中に「3億-2500万」という問題がありました。(表記もそのまま)
まず、2億になることはすぐにわかったのですが、1億から2500万を取るといくらになるのかを悩んでいました。そして、「100000000-25000000」の筆算を書こうとしたので、その前にちょっと尋ねてみました。

「1万円から2500円使ったらいくらかわかる?」

すると、少し考えて「7500円。」と暗算で答えてくれました。1万円ならちゃんとイメージできるけれど、1億円はイメージできないということなんだなと、なんだか改めて実感したのですが、その質問の後気づいたようで、「あぁ、7500万か~!」と答えに辿り着いてくれました。

また、別の新4年生2人は、今日は角度などの復習などをしたのですが、プリントを渡すと間もなく、ひとりの子が時計を見ました。まだたっぷり時間はあるんだけどなと思っていると、その子がまた時計を見ました。
う~ん、今日はなんだか集中できてないのかな?なんでだ?とふと見ると、「30分は何度か、5分は何度か、40分は・・・」という問題が並んでいたのを、文字盤を見詰めて考えているのだと気づきました。

気づけばもうひとりの子も当たり前のように文字盤を見て、いくつかそれで確認すると、後は見ずにスラスラと解いていきました。

彼女達は30分は180度、15分は90度、1時間で360度、そのあたりは即答です。その後は、15分で90度だから5分ならその3分の1、1分は更にその5分の1という考え方になっているのだと思います。(頭の中を開けてみられないので想像ですが。)

塾に勤めていた頃、結構成績のいい中学生でも、2分の1時間を求めるのに「60×2分の1」の式を書いていた姿を思い出しながら、今目の前にいるこの子達の姿をとてもとても嬉しく思うのです。
大きさ、量を感じる、イメージする。それができることは、算数にとどまらず、とてもとても大切で素晴らしいことではないかと私は思っています。

こんなステキな子達と一緒に学べる私は本当に幸せだなぁと、今日も改めて思うのでありました。

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変身ネタ余談

お蔭様で、声の方は随分と復活し、私的にはまだ若干おかしいなと思っているのですが、子ども達にはわからないまでに回復したようです。(もともと鼻声気味なので、風邪を引いて本人はすごく鼻声だな。。。と感じていても、大抵の場合、気づいてもらえないのです。(苦笑))

変身ネタもこれでそろそろおしまいにしようと思いますが、またもや県民性の違い(?)が現れた出来事を最後にご紹介します。(って、そんなたいそうなものじゃないので期待はしないでください。)

先日、完全な「おっさん声」だったとき、声以外はとりあえず普段通り元気だったので、お知り合いのお手伝いに伺いました。
いきなりだと驚かれるかなぁと思い、事前に「今日の私はいつもとひと味違いますけど、気にしないでください」とメールを送っておきました。

到着した私の姿をしげしげと見るものの、当然外見はいつもと同じです。何が違うんだ?と思ったお知り合いが「ひと味違うんですか?」と尋ねたので

「見てもわかりませんよ(←おっさん声)。」

と言った次の瞬間

「おじさんになってるじゃないですか!?」

との反応。

お手伝いを終えて帰宅し、他県の塾長先生にメールするついでにその出来事をご報告したところ、お返事に

「失礼な。。。」

とひと言。(私に対して「おじさん」と言ったことが失礼だと。)

へ?????失礼なの??????
この声を聞いて「おじさん」とすんなり表現したお知り合いのセンスはなかなかのものだなと感心していた私にはとても意外なお返事。
思わず「いいセンスだと思った」とお返事をすると、

「さすが関西人?」

ですって。。。(苦笑)

そこでちょっぴり不安になったんですけど、これって関西人というか、県民性の違いなんですかね?単に私の感覚がおかしいってことはないですよね??う~ん、どうなんだろう。。。気になる。。。

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2006年4月10日 (月)

葛藤

先日、新6年生の子と5年生の復習をしていたときのこと。
18メートルの針金から1.3メートルの針金は何本取れて何メートル余るかという問題があった。小数の割り算の問題だ。

高学年になってから一緒に勉強するようになったこの子は、徐々に変わってきている感じはするものの、まだ一進一退という感もあり、どうにかして花開かせることができないかといつも思っている。

