« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月31日 (金)

書きたいことは沢山あれど。。。

今日で3月もおしまいですね。明日から4月、新年度のスタートだなんて本当に早過ぎる。。。

書きたいことは多分沢山あるのです。
バタバタしていて、頭に浮かんでは消え、また思い出しては消え、そんな繰り返しをしつつ、それでも書きたいことは真面目なこともど~でもいいことも、次々に浮かぶのですが、時間が。。。

今日は今日中にどうしてもしておかなくてはいけないことがあり、この分だと今日ゆっくりパソコンに迎えるのは日付が変わってからか、もしくは今日は無理か。。。そんな気配です。

明日から月曜までは少し時間が取れるのではないかと思いますので、またゆっくり書きたいと思います。本も読みたいんですけど。

しかし、ここ最近ずっと考えているのは「母と子」というのはやはり理屈では説明のつかない、「父と子」とは何か明らかに違う絆があるのだなぁということです。

それは良い意味でも悪い意味でも。

うまくまとまらず、まだ書けずにいるのですが、恋愛で喩えれば、相手のことが好き過ぎて、あれこれ世話を焼きすぎたり、小さなことが気になったり、反面、不安な思いは「いや、そんなことはないはず」と自分に言い聞かせてみたり。。。
そんな思いが入り混じっている状態が母の子に対する愛情なのかもしれないなぁと。

このあたりのことはまた追々、ゆっくり書きたいなと思っています。
ひとまず今日はこれで。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月30日 (木)

ネットの怖さ

りんご先生がニュースサイトでご紹介くださったので、今日初めてこちらにいらして下さった方が結構おられるようです。

初めまして。ご訪問ありがとうございます。
ここまでアクセス数が伸びたのは、以前糸山先生やこだま先生にご紹介頂いて以来かと思います。

ただ、ご紹介頂いた記事に丁度固有名称を出しておりましたため、不特定多数の方の目に触れることで何か誤解を生み、そのことでお世話になっている先生にご迷惑がかかるようなことがあってはお詫びのしようもありません。

ですので、名称部分に関して一部記事を修正させて頂きました。
どうぞご理解ください。

正直なところ、私はこのブログを小さなお子さんをお持ちの保護者の方や子どもの教育に関わっている方にひとりでも多く読んで頂けたらと思っている反面、不特定多数の方に見られることの怖さも感じています。

実は私、独立する前、かなりチャットにはまっていた時期がありました。
といっても、アヤシイものではなく、発端は趣味のサイトを立ち上げようとパソコンを買って頑張っていた'98年頃、何しろ機械オンチなためなかなか作業が進まず苦戦。
ただ、そういう作業は仕事が済んで帰った深夜などにすることが多かったため、パソコンのトラブルがあっても、ホームページ作成でわからないことがあっても、友人や知人に電話できるような時間ではありませんでした。
困った末、よくわからぬまま「関西」という言葉を部屋名に付けた部屋にお邪魔し、ネットを介してその部屋のパソコンに詳しい多くの方からアドバイスを頂いて、無事トラブルを解決し、ホームページを立ち上げることができたということでした。
あの方々がいてくださったから、今では教室のサイトも曲がりなりにも作れるようになったと言っても過言ではありません。

おまけに、私はある程度ブラインドタッチができるのですが、それも全てチャットの賜物で、そういう意味ではいいことも色々ありました。

しかし、ネット上での繋がりには色々な危険やトラブルも潜んでいました。
リアルな人間達が会話しているはずなのに、やはりそれはバーチャルな世界でもあり、普通なら言えないような攻撃的なことや侮辱などを、わざと文字にしてあちこちの部屋でだれかれ構わずぶつけて回る人がいたり、時にはオフ会と呼ばれる飲み会などでそれまで作り上げていた嘘の肩書で悪いことをする人もいるようでした。

もちろん、そういう危険は日常生活の中にもあることはわかりますが、特にトラブルが多かったのは、そんなつもりで言ったのではない発言を誤解されるということでした。

例えばすごく簡単な例でいうと、誰かが誰かの発言に対して
「アホや」と打ったとしましょう。
それは関西人のノリで、打った本人は笑いながら打っているのかもしれません。けれど、その表情は見えませんから、相手が侮辱されたと受け取る場合もあるのです。そして時には言い争い(文字でですが)が起こります。
そういうことは面識のないもの同士では、尚更ニュアンスを理解してもらうなどということは難しく、結局は喧嘩別れのようになって、どちらかがもうその部屋には来なくなるというようなこともしばしばありました。

私は、はまっていた時期も特定の部屋にしかいなかったので、だんだんとお馴染みのメンバーが落ち着いて話をするという状態になって、トラブルが起きることも少なくなりましたが、常連でない人が入ってきて会話を引っ掻き回して出て行くということは、チャットをしなくなるまでずっとありました。(多分、今もそういう人たちは存在するのだと思います。)

独立後は全くやらなくなってしまったので、今はどんな状態なのかわかりませんが、最近はブログに移行し、私は全く疎いものの、その他にもアバターとかミクシとか、何か色々なものが流行っているようですね。
多分、昔チャットで起きていたようなトラブルが場所を移してまた起こるんだろうなと思ったりしています。

