ときどき、自分ってなんて不器用な人間なんだろうなと思うことがある。
普段はあまり考えないのだけれど、何かちょっとした事件が起きたりすると、改めてそれを思い知るのだ。
先日来、書籍紹介の方のブログに正直言って私にとっては「得体の知れない」と表現したい、上手くいえないが、それを見ると気持ちが悪くなるような、体調を崩しそうな、そんな空気を持った書き込みがいくつか並んだ。
一番初めは、まだ読み始めたばかりのその本を(タイトルを書くとそれでまた新たに検索に引っかかりそうなので控えおきます)紹介したときにいきなり、挑発的とも取れるコメントがついた。
無視しようかとも思ったし、削除しようかとも思ったけれど、本当に「得体の知れない」人種だったら、それがかえって相手を刺激して、やっかいなことになってもイヤだなと、どうにかコメントを返した。
その後、きっともう来ないだろうと思っていたのに、ご丁寧にまた、やはり何を言おうとしているのかわからないコメントを残され、同じ人なのか違う同種の人なのか、似たような空気のコメントが並んだ。
正直かなり憂鬱な気分になった。この本を紹介するんじゃなかった。。。そう思った。ブログを読んでくださっているお知り合いにチラッと愚痴ったら、自分なら記事ごと削除すると言われた。
確かにそうだ。これ以上来られたくなければ、あの本さえ紹介から削除してしまえばいいのだろう。これまで他の本ではただの一度もそんなことはなかったのだから。
正直なところ結構迷った。この本に拘って、折角これまでコツコツと積み重ねてきたものを一気に崩されかねない不安と紹介記事を削除する躊躇いを天秤にかけ、それでも結局削除はできずにいた。
そのうち、見ず知らずの方から、立場はやや対立する意見ではあったけれど、素晴らしいコメントを頂けた。かなり救われた。
そして、改めて追記を書いた。そこに新たにステキなコメントを頂けた。これでもう大丈夫だと思った。
しかし、昨日のアクセスを見ていると、ある特定のリンク元からのアクセスがかなり集中していることに気づいた。そのリンク元に行ってみたが、アダルトサイトに繋がるバナーが大量に並んだページの一番上に、私の追記記事のURLが出ているだけの奇妙なページだった。
わからないなりに調べてみたところ、どうやらそれは某有名巨大掲示板のどこかに私のその記事へのリンクがはられているということらしいということまではわかった。
けれど、その掲示板があまりに巨大過ぎて、一体どこにどんな風に紹介されているのかは結局付き止めることができなかった。
正直言ってどうしてもわからない。私はただの1冊の本を紹介しただけだ。それも、幼少期に無防備にメディアに触れさせることの危険を伝えたかっただけで、特定の誰かを批判した訳でも攻撃した訳でもない。いい本だから読めと言ったつもりもない。
読んでどう感じるかは人それぞれだと思うけど、ひとつの意見として読んでみてほしいと思ったに過ぎない。
その何がそこまで特定の誰かの癇に障ったのかが本当にわからないのだ。
あのブログを荒らされるのはもちろんイヤだ。この先もまだ何か起こるのかもしれないと思いながら過ごす時間は不毛にも思う。
お知り合いがアドバイスしてくれたように、さっさとあの本だけをコメントごと削除して、何もなかったことにすれば、そのうち忘れることなのかもしれない。
そう思うのに、どうしてもその決心がつかないのだ。
自分は誰かを誹謗中傷したつもりもない。誰かにケンカを売りたいわけでもなんでもない。ただ、いつも紹介しているのと同じように、自分が読んだ本の1冊を紹介しただけだ。
なのに、こんな形で何かに屈して、その記事を削除することがどうしてもイヤなのだ。
私は昔っから、力で押さえ込まれるとかってことが大嫌いだ。その力は時には暴力であり、時には権力であるかもしれない。
とにかく、たとえ力で叶わないとわかっている相手でも、自分の信じるところをそれによって曲げるのは、殴られるのと同等か、もしくはそれ以上にイヤなのだ。
その昔、まだ塾に勤めていた頃、ある日塾の1階で誰かが叫んでいるのが聞こえた。何事かと思って降りてみると、知らない子達が3人でうちの塾生の中3の男の子を囲み、塾の前でそのうちのひとりが塾生に殴りかかったのだ。
詳しいことはもう忘れてしまったが、3人のうちの1人に対して塾生が何か怒らせるようなことをしてしまったようで(それは本人も自覚があるようだった)、その子がなぜか全く関係ない子を2人引き連れて塾にやってきて、連れてきた子が彼に手を出したのだ。
もし仮に、彼が怒らせた子自身が1人でやってきて、彼と1対1でケンカをしたのなら、もしかしたら私は止めなかったかもしれない。(状況によるが。)けれど、なんで本人じゃないのが2人も一緒に来て、その関係ないのが手を出すのか全く理解できなかった。
それは明らかに卑怯だと思った。
ただ、相手は中学生の男の子3人。こっちは私ひとりだ。正直怖かった。だけど、もしここで傍観したり、見ないふりをして逃げたら、多分この先ずっと後悔する。そう思った。
殴られるかもしれない。。。そう思いながら、手を出した子ども達に向かって怒鳴りつけた。
少なくとも塾の前だ。他の子ども達への影響だってある。おまけに3人で来るなんて卑怯過ぎる。殴り合いになりかけているのを引き離し、手を出した子をじっと見つめて怒鳴りつけると、その場から3人で走り去った。とりあえず大事に至らず、みんな授業に戻った。
その日授業をしながら考えていた。帰りにどこかで待ち伏せされるかも。3人で囲まれたら、力では叶わないな。。。正直怖かった。だけど、殴られたって、何をされたって、だからって「あのとき止めずに傍観していればよかった」という後悔だけは絶対しないな、だからそれでよかったんだと思ってもいた。
幸い、その考えは杞憂に終わり、その後何も起きることはなかったが、今回ふとそのことを思い出した。
それはひとつの例で、これまで幾度となくそんな「不器用な選択」をしてきたように思う。
仮にこの先私自身が、色々な意見に触れ、文献に出会い、経験を重ねた結果、これまで紹介している書籍に対して何か考えが変わることはあるかもしれない。そうなったとき、自分の判断で記事を削除したり、訂正したりすることはあるかもしれない。
けれど、外的要因でそれをするのはどうしてもイヤなのだ。
ありがたいことに、昨日普段よりかなりアクセスが多かったにも関わらず、何も嫌なことは起きなかった。
もしもこの先、また何か気分が重くなるようなことが起きて、そのことで読んで下さっている方にまで嫌な思いをさせてしまうようなことになったときには、何か対応を考えなくてはならないと思うが、とりあえず今はそのままにしておこうと思う。
どうしてこう融通が利かないんだろうと思わなくはないけれど、これが私なんだから、これからもそんな自分と付き合っていくしかないなと思う。
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