その問題の答えを見ると、そこには13本取れて11メートル余ると書かれていた。
余りに小数点を付け忘れているのだ。

まず聞いてみた。

「11メートルも余るの?だったら1.3メートルの針金はまだ取れるよね?」

すぐに気づいてくれるかなと思ったが、その子はおもむろに11を1.3で割り始めた。
少し見ていたが、何かおかしい気はしているようだった。

「1.3メートルが13本取れるのよね?」

今度はそう尋ねると頷いたので、それなら何メートル使ったのか尋ねた。
1.3×13をして16.9という答えを導き出したようだったので、ここで「あぁ、そうか」と気づいてくれると思って見ていた。

しかし、なぜか彼のワークには「180-169」という筆算が書かれていた。なぜ点がなくなっているんだろう。。。

「180メートルじゃないよね?18メートルしかないんだよね?」

そう尋ねたが、まだ訳がわかっていないようだ。
どうするか悩んだが、

「じゃあ18メートルから1.3メートルを13本取ったらどれだけ残るか図を描いてみて。」

そう促して待っていた。
しかし、線分図を描こうとしているのだが、なぜかそれを18等分している。それじゃ余りはわからない。
少し言うと、今度はなぜか18メートルと決めたはずの線分図が延びていく。どうやら彼には全く何もイメージできていないようだ。

たったこの1問でかなりの時間を費やしている。
彼は小数の割り算の余りの点の決め方は言えば思いだすことぐらいわかっている。「余りは元の位置に点を打たなきゃいけないんだったよね?」そういえば、ものの数秒で片付くことだ。

けれど、それを言って今できたって、しばらくしたらまた忘れるに違いない。その度思い出させていればいつか「暗記」はするだろうけれど、余りの意味がわかっていないのでは何の意味もないように思えた。

私も腹を決め、今日はもしこの1問で時間切れになってしまっても、とにかく「点のつけ方をもう一度教える」ということだけはすまいと、その子との我慢比べを始めた。

色々な方向から何度か質問をし、それでもなかなかその子は気づいてくれず、延々とああでもない、こうでもないと、そこにある数字をいじくりまわしている。
なんだか自分がいじわるばあさんのような気になってきた。言ってあげればすぐ済むことだ。たったひと言、優しく「余りの点はどこに打つんだったかな?」そう促してあげれば、思い出すだろう。

なんで私はこんなことをしているんだろう。。。この子は私のことを「意地悪だ。。。なんで教えてくれないんだ。。。」と心の中で思っているかもしれない。。。教えて楽になってしまいたい。。。

自分の中で何度も何度も葛藤があった。ホントに何度も言ってしまおうと思った。けれど堪えた。

もう一度尋ねてみた。

「13本取れるのは間違ってないんやんね?」

うんと頷く。

「だったら何メートル使ったの?」

16.9メートルと答える。
さっきおかしくなりかけた線分図をもう一度描かせ、尋ねた。

「16.9メートルってその(線分図の)どのぐらい?」

すると、しばらく考えて、18個に分けてある目盛りの17個目あたりを指した。やっと辿り着けそうだ。。。そう思いながら

「うん、そうやんね。じゃああまりはどれだけ?」

じっと線分図を見詰めた後、その子の口から

「1.1メートル。」

やっとやっと待っていた答えが出た。
そこでようやく、なぜ11メートルではなく1.1メートルなのかを尋ねると、筆算をした式を見て「元の位置につけるから」と答えてくれた。すごくすごく嬉しかった。

心なしかその子の顔も晴れ晴れしているように見えた。

どこまで教えるか、どこまで待つか。
学年が上がってから出会った子達には特にそれ意識するけれど、その加減が難しい。

わかりやすく説明するのは簡単だ。説明さえしてあげれば、子ども達はきっと「あぁそうか、わかった」という笑顔を見せてくれるだろう。けれど、それは所詮その場限りのことになってしまうということを、これまでの経験で何度も感じている。
だから極力それはしたくないのだ。