そして、今どんどん増え続けているブログを自分でも日々書きながら、やはりしばしば不安になるのです。
自分では全く意図しない解釈をする方も必ず存在するはずだと。それは、見てくださる方が増えれば増えるほど、誤解を生む可能性も増えるのだと思っています。

私はこれまでこのブログである学習方法について、幼少期にやるのは非常に危険だと、やらせないでほしいと何度も繰り返してきました。
私自身は特定の組織や団体などを批判しているつもりは全くありませんし、ある学習方法を危険視しているだけなので、当然誹謗中傷しているつもりもありません。

ただ。。。誤解、曲解される可能性は否定できないとも思っています。

何度も繰り返しますが「幼少期の大量な機械的反復学習」に該当するもの全てを私は危険視していますし、できるならやらせないでほしいと思っています。
しかし、10人が10人に悪影響があるとは言えませんし、高学年や中学生であれば逆に効果が望める面もあると思っています。

ですので、改めてここでお断りさせて頂きます。
本意をご理解頂けましたら幸いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月29日 (水)

子どもの残業

先日、久しぶりに大先生のところにお邪魔して、色々有益なお話を伺いました。
その帰り道、大先生の教室で子ども達を指導されている、ベテランだけどとってもキュートなK先生と途中までご一緒させて頂きました。

そのとき、ちょっと気になっていたことを先生にお話しました。
というのは子どもの習い事について。

その教室では特にK式に関しては絶対やらせるな、やっている(もしくは辞めない)子どもは受け入れるなと大先生が一貫して言っておられるのですが、その他の習い事に関しても、きっと色々しているお子さんが多いのではと思ったので、参考にさせて頂きたくてご意見を伺いました。

週のうち大半を習い事で埋められている子どもも最近では珍しくなくなっています。
特に幼児・小学校低学年のうちは、スイミング、英語、お絵かきなどから、体操、ピアノ、バレエ、サッカー、バスケ。。。。。。その上、塾、幼児教室などに通っているというお子さんも少なくありません。

中でも最も気になっているのはお勉強系の教室の掛け持ち。教室を始めてからこれまで出会ったお子さんの数はまだ限られていますが、それでも、正直言って習い事などに忙しいお子さんと、親御さんがある程度以上は習い事はさせないとコントロールしておられるお子さん、もしくは他の習い事はしていないようなお子さんとを比べると、大抵の場合、後者の方がすっとよく伸びるのです。

つい先日、教室に来てくれているお子さんがレッスン中突然「お腹が痛い」と言い出しました。まだ小さい子どもなので、的確に痛みを説明できる訳でもありません。
おトイレに行きたい?と尋ねても首を振り、気持ち悪い?と尋ねても首を振ります。きゅ~っと痛い?チクチク痛い?色々尋ねたところ、ようやく、わき腹の辺りを押さえながら、

「この辺がチクチク痛い。」

そう答えました。
私はそういう方面の勉強は殆ど素人なので、いい加減なことは言えないのですが、実は昔々うちの兄は小学生にして神経性胃炎で入院をした経験があります。そのときふとそのことが頭を過ぎり、尋ねました。

「〇〇ちゃん、ここに来るのしんどくなぁい?この後別のところでもお勉強なんでしょう?もしイヤだなぁと思ったら我慢しなくていいのよ。しばらくお休みしませんか?ってお母さんにお話してあげるから。今日ももうやりたくなかったら無理しなくっていいよ?」

すると、少し考えた後

「もうちょっと頑張る。」

そう答えたのです。
やはりお腹が痛いというのは、実際に耐えられない痛みだったということではないようで、その日それより後にもう一度もお腹のことは口にしませんでした。

多分、ストレスだったのではないかと思っています。本人に自覚があるかどうかもわかりません。けれど、しんどいよっていうSOSだったのではないかと思うのです。
ちょっと涙が出そうになりました。

そのことをK先生にお話すると、K先生も涙ぐんで「可哀想に。。。」と言ってくださいました。
子どもの中にはうまく感情を表現できない子もいて、そういう子のストレスの信号は「お腹が痛い」ということだったりするそうです。

その後、先生に、私がずっとどうしたらいいのかわからずにいたことをお尋ねしました。
沢山習い事をさせている保護者の方には何かおっしゃるのかをお尋ねすると、まずこんなお答えを頂きました。

「何か新しく始めるんだったら、代わりに2つ習い事を辞めなさいって言うよ。習い事は子どもにとって残業です。大人だって残業させられたらイヤでしょう?だから、何かさせるんだったら何かやめなさいって言うよ。」

子どもにとっての残業かぁ、素晴らしい表現だな。。。そう思いながらも、もうひとつの疑問というか悩みというかをお尋ねしてみました。

「沢山習い事掛け持ちさせている方で『子どもが全部やりたいって言うんです』っておっしゃる方いるじゃないですか?そういうのはどうしたら。。。」

すると、こんな答えをくださいました。

「辞めるのがイヤならとりあえず3ヶ月お休みしましょう。だったらいいでしょ?もし3ヶ月経ってまだ行きたいって言うんだったら、それは本当に好きなんだから行かせてあげたらいいけど、大抵は言わないって。」