まるで自分がいじわるばあさんのような気になって、なんでこんなことしてるんだろうと、時には泣きたい気分にもなる。
だから、「説明する」という楽な方へ流れることは容易い。そうした方がその場ではずっと「優しい先生」でいられるし、子どもだって延々と悩まなくて済むのだ。

けれど、子ども達にとって大事なもののため、これからも私は葛藤を続けるのだろう。

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2006年4月 9日 (日)

引き続き変身中

先週はなんだかんだ火曜から金曜まで連日午前中からレッスンがあって、私にしては早起きかつ若干の寝不足が続き、だから余計風邪も治らないのかもと、今日はのんびりダラダラを決め込むことにして、朝も(昼も)ゆっくり起床。起きてからもまだ表に一歩も出ていないのですが、試しに声を出してみると。。。。「誰、あなた?」という状態。

ですけど、やっぱり喉は特に痛くないんですよね。咳も殆ど出ないし。ただ単にハスキーボイス(なんてカッコいいもんじゃないですけど。。。)になっているだけという感じで。
歌とか歌ってみたりすると、明らかに高音部分が出ないので、やっぱり普段の声とは違うんだと思うのですが、何が恐ろしいって。。。。。。

元の声がどんな声だったか忘れました!!!

大丈夫かしら、私。。。

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2006年4月 8日 (土)

変身中(?)

日曜から風邪を引いて、ひどくもならずずっと小康状態だったのですが、今日起きて普段通りに出勤し、子どもに「こんにちは」と声を発した瞬間、耳を疑う声が。。。

喉の痛みも殆どないのに「おっさん」になっています、私。。。
余程のご用がない限り、今日のお電話はお控え頂けると幸いです。

普段の声をご存知の方で是非聞いて笑いたい!という方はご連絡頂いても結構ですけど。。。(苦笑)

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やる気に満ちた顔

昨日の出来事です。

今日からレッスンが始まる新年中の男の子。
これまでにも数回、お姉ちゃんのお迎えのときにお母さんと一緒にやってきて、しばし教室の色々なおもちゃで遊んだりしていたので、教室にも私にももう慣れてくれてはいたと思うのですが、お母さんのお話では彼はどうやらレッスンを「遊ぶ」と受け止めているような不安も少しありました。。。

さて、どんなレッスンになるかしらと、私も少しドキドキしながら親子の到着を待っていたところ、お母さんは車を停めに行かれたとのことで、一足先にお姉ちゃんと一緒に彼が登場しました。

「こんにちは」と挨拶をして、ふと彼の顔を見ると、なんだかいつもと違うのです。
普段は無防備でまだ幼い(まあ、まだ4歳とかなので当然なのですが)子どもの顔をしているように感じていたのですが、今日の彼の顔はなんだかきりっと引き締まった、とても賢い顔をしているのです。
「勉強するぞ!」というやる気に満ちた表情のように見えました。

実際、レッスンを始めてみると、これまでお姉ちゃんを待つ間おもちゃで自由に遊んでいたときとは明らかに違う「お兄さん」な彼の姿がそこにありました。
もちろん、まだ小さいのでレッスン自体は遊びの延長のようなもので、勉強をしているという感覚はほとんどないと思います。それでもやはり彼なりに「今日からお勉強に行くのだ」という気持ちを持って来てくれたのだろうなと強く感じました。

そういえば先日、別のお母さんが聞かせてくださった話があります。
教室では小さい子達はみんな、レッスンのあと、頑張ったねということで飴を2個自由に選べるようになっています。

お姉ちゃんが教室に来てくれていて、弟くんはまだ小さいのでときどきついてくるだけというご姉弟がいます。一緒のときには弟くんにもあげるのですが、ついてきていないときにお姉ちゃんがおうちに帰った後、教室でもらった飴がほしいという弟くん、他の飴ではなく教室でもらった飴じゃなきゃイヤだというお姉ちゃん、そんなことがあるそうです。

「教室でもらった飴にはプレミアムがつくんですかね。」

確かそんなことをおっしゃっていました。
そのときは笑いながら、面白いですねとお返事していたのですが、もしかすると子ども達にとって、ここはいくら楽しくてもやはり「お勉強」をする場所で、だから普段の日とは気持ちを切り替えるし、頑張った後もらった飴にはいつでも手に入る飴とは違った価値を見出しているのかもしれない、そんなことを思いました。

子ども達の顔からまぶしいほどの「やる気」が消えることのないよう、しっかり頑張っていかなくてはと改めて感じた出来事でした。

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2006年4月 7日 (金)

すみません。。。

今日も色々ありました。楽しい1日でした。(って、まだまだ終わりそうにありませんが。。。仕事自体は。)

今日中に更新できるかどうか微妙です。
元気だったら深夜に更新しま~す。
風邪も治さなければ。。。

どうぞ宜しくお願い致します。

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2006年4月 6日 (木)

日々発見

正式にはまだ年少さんの受け入れはさせて頂いていないのですが、姉妹で来てくださることになった方の妹さんを「うちの子を実験台にしてもらって構いませんので」とおっしゃるお母さんの気持ちに負け(?)、私も一緒に勉強させて頂くつもりで今月から年少さんの女の子とレッスンをさせてもらっています。

もちろん、年長さん、年中さんと徐々に受け入れ対象年齢を下げてきていましたし、年少さんといってもかなりしっかりしたお嬢さんなので、レッスン自体は殆どイメージ通りかそれ以上に何でもやってくれています。

けれど、毎回何か新しい発見をさせてもらえるので、本当に感謝しています。

一番初めに来てくれたとき、3までだけの目でできているサイコロを転がして遊びながら、出た目をすぐに答えてもらっていました。
1、2、3は見た瞬間にすぐ答えてくれます。出た後すぐ隠してもちゃんと答えられます。それはもう完璧だったので、試しに
「よくできているから、もうちょっと難しいことやってみようかなぁ。」
そう言ってから、5までのサイコロを取り出して転がしてみました。
4の目が出たのですが、答えてくれません。どうするかな?と思っていると、おもむろにサイコロの点を指差しながら
「いち、に~、さん、よん。あ!4!!」
と答えてくれました。

玉を見せても、3までは本当にスラスラ答えてくれるのに、4や5になった途端、1から数え始めるのです。
3までわかるから、その続きから数えるのではなく、「1」から数えるのです。

ひとつひとつ数えさせる癖はできるだけつけたくないので、5までのサイコロや玉はもちろんさっさと片付けましたが、それはちょっと新鮮な発見でした。

もともと、年少さんはまず1から3までをしっかり実感し、体得してもらってからしか5までの数には進まないことになっています。けれど、大人の感覚では3までがスラスラわかっている子であれば、4はそれより1大きいのだから簡単なのでは?と思っていたのです。実際、年中さんであれば、これまで見てきた子ども達はみんな、4や5もすぐ答えてくれていたのです。
「最初はまずは3まで」と言われていた意味を彼女が私に実感させてくれました。

今日ははさみを使った後、はさみの絵が出てきて、実はそのはさみの絵には刃が片方なくなっていて、足りないところはどこかを尋ねる問題だったのです。

はさみ自体も結構上手に使っていましたし、それがはさみというものだということも知っていましたから、片方の刃がないことぐらいすぐわかるだろうと思っていました。

けれど、彼女の反応は予想外でした。どこか足りないところはないか尋ねても、そのはさみの絵がおかしいことはわかっているようなのですが、うまく説明できません。
実際のはさみを開いたり閉じたりしながら見せて、開いた状態で描かれている絵と見比べてもらったのですが、彼女の答えは「刃が足りない」のではなく、「刃がひとつに重なっている」という意味のことなのです。持ち手の部分は開いているのですが、彼女には刃は閉じていると感じるようでした。

持ち手が開いていると刃も開く、持ち手が閉じていると刃も閉じる。
それは大人にとって、いえ、ある程度大きくなった子どもにとっても当たり前のことですが、はさみをまだあまり使ったことのない、3歳の彼女には「当たり前」じゃないということ新たに教えてもらいました。

その問題は結局、足りないところに刃を描き足して、その絵と実際のはさみを見比べてもらい、それで同じ絵になったことを確かめてもらった上で、「ここが足りなかったんだね」とどうにか納得してもらうことはできました。