なんだか目からウロコの気分でした。
そうです、「お休み」なら子どももきっと納得します。

それを聞いて思い出したのです。

私は習い事自体かなり経験が少ないのですが、小学校1年の頃から2年ほどだったか、バレエを習っていた時期がありました。
基本的に体は至って丈夫で病気らしい病気もしたことがないのですが、なぜか小さい頃からよくわからない脚の持病みたいなものがあって、時折脚の腿に筋肉痛とは明らかに違う、だるいようなうまく説明のつかない不快感が襲うことがありました。
その症状が出ると、本当に何もする気になれず、忍耐強いほうだったはずなのですが、母に脚をさすってもらいながら泣いたことも何度もありました。

その症状が出るのは不定期的だったのですが、多少は使い痛みも影響するのか、バレエのレッスンのあった日の晩にはその症状が出ることが多かったのです。
辛そうな私の脚をさすりながら、母まで泣いていたこともあります。生まれたときに死に掛けたので、沢山の注射や投薬をされた副作用なのではと、そんなことで心を痛めていたようです。

それまでも何度か、見兼ねた母にバレエを辞めたらどうかと言われていましたが、好きだったし、何かを途中でそんな形で辞めるのがとてもイヤだったので、何度言われてもうんとは言いませんでした。

しかし、ある晩母がこう言ったのです。

「しばらくお休みしようか?」

その言葉だけは、迷いながらも受け入れることができました。(辞めるんじゃない、お休みするんだ。大丈夫そうだったらまた行くんだ。。。)心の中でそう思って自分を納得させたことを思い出したのです。
それはまだ2年生か3年生での出来事でした。

そして、結局私はその後バレエに戻ることはありませんでした。

きっと、子どもにも子どもなりのプライドやこだわりがあるのだと思うのです。
以前友人が教えてくれた話では、好きではないのがわかっていたのであるお教室をやめさせようと思ったのだけど、お嬢さんは頑として譲らなかったそうです。イヤだけど、途中で辞めるのはもっとイヤだったのかもしれません。

「お休みしよう」は子どもにとって、プライドやこだわりを守りつつ譲歩できる魔法の言葉なのかもしれません。

とにかく、幼少期に自由に遊べる時間を削ってまで沢山の習い事をさせるのは、決してプラスには働かないと思っています。
そして、それを薄々は感じながらも、子どもが辞めたくないというからと、辞めさせられずにいる方もおられるかもしれません。

そんなときに、この魔法の言葉を使ってみてはどうでしょう?
もしかしたら「うん」と言ってくれるかもしれませんよ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年3月28日 (火)

小学校での評価

今日、スーパー3年生の母であり、高校からの友人である彼女が教えてくれたのですが、誰が見たって疑う余地なく素晴らしくできている娘(スーパー3年生)の今学期のあゆみ(通知表)の算数で「図形が苦手」という評価が付けられていたそうです。

この家庭は母である友人も素晴らしいのですが、お父さんがまた信念を持ってくださっているので非常にやりやすくてありがたいと常々思っています。

お父さんは理系の方で、今の我が娘の状態にも大変満足してくれていて、それに実際、どううがった見方をしたって、彼女が「図形が苦手」だなんてことはあり得ないのです。

で、お父さんはその評価を見て、娘が図形が苦手だなんて学校は一体何を見ているのだと言っておられたとか。
本当に理解があって有難いと思いますし、こういう家庭のお子さんはとても幸せだと思います。

自己弁護ではなく、どなたに見て頂いても間違いなく、彼女は図形がとても得意です。計算ももちろんできるのですが、計算よりむしろ図形の方が得意なのです。それは本人も感じていることですし、自信も持っています。
教室で出てくる難しい問題でも、彼女は難なくやってのけます。

なのに、その彼女の図形に関する評価が「苦手」というのは、本当に一体何を見て評価したのか教えてほしい。。。

ただ、彼女にとっての幸いは、ご両親がその評価に踊らされていないということでもあるわけです。
乱暴な言い方ですが、少なくとも公立小学校の通知簿なんて(私立に関してはわかりませんので。。。)殆ど何もわからないし、あてにならないと思っています。気にする必要すらないのではと思っているぐらいです。(もちろん、全てがそうではないと思いますが。)

もちろん、普段のテストや宿題の様子などを見て、お子さんの理解度を確認する必要はあると思うのですが、きちんと理解していると思われるのに評価が伴っていない場合、目の前のお子さんを見て、親御さんご自身が感じられる感覚を信じられてはと思うのです。

けれど、実際には通知表の評価に一喜一憂し、それに踊らされ、低い評価がつくと焦ってどうにかしなくては!!となってしまう保護者の方も少なくないのではと思います。

可能であれば、彼女の担任に理由を聞きたいぐらい納得はしていませんが、ご両親が安心して見守っていてくださるので、彼女に関しては心配していません。
ただ、終業式を終えた今の時期、おろおろしておられる方もおられるのだろうな。。。そんなことを思い、ちょっと書かせて頂きました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月27日 (月)

お金持ち

実はこの記事は少し前に書いて、落ち着いたら読み返してからUPしようと思っていたのですが、なんと、今日みかみ先生が書いておられたブログと妙に内容が重なっているところがあり、まるでそれを読んで書いたみたいになってしまったなぁと。

UPするのをやめようかとも思いましたが、ま、思っていることが変わったわけでもありませんので、敢えて今日UPしてしまうことにしましたことを初めにお断りさせて頂きます。

*******************************************************************************

以前から時々書いているけれど、私はあまり物欲がない。物欲だけでなく、自分では趣味も少ないし、好奇心も強くないと思ったりもする。なかなかにつまらない人間だなと思うことも昔からしばしばある。

今はこの仕事が大好きで、そのために沢山本を買ったり、教材を買ったり、仕事ではほしいものも色々あるし、教材になるなと購入するパズルやクイズ本などを自分で解きながら楽しんでもいるし、それが半ば趣味のような気もするが、女にしてはグルメでもなけりゃ、ブランド好きでもないし、旅行好きでもない。きっとちょっと変わっているんだと思う。

そんなだから、普通に暮らせるぐらいにお金があれば、それ以上にはいらないってことを以前書いた。それは変わったわけではないけれど、ふと考えた。

かなり有名なブログだし、ブロガーの塾関係者でこの先生を知らない方はいないのではないかと思うぐらいすごい「みかみ先生」という先生がいる。

みかみ先生の塾の正式な名前は「愛をこめて・・・みかみ塾」なのだそうだ。
ブログを読んでいても、本当にいつも子ども達への愛が溢れていて、パソコンの画面からでもそれがしっかり伝わってくる気がする。

だからって、みかみ先生は単に「愛の人」なだけでなく、2年半で生徒を600人集め、その後も次々に色々なお仕事をされ、目標をクリアしていっておられる。

先生の目標は20年後に2000億円貯金して、お城に住み、地球上の伝染病をひとつ撲滅することらしい。(注:今日先生がUPされた記事ではほんの少し内容が違っているかもしれません。)

どこまで本気でどこからは冗談なのかわからないが(いや、きっと全て本気だとおっしゃるのだろうけれど。)、現に今も、先生の仕事の仕方は「お金儲け」とは感じない。もちろん、かなりの収入はあるようだし、それはご本人もはっきり書いておられる。
けれど、昨年出版し、参考書としては異例なまでの売れ行きを見せた「ヒキョーな化学」の印税は全てユニセフに寄付すると出版直後に宣言された。
それに、塾の子ども達を頑張ったらご褒美旅行に連れていってあげたり、子ども達のために自習室を作ったり、その他にも色々常に子ども達のことを考えておられるようだ。

みかみ先生とは面識はない。何度かメールなどでやりとりをさせて頂いたことがあるだけだし、指導対象や指導スタイルなどを見ても、私は先生とは全く違うジャンルに属していると思うので、直接何かご指導を仰ぐとかそういうことはこれまでなかった。
それでも、みかみ先生のことは尊敬しているし、先生ならいくら稼いでくれたっていいと思っている。

また、世界は異なるけれど、江原さんのことも、マスコミに頻繁に出ることでそれを批判、中傷する人もいるようだけれど、江原さんが著書で書かれていた、今の世の中に危機感を感じ、自分がもっと多くの人に伝えなければということでマスコミに活動の場を移したという言葉は本当だと思うから、もっともっとマスコミに露出し、沢山本を出し、有名になってもらいたいと思ってもいる。

愛を語る人、愛を伝える人がお金を集め、望ましい形でそれを使ってくれるのなら、たとえ何十億、何百億稼いでもらったって構わない。

そして、ふと考えたのだ。

「人はイメージしたもの、自分がなりたいと思ったものにしかなれない。」

いくつかの本でそんなことが書かれているのを読んだ。そして、それはきっと本当なのではないかと思う。理想を思い描き続けていれば、必ずそこに近づいていけるに違いない。

だとすると、お金持ちにならなくていいと言っている私は、きっとお金持ちにはなれないだろう。
ただ、ちょっとだけ意識を変えることにした。

自分が贅沢をするためのお金ではなくって、もっともっと教材や本を買ったり、備品を充実させたり、小さなこと(今の私にとっては小さくないのだけど)では、教室の年代もののエアコンを買い換えたり、コピー機を置いたりっていう、子ども達にとってもより望ましいことに対して、もっと自由に使えるお金があれば、それはやはり幸せなことに違いないなと。

だから、新年度の目標のひとつに収入を増やすってものを加えようと思う。だからって何か具体的な構想が見つかっている訳じゃないけど、それを目標にすることできっともっと頑張るんじゃないかと思う。

あくまでも収入を増やすことが目標で、利益を増やすことが目標な訳じゃない。増えた分をもっと有効に使いたいのだ。だからやっぱり私はいつまで経っても「お金持ち」にはなれないのは間違いない。(笑)

けれど、仕事の上でやりたいことはいっぱいある。
今は無理だからいずれ。。。と思っていることを、ひとつずつ実現させられるよう、もっともっと頑張っていきたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

不思議なこと

教室を始めてからこれまで、何度か不思議だなぁと思う子どもの反応に出会っています。
児童心理学とかをもっとしっかり学んでいる方には何の不思議もないのかもしれませんが、その反応に出会うたび、どうして?と思いつつ未だに理由がわかりません。

というのは、体験レッスンに来てくれた後などの子どもの反応のことです。

もちろん、中には時間になっておしまいって言うと、終わりたくないといって嫌がるぐらいその場で気に入ってくれる子もいるのですが、どちらかと言えばそういう子は少ないのです。