小さい子どもが「わからない」というときは、それを理解するだけの経験がまだ足りていないということだとは、私自身がこれまで学ばせてもらったことなので、子どもが「わからない」ということがあっても、のんびりじっくりやればいいと思っていますが、3歳の彼女はこれからもまだまだ私に色々な発見、実感をさせてくれるのだろうと、とっても楽しみです。

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2006年4月 5日 (水)

エッセイ

ちょっと記事が消えたことから立ち直りきっていないので、軽めのお話を。

ブログがご縁で、春休みの間何度か教室に来てくれている可愛い女の子とそのお母さん、弟くん。

お母さんがとてもあたたかい、感じのいい方で、お話の仕方も私とは正反対のように穏やかでほんわかしていて、羨ましくなってしまう。(私は子どもの頃からずっと母親に「そんな怒ったみたいなものの言い方やめなさい」と言われ続けたものだ。。。)

そのお母さんが今日思いがけないことを言ってくださった。

「先生のエッセイ楽しみにしてるんです。」

え?えっせい??
一瞬何のことかと思った。でも、読んでくださっているのはブログしかないので、お母さんは私のこのブログのことをそう呼んでくださったのだろう。

もちろん、そんな文才があるわけでもなく、日々書きたいことを書きたいように書いているだけなので、そんな風に言って頂くとお恥ずかしい限りなのだけれど、それでもやっぱり嬉しかった。

そしてふと思い出した。

私は中学生のある時期、詩人かエッセイストになりたいと思っていた。上手い下手は置いておいて、文を書くのは好きだったし、詩やエッセイを読むのも好きだったから、いつかなれたらいいなと思っていた。

けれど、中学で恩師に出会い、夢は中学校の先生になることへと変わり、ものを書く人になる夢はそのまま忘れてしまっていた。
たまに思い出すことはあっても、その頃には自分の文才のなさにも気づき、そんなのはただの子どもの夢だったんだと思うようになっていた。

それでもやはり私は書くことが好きなんだと思う。書くことで自分を表現することが好きなのかもしれない。

本を出版するなんてことは多分この先もあり得ないけれど、こうして書いている文を楽しみにしてくださる方がひとりでもいてくださって、なんだかとても幸せな気分だ。

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き、消えた。。。

結構な長編を書き終えつつあったところでブラウザが強制終了しました。。。かなりショック。。。もう一度書けるかなぁ。。。
ショック過ぎるので、なんか軽めのネタでも書こうかしら。。。

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2006年4月 4日 (火)

思いがけないこと

先日、問合せのお電話を頂きました。
問合せを頂くときは、教室のサイトを見てくださった方がメールなどを頂くか、たまに出す広告を見てお電話やメールを頂くか、そうでなければどなたかのご紹介が殆どです。

なのに、今回お電話をくださった方は「外から教室を見て」ご連絡を下さったとおっしゃる。
珍しいこともあるものだなと、余程近い方なのか、目に留まったあらゆる塾に問合せをされているのか、そんな感じなのかなと思っていました。

そして今日お母さんがお嬢さんたちを連れてお話を聞きにきてくださいました。
やはり気になったので、「たまたま見つけてくださったんですか?」とお尋ねすると、少し躊躇いがちに、ある方の名前を出されました。

それはあまりにも意外な名前で、正直すごく不思議な気になりました。
というのも、「ここがとってもいいよって〇〇さんに伺って。」とおっしゃるその方というのは、去年の夏休みから、学校が少し遠いこともあり、隔週というイレギュラーでレッスンに来ている中学生の子のお母さんだったのです。

お母さんと直接お話をさせてもらったのは、最初にお話を聞きに来てくださったときだけで、あとはたまに何か用事があって電話でお話したことがあるだけなのです。それも、用件だけで済ませてしまうほど、ゆっくりお話したことがないのに。。。

そのお母さんが別の方に、ここはいいよってご紹介くださったなんて、正直言って本当に驚きました。そして、とてもとてもありがたいなぁと思いました。
何を「いい」と評価してくださったのかはわかりませんが、ここに来てよかったと思ってくださっているということなのだと思うので、何よりもそれを嬉しく思いました。

このところ、仕事が自分のキャパを超えているらしく(どうも脳みそのキャパが狭いようで。。。)スケジュールでうっかりミスをしてご迷惑をかけてしまったりということが重なり、ちょっと自信を失いかけていたのですが、反省すべきはしっかり反省し、新年度、気を引き締めて頑張っていこうと思います。

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2006年4月 3日 (月)

ゲームとにんじん

昨日、「脳内汚染」の紹介記事をUPしたところで、本当はもっともっと深刻に考えて書くべき内容なのかもしれないけれど、本を読み終わる前から考えていたことでもあり、書くことが全くの無意味だとも思わないので書いてみることにします。

今日、出勤途中、中学生ぐらいの男の子が自転車をとても変な格好で押しながら歩いている姿が目に入りました。
自転車のハンドルに両肘をつくような感じで自転車を支え、横断歩道に差し掛かったのですが、目の前の信号は赤。右からは車が近づいてきていました。

幸い、車のスピードがあまり出ていなかったことと、距離があったことで、彼は何事もなく赤信号の横断歩道を悠々と渡りきりました。
しかし、渡っているときも渡った後も、車が自分の側を通り過ぎたにも関わらず、彼の姿勢は全く変わらぬままです。

一体何をしているだろうと、少し早足で近づくと、その手には小型のゲーム機が握られていました。
彼は自転車を押しながらゲームに夢中だったのです。そのせいで、信号が赤であることも、車が近づいてきていることも全く気づかないままだったのです。

一歩タイミングがずれていたら、間違いなく大事故でした。最悪の場合、彼は命を落としていたかもしれません。もしそうなれば、命を落とした理由は「歩きながらゲームをしていて」ということになるのです。
とても悲しく、とても恐ろしいことです。

「脳内汚染」に書かれていたこととは別に、私は以前からずっと思っていました。
今教室に来てくれている子達も、多くの子がゲーム機を持っていて、時間の制限などはあるとしても、少なからずゲームをやっている子が殆どです。

低学年のうちは可愛らしい、そんなに刺激もないゲームから始まるのでしょうけれど、子どもの能力はあらゆる面で伸びるのですから、より高度で複雑なゲームだって、大人より簡単にできるようになっていくでしょう。

更に、私はやったことがありませんが、RPGなどになれば、時間を決められたって途中でやめるなんてことは多分不可能だと思うのです。少なくとも、私が子どもだったら無理です。

正直なところ、私の子ども時代に今みたいにゲーム機が普及していなくて良かったと心から思います。
実は私は昔で言えばテトリスやぷよぷよ、トランプゲームなどの考える必要のあるゲームがかなり好きです。大人になって、友人の影響でそういうゲームを覚え、やり始めると止まらなくなるということが自分でも嫌というほどよくわかっています。

ですから、最後の砦として、ゲーム機だけは買うまいと決めています。どんなにPSやDS、その他のゲーム機が普及しようと、流行ろうと、絶対それは買わないと言い聞かせています。買ったら最後、時間のコントロールをする自信がないからです。

もちろん、仕事に支障が出るようなことはしないとは思います。ただ、本来なら本を読んだり、あれこれ考えたりするために使えるはずの時間をゲームに費やしてしまうであろうことが目に見えているからです。
実際、ゲーム機は買っていないものの、最近ではパソコンでも色々なゲームをすることが可能になっているため、ゲームを全くやっていない訳ではなく、休日などに息抜きのつもりでちょっと。。。とパズル系のゲームなどを始めたら、気づけば数時間経っているということは決して少なくないのです。

大の大人である私でさえ、こんなにも自信がないのに、まだ発達途上の子どもに大人でもはまるようなものを与え、一定時間で切り上げなさいと言ったって、そんなのは不可能なのでは?と真剣に思っています。

買ってやりながら、自由に使ったらダメよっていうのは、馬の目の前ににんじんをぶら下げて、だけど食べたらダメよって言っているのと同じことのような気がするのです。

にんじんを見ることなく我慢しろと言われたらできる我慢も、目の前にあるにんじんを食べるなと言われたら、その我慢は遥かに難しいのではないでしょうか。
なかったら諦めもつくけれど、そこにあるのに食べてはいけないなんて、どうして理解できるでしょう。仮に理解できたとしても、だったら初めから見せない方が、ずっと優しいのではないかと思うのです。