つい先日も不思議な反応が2人続きました。

春休みにスポットで来てくれることになった女の子と1時間楽しくレッスンをした後、お母さんは春休みの間に何度か来たいと言ってくださったのですが、彼女の反応が今ひとつ。
もちろん、無理強いする気は毛頭ありませんから、「またお家で相談してください」とお返事をしてお見送りしました。

すると、翌日お母さんがお電話をくれて、「今日も行くって言うんです。今日は無理だけど、また来週ねって言ったんですけど。。。」みたいなお話を聞かせてくれました。

そんな。。。2日連続で来たいと思ってくれるほど楽しかったのなら、なぜ昨日はどうもイマイチ乗り気じゃないわって態度だったんだろう。。。ま、それでも嬉しいな~。
そう思っていました。

また別の日に、遥々1時間ほどかけて体験に来てくださった方がおられました。
正直言って、お子さんにその距離を通わせるのは負担が大きいだろうと思っていましたので、通ってもらえるとは思っていませんでしたし、通ってもらえないとしてもご自宅でお母さまが指導できるかもしれないと、その方向性を探るつもりでした。

レッスンの間、ずっと一所懸命集中して取り組んでくれて、その様子を見ながらお母さんが「どうする?やってみたい?」そんな風に尋ねられました。
すると、非常に微妙な反応。私の目には「通いたくない」というのは申し訳ないしと困っているように見えました。

ですから、「遠いもんねぇ。また、ゆっくり考えてくれたらいいよ。」そんな感じの言葉をかけてお見送りしました。

それから1分ほど経ったでしょうか。インターホンが鳴り、ドアを開けるとそこには先ほどのお母さまが。

「通うそうです。」

。。。。。。。
表に出た途端、通いたいと言ってくれたそうです。
お母さんもおっしゃっていました。「無理強いはしたくないなと思ったもので。。。」と。
お母さんの目にも乗り気じゃなさそうに映ったということです。

なぜなんでしょう?
多分私が子どもとレッスンをしている姿を見て頂いたら、私を恐れて言えないということはないと思うんです。現に、「楽しかった、通いたい」と言ってくれる訳ですから、怖くて言えないのではないはず。。。

う~ん。。。まだまだ子どもは未知ですね。(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月26日 (日)

昨日の続きを

やっと昨日のブログの続きをUPしました。

昨日はお知り合いのお手伝いの後、ご飯を食べに行き、なぜか不覚にも(?)チューハイ1杯で酔っ払ってしまい、帰宅後キーボードが打てませんでした。。。

校則話は挙げればキリがないほど挙げられますが、なるべく短くまとめようと頑張りました。
頑張ったんですけど。。。それでも長かったですね。(苦笑)

お時間がございましたらお付き合いください。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月25日 (土)

校則にまつわる思い出

昨日、なぜか担任して頂いたことも、授業を持って頂いたことすらもない中学時代の先生のお疲れ様会(まあ、単なる食事会ともいう雰囲気だったのだが)に呼んでもらった。

声をかけてくれた子は、先生が私の担任だったのではと思っていたようだけれど、誘ってもらった私は行っていいものやらと悩みつつも、懐かしいお顔も拝見したくって、参加させてもらった。

私は仕事の関係で遅れての合流だったのだが、先生には誰が来るかを内緒にしていたらしい。
遅れて到着すると、友人達が私に気づき手を振ってくれている。そして、私の顔を見た先生が「おぉ、○○や。」そんな風に言っているのが微かに聞こえた。

お久しぶりですとご挨拶をしながら、改めて、私が来させてもらってよかったのかと尋ねると、いいよいいよと言ってくれたが、一度も持って頂いたことがないと思うのだけどと続けると、先生までが

「え?俺持ったことないか?でも、俺、○○知ってるぞ?」

そんなお答え。まあ、珍しい苗字の上、学級委員や生徒会役員などもしていたから、私のことをご存知ない先生は殆どおられなかったと思うので、別に不思議ではないけれど、その程度の関わりしかなかった私のことを、今でも見てすぐわかってくださることに感激もした。

小人数だったので、食事をしながら歓談し、あっという間に時間は過ぎた。
昔話をする中で、中学時代の同級生が集まると必ずというほど出てくるのは、今だったら大問題になるであろう理不尽な校則にまつわる思い出だ。

私達は多感な年頃だったし、あまりにも強烈な印象だったため、いつまで経っても覚えているのだが、先生は毎年新しい子達と出会い、校則もどんどん変わっていくものだから、別の意味で新鮮なようだった。

友人達が集まると必ずというほど出る話が、「茶漉し事件」や「お茶凍らせ事件」「修学旅行ワカメちゃん前髪ネタ」たちだ。
多分、私達の同級生が集まれば、きっと夜が明けるまでずっと語っても語りつくせないぐらい、校則や理不尽な規則、判断基準に関する思い出はあるのではないかと思う。

かなり有名な「茶漉し事件」などは、今だったらもう大問題のような話だ。

中2のとき、今だったら宿泊訓練とかいう呼び名だったりもするのか、2泊か3泊かの旅行行事の直前、学校で喫煙者を含めた校則違反者が見つかった。そのせいで、一時は旅行自体を取りやめるという話にもなったのだが、とりあえず行くことにはなり、行った先で延々と班で反省会、クラスで反省会、学年で夜にナイター照明のついたテニスコートで反省会。。。ほぼ全ての行事が取りやめになり、延々と反省会が続いた。

その頃学校では当たり前にあった抜き打ちの持ち物検査が、その旅行中にもされることになった。
各学級の学級委員数名と先生方がそれぞれ自分のクラスの子達の荷物を調べるのだ。運良く私に言いにくることができた子などは、持ってきていたリップクリームやソックタッチなどを鞄の底板の下に隠すことで難(?)を逃れたのだが、先生に調べられた子や委員に頼めなかった子たちの鞄からは「不要物」とされるものが没収され、その後大広間にその子たちみんなが一列に正座させられた。

その中に、学年でも真面目なことで有名な女の子が混じっていた。みんなも正直、なぜあの子が?と思っていたし、一体何を持ってきたのだろうとも思っていた。

すると、彼女の前に回ってきた先生が、彼女に向かって大きな茶漉しを突き出した。

「これは一体何や!」

すごい剣幕で茶漉しを手に怒る先生。普段、先生に怒られることなど皆無の彼女は恐怖に怯えながら、消え入りそうな声で

「コ、コンタクトを。。。」

と必死で説明をしていた。彼女の話では、コンタクト使用者の彼女は外して洗うときにもしも流れてしまっては困るのでと茶漉しで受けられるようそれを持ってきたというのだ。時代も時代で、使い捨てコンタクトなどなかったし、泊まりに行った先も設備の整ったところではなかったのだから、苦肉の策だったのだろう。

どう考えても「不要物」とは思えないし、そもそも、茶漉しを持ってきて一体どんな悪いことをするというのだろう。
けれど、恐らく「そうか、ならお前はいい」と言える状況ではなかったのだろう。結局彼女は許されることなく、その場に正座させられ続けたのだった。

その時代、私達の学校では体罰なんて日常茶飯事で、学年で先生に手をあげられたことのない子を捜すほうが難しいほどだったから、そのときの旅行にまつわる思い出だけでも、数え切れないぐらいの話がある。

「お茶凍らせ事件」もやはり抜き打ち持ち物検査で起きた事件(?)なのだが、その頃うちの中学ではお茶を凍らせて持ってくるのが禁止されていた。凍らせてきたらそれだけで校則違反なのだ。
けれど、夏は暑いし、こっそり凍らせてくる子は大勢いた。
ある日、クラスの抜き打ち持ち物検査で、私も含め15人ぐらいはいただろうか、お茶を凍らせていた子達が狭い進路指導室だったかに呼び出され、先生からまたお説教。
その中に、やはり真面目で有名な男の子がひとりいた。
そして、その子だけは「お茶」ではなく「梅ジュース(長らく梅酒だという誤解で語り継がれていたのだけれど)」を持ってきていて呼び出されたのだ。

正直言ってみんな驚いた。この真面目な子がなぜ?と。当然ながら、その子は誰よりも一番怒られた。
後で聞くと、梅は体にいいからと、お母さんが持たせてくれたとかなんとか。きっとお母さんもそんなものまで調べられるとは思っておられなかったのだろう。

その他にも、学校に紙袋を持ってきてはいけないという校則があり、その理由は「不良に見られるから」という訳のわからないものだったし、女の子の前髪は押さえて眉についてはいけないというあり得ないきまりによって、特にチェックが厳しくなる行事の前などには、ほぼ全ての女の子の前髪が「ワカメちゃん状態」へと変身するのだ。どんなに可愛い子でも、なかなか笑える姿になる訳だから、可愛くない子にとっては悲劇である。。。

とにかく、語っても語りつくせないほど、今では理不尽なことも多かった。いや、殆どが理不尽なことだった。

そんな話を聞きながら、今ではすっかり緩みきってしまった校則に対し、先生が口にした言葉は「子どもの人権」だった。

おかしな時代だ。

もちろん、子どもは守られるべき存在だと思うし、体罰がいいだなんて絶対に思わない。
ただ、今の子達の話では、中学生が授業中にMDなんかを制服に隠して聞いているだとか、携帯を持っているのなんて当たり前に近い状態だとか、「不要物」の検査など存在しないようだ。

実際、抜き打ちの持ち物検査などはできなくなっているのだろうと思う。
けれど、それは本当に「子どもの人権」に関わることなのだろうか?学校には勉強や部活をしに行くと考えたとき、それらに不要なものは持ってくるべきではないと思う。特に携帯やポケットゲーム、MDなどの小型の音楽プレイヤーなどは学校に持っていく必要はないと言っていいだろう。

けれど、持ち物検査もなければ、絶対持ってくる子はいくらでもいるに違いない。検査があってさえ「不要物」を持ってくる子達はいたのだから。

そして、それを持っていっていることを知らない親も多いはずだ。まさか自分の子どもが授業中に袖からイヤホンを通して音楽を聴いているなんて考えてもいないだろう。

きっとこの状態が続けば、ますますそれは広がり、「不要物」という定義さえ消えてなくなるのかもしれない。
けれど、本当にそれでいいのだろうか。

以前、幼い日の思い出を書いたが、それと同様に中学時代には本当に数え切れないほどの思い出がある。小学校、高校、大学と比べても、中学の3年間の思い出が一番多く、色濃く残っているのは、その多くがあまりに理不尽で印象的な出来事だったり、それにまつわる、今では恥ずかしくなるような「熱血」な思い出だったりするからなのではないかと思う。