子どもにゲーム機を買い与える大人の多くは、そんなに深く考えず、お誕生日などにほしいと言われて買ったとか、本当は買い与えたくなかったけれど、持っていないと友だちの間で仲間はずれになるからと思って買ったとか、そんなところではないかと思います。
そして、初めに1日にやっていい時間を決めるなど、何らかの約束事をするのではないでしょうか。
けれど、どれだけの子どもがその時間を約束通りに守っているのでしょう?特に、小型のゲーム機などを買い与えてしまった場合は、親の目の届かないところでいくらでもやり続けることは可能なのです。

今日の自転車を押していた彼も、そのゲーム機は親が買ってくれたのかもしれません。けれど、そんなにしてまで息子がゲームをしていることなど、親は夢にも思っていないでしょう。
携帯ゲーム機で子どもが命を落としていたかもしれない。そして、それは何も今日の彼に限らず、数え切れないほどの子どもにその可能性があるのかもしれないのです。

以前ブログに書きましたが、小学校の同級生で家にテレビがない子がいました。けれど、その子はそのことでいじめられたり、仲間はずれにされたりしていた記憶はありません。

もちろん、時代も変わっていますし、ちょっとでもみんなと違うことがあれば、それをいじめのネタにしてしまうような子達も少なからずいるかもしれません。けれど、親が確固たる信念の元に、我が子にはゲーム機は与えないと決め、その理由をきちんと子どもに説明し、その代わり、親子で遊べるトランプやボードゲーム、パズルなどをして過ごせば、子どもの心が満たされないということはないと思うのです。心が強く、安定している子は、いじめの対象になったとしても、親に相談することもできるかもしれませんし、自らそれに立ち向かっていくかもしれません。

まあ、そうは言っても、昨今のいじめはどんどん陰湿化し、エスカレートしてもいるようですから、簡単に言ってはいけないのかもしれません。それでも、ゲーム機を与えてしたいだけさせてもらえる子どもと、ゲーム機は与えてもらえないけれど、その分家族みんなでゲームをしたりおしゃべりをしたりして過ごす子どものどちらが幸せでしょう。

私は、にんじんを目の前にして食べるなと言われるより、にんじん自体がない方がずっといい。
そう思っています。

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2006年4月 2日 (日)

小学校のテスト

この前、新中1になる子が小学校の最後のまとめテストの算数を持ってきて見せてくれた。
彼女の話によると、中学の先生だった人が小学校に来て、その先生が作るといつもこんな問題で難しいのだと言う。
見れば、確かに中学校のテストで見慣れた雰囲気のつくりで、およそ小学校のテストには思えないものだった。

まあ、それは別に構わない。小学校のテストはいささか簡単過ぎて、中学校に行くと問題の量や難しさに戸惑う子も少なくないであろうことを考えれば、小学校の間にこんな問題をやらされている彼女達はある意味ラッキーなのかもしれない。

しかし、3枚に渡るまとめテストを見ながら、なんだかため息をつきたくなった。

うちの教室に来てくれている子のほとんどは本当に誰が見ても平均以上に算数がよくできる。(他の教科は直接指導していないのでわからないけれど。)中には、ブログにしばしば登場するようなスーパーな子達も少なからずいる。
けれど、その子たちの殆どが学校の算数は嫌いだというのだ。

初めにそれを聞いたときは、内心、(え?学校ではできないのかな??)と焦って、理由を尋ねたことがある。すると、ほぼみんな「面白くない」という答えが返ってきたのだ。

念のため「学校の算数はわかるよね?簡単やんね?」と尋ねると、高学年になってから来てくれ始めた一部の子を除けば、ほぼ例外なく「うん、簡単。」そう答える。

面白くないから好きじゃないけど、とりあえずできる。
そういうことのようだったから、中学、高校へと進めば、もう少し面白く感じられることも増えてくるだろうと、よしとしてきた。

しかし、彼女の持ってきてくれたテストを見ながら、(あぁ、こりゃ算数嫌いになる子が増えても当然だわ。。。)としみじみ感じた。

3枚のテストで、多少のケアレスミスはあったものの、意味を理解できていないものはほぼなかった。わかっておいてほしいことはきちんと全てわかってくれていた。なのに、あちこちで減点されているのだ。

例えば、問題を忘れてしまったのだが、ある値の3分の1を求める問題があり、彼女はそれを求めるのに、「×3分の1」ではなく、「÷3」で求めていた。もちろん答えは合っている。しかし減点。
更に、15分は何時間かという問題に式を書かずに「4分の1時間」と答えたら、またも減点。

そんなものがそこここに見受けられた。
学校が教えた通りの解き方ではないから減点ということなのだろう。
しかし、教えた通りに解かねばならない理由はなんだろう?