すると、これほどまでに校則が緩くなり、何かを規制されることもなくなった子ども達は、大きくなったとき何を思い出すのだろう。
なんとなく楽しかったことなど、時間が経てば忘れてしまう。なんとなく苦しかったことだって、そのうち忘れてしまうのだ。

学生生活を振り返ったとき、今の中学生達はどんなことを思い出すのだろう。同窓会で集まったとき、どんな思い出話で盛り上がるのだろう。

「子どもの人権」というものが、どこか間違って振り回されているような気もして、今の子達と、規則にがんじがらめにされたいたあの頃の私達とでは、私達の方が「幸せ」を感じられる機会が多いのではないか。
そんなことを思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月24日 (金)

他者の視点(2)

会社を辞めて外から見たら、なんでこんなことに気づかなかったんだろうと思うことが山ほどあった。

そして私はその後、子どもたちと共に学ぶ道を進み始めたのだけれど、もともと自分自身が全く塾にも予備校にも通ったことがなかったので、私の中で「塾」というものは初めて勤めた個人塾が基準になった。その頃は他塾の方とは直接お知り合いになることもなかったので、広告や子ども達の話、多少の噂などでわかる範囲でしか、他所のことはわからないままだった。

オーナーの決定が全てで、その考えと自分の考えが合わないときにも、私の経験自体があまりにも乏しく、狭い世界しか知らない状態だったため、結局意見を押し通すこともできなかった。
最終的に決定的な埋めがたい価値観の違いに耐えかね、そこを辞めることになったのだが、新しく自分で教室を始めるときにも、結局はその塾での経験がベースになってしまった。

その塾にいた頃、広告を折り込んでも反応が0ということが結構あった。だから私にとって、広告は反応がなくて当然という意識があった。

そして、一時一緒に仕事をさせて頂いていた時間講師のお母さん先生がご自宅で生徒を指導するようになり、子どもが6人になったという話をオーナーが「個人で家でやってるのにすごいよね」と言ったので、そうか、6人ってすごいんだと思ってもいた。

だから、教室を立ち上げた最初の広告で3件の問合せがあり、そのうち2組が入ってくれたことは、私にとっては上出来だったし、初年度で15人以上の子たちが来てくれることになったことも奇跡のように思えた。

けれど、ブログを始め、他塾の先生方ともお知り合いになり、私の「常識」は全く常識ではなかったことを知った。
集めている人は1回の広告で何十人もの生徒を集めている。1年で100人を超す生徒を集めている。そんな事実に驚いた。

あるとき、ブログがきっかけで参加させて頂いた勉強会でお知り合いになった先生が教室に来てくださったときに指摘されたことにも少し驚いた。

中が見えないドアは開けるのに勇気がいる。
いくら2階に大きく名前を出していても、殆どの人は上など見上げて歩いてはいない。
他にもいくつかのアドバイスを頂いた。
言われて初めて、そうか、そうかもしれないな。。。そう思った。

会社を辞めたとき感じたはずなのに、結局どっぷりと中にいる私には見えていないことが沢山あるのかもしれない。
特に私は子どもをいかに伸ばすかということばかり考えているから、それ以外のことには殆ど目が向いていないのではないかと思う。

もちろん、子どもを伸ばすことが何より大切なことだと思うし、それは今後も変わらないと思うけれど、子どもを伸ばすために、私自身がもっと広い視野でものを見られるようになる必要があるのだろうとも思う。

そして、世の多くのお母さん方にも、それは当てはまるのかもしれない。
個人的な感覚だし、全員がそうだとも思わないけれど、自分が産んだ子という部分でやはり「母親」と「父親」では子どもに対する距離感のようなものが違うような気がする。(私は産んだことがないので、実際は違うのかもしれないが。)
多くの父親はよくも悪くもどこか子どもを「他者」として見ることができるのに対し、多くの母親は自分の分身、もしくは一心同体的な意識がどうしても強くなってしまうところがあるように感じるのだ。

だから、多くのお母さんから聞く「ダメだと思うんですけど、つい我慢できなくて口出ししてしまうんです。」「自分の子だとダメなんです。」そういうことが起きてしまうんだろうと思う。

大好きなあまり、わかっているのにセーブがきかない。そして、言ってしまった後で反省や後悔をするお母さんはきっと数え切れないほどおられるのだと思う。

だから、お子さんの教育にはお父さんも絶対協力してほしいし、お母さんは自分のお子さんだけを見るのではなく、ほかのお子さんも見たり、先輩お母さん達のお話を聞いたり、時には専門家にアドバイスをもらったりしてはどうかと思う。

もし可能であれば、お子さんの勉強を見るときに、お友達と一緒に勉強させてみたりすれば、感情的になるのを抑えられるかもしれないし、お母さん自身がお友達と交代で自分のお子さんとお友達のお子さんを見たりすれば、そのことで何か新しい発見があるかもしれない。