うちの子達は大抵、2分の1時間だろうが6分の1時間だろうが、時計の文字盤の大きさで考える。少し複雑になった場合でも(例えば10分の7時間とか。。。)まず60分を分けて1つ分の大きさを考え、それを集めるという考え方をする。(10分の7時間なら、60÷10×7で42分)
けれど、それは殆どが頭の中の作業で、プリント上にその計算がかかれることは滅多にない。しかし、大きさ、量としてイメージしている彼、彼女たちに、なぜわざわざ「時間を分に直すときは60をかけて、逆にするときは60で割るのよ」と指導する必要があるだろう。

もちろん、数量感が身についていない子であれば、公式を覚えて機械的に解く必要もあるかもしれないし、学校ではそういう子も少なからず存在するであろうことを思うと、その解き方を指導する必要性もわからないではない。(落ちこぼれを作らないということに重きを置いていると考えれば、どうしてもそうなるだろう。)

けれど、私からすれば、2分の1時間や4分の1時間は時計を思い浮かべた瞬間に答えが出ることが自然なのだ。何かの3分の1というのは、実生活では3つに分けるということに他ならないのだ。
それなのに、そのまま答案に表すと減点されてしまうのが小学校なのだということを改めて思い知った。そりゃあ、できる子達が学校の算数を嫌いだという理由も頷ける。

15分は文字盤全体の4分の1の大きさ。時計を見た瞬間答えが出る。多分その間数秒。
15分は60分のうちの15分だから、15÷60で60分の15。約分して4分の1。少なくとも上の数倍の時間がかかるだろう。おまけに約分を忘れたり、そこで間違えたりすることだってあるだろう。
それを使わなくても解ける子達がその解き方を使わなければならない理由が私にはまだよくわかっていない。

残念ながら、小学校というところはやはり、「できない子を作らない」ことを意識するあまり、「できる子も作らない」指導になっているような気がしてならない。

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2006年4月 1日 (土)

新年度スタート

今日から4月。早いですね。今年も4分の1が終わってしまいました。「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る。」とはよく言ったものです。今年は例年以上にそれを強く感じた3ヶ月でした。

けれど、とても前向きなありがたい忙しさで、皆さんに、そしていつも元気と幸せをくれるたくさんの子ども達に感謝の気持ちでいっぱいです。(あ、今日はエイプリルフールですけど、本心ですので。(笑))

3月最終週は少し余裕があるはずだったのですが、結局とてもバタバタと過ぎていきました。
けれど、今年に入って本当にこれまで以上に多くの出会いを頂き、沢山のことを学ばせて頂いています。ありがたいことです。

新年度は新たに対象年齢を年少さんまで下げる予定ですし、そのほかにもいくつか考えていることがあります。なんだか楽しみです。
そのためにはまず、4月、学校が始まって子ども達の時間割が確定してくれることを願う毎日です。(苦笑)

チラシも作りたいなと思いながらも、枠が確定しないことにはどう募集していいものやら。。。
多分この時期にそんなことを言っている塾、教室の方は殆どおられないだろうと思いますけどね。(笑)

本来ならこの3ヶ月が新規入会の生徒を集める一番重要な時期なのだということは私も一応はわかっているのですが、どうも一般の塾とはカラーも何も異なる私には、その実感があまりないのです。

多分、4月か5月にのんびりチラシを出すのではと。そんな感じです。
でも、なぜだかわからないのですが、とても楽しみなのです。少しずつでいいから、ひとりでも多くの子ども達に出会えるよう、新年度も頑張りたいと思っています。

どうぞ宜しくお願い致します。

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