特に最近は一人っ子さんも多いし、一人っ子さんでないにしても、上のお子さんは何もかも初めての経験で不安になることも多いのではないかと思う。だからそんなとき、何人かのお友達と一緒にお勉強したり、交流することで、不安が減ったり、お子さんに感情的になるのをセーブできたりするのではないかと思ったりもするのだ。

教室を始めて3年弱。出会ってきたお母さん方は本当に皆さん熱心で、何よりもお子さんのことを心から大切に思っていることがよくわかる。それだけに「叱らないでください」「口出しせずに見守ってください」というのは簡単だが、そうは簡単にいかないものなのだということもひしひしと感じている。わかっているのに言ってしまうお母さんの苦悩も。。。

仕事でも子育てでもなんでも、じっとひとつのことばかり見つめて考えていては、きっと見えなくなるものがある。
私も時々は、意識的に他の世界に目を向けたり、自分を客観的に見ることを心がけなくてはと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月23日 (木)

それってど~よ?(笑)

ちょっと息抜きの記事です。
お忙しい方は何の参考にも、ためにもなりませんので悪しからず。。。

昨日、私を感動させてくれた5年生の子達と話をしていたとき、私の出身大学、出身高校の話になりました。

というのも、彼らの家の最寄のバス停の話をしていたとき、通い慣れた道でもあったので、なんだか懐かしくなって話したところ、まずひと言。

「へ?先生って神○大学なん?!」

「うん、そうやで。」

「へぇ~~、ほんま?そうなん??じゃあ高校は?」

「ん?神○高校。」

「え?神○高校?!ほんま?」

そして次のひと言。

「せんせ~、頭いいん?」

(。。。。。。。。。)

実は、この手の質問をされたのは今回が初めてではありません。。。
塾勤務時代、やんちゃな中学生や成績が今ひとつ芳しくない子達に同じようなことを何度か言われています。。。

ま、確かに、強運だけで合格したって話も無きにしも非ずな身ですので、あんまり反論できないんですけど、内心子ども達に聞きたい。。。

「あなた達はアホな先生と一緒に勉強したいのかい?」

いや。。。でもマズイなぁ。。。子どもって勘が鋭いから、実際私がおバカなことを見抜いているのかも。。。(苦笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

とっても嬉しかったこと

昨日とっても嬉しかったこと。
もう毎日毎日嬉しいことばかりなので、シリーズにしたら何番まで行ってしまうかわからないけれど、昨日のも本当に嬉しかった。

昨日は時々ブログに登場している5年生くんたちのレッスンがあった。
11月途中から来てくれるようになって、今で4ヶ月ほど。じわじわっとだけれど、確かに変わってきているのを感じてはいた。

来てくれた当初はかなり心配だった方の彼が昨日突然尋ねた。

「なあ、〇〇(ある私立中の名前)ってむずいん?(←難しいの?という意味)」

それを聞いて、私が何か答える前にもうひとりが

「お前、受けたいん?」

そう尋ね返した。
すると彼は少し控え目に

「受けられるんやったら。。。」

そう答えた。

実は正直言って驚いた。彼らは某有名受験塾を辞めてここに来てくれたのだ。特に、それを言い出した方の彼はその塾に合わず、早々にリタイヤしたとも聞いていた。だから、まさか中学受験のことを言い出すとは思っても見なかった。

正直言って、今の状態では相当厳しいと思う。けれど、この4ヶ月の変化を見る限り、不可能かどうかはわからない。無責任なことを言って期待させすぎてもいけないし、かといってせっかくそんな風に思えるようになったのに、やる気に水を差すようなことも言いたくない。

少し考えてから言った。

「今はどっちみち無理やん?6年生の勉強もしてないんやし。けど、11月に来てくれてからこれまでの間に、私はあなた達がすごく賢くなったと思ってる。だから、これからの頑張り次第やなぁ。頑張ったら受けられるかもしれへんしね。今はまだ何とも言えへんなぁ。。。」

すると、意外な答えが返ってきた。

受験できるかなと聞いた彼の口からは、嬉しそうにこんな言葉が。

「うん、俺3学期に7回100点取った。」

それまでに彼がどの程度の頻度で100点を取っていたのかわからないが、来てくれたときにはなんだかちょっと自信なさ気だったところを見ても、きっと「7回」は彼にとっての自信なのだろう。それに、5年生だから、ノーミスの100点はそれなりの価値があるとも思う。

そして、もうひとりの口からはニコニコしながらこんな言葉が。

「うん、もう文章題だってす~らすら解けるもん。」

これにはちょっと笑ってしまいそうになったが、折角そんなに嬉しそうに言ってくれるのだから、そうかそうかとニコニコ聞いていた。

実際は、どんぐりの問題などはまだ「すらすら」とはかなり遠い状態だ。
けれど、もしかすると学校での問題がそれまでと明らかに違う感触で解けているのかもしれない。

とにかく、K式、詰め込み受験塾を経て、ここに来てくれた高学年の子が数ヶ月で自分たち自身が変化を実感し、自信をつけ始めてくれていることが何よりも嬉しい。
彼らの笑顔は私を一層頑張らせてくれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月22日 (水)

他者の視点(1)

いつも同じところばかり見つめていると、他のことがわからなくなる。
自分にとって当たり前のことは、世間の人からすると当たり前ではないのかもしれない。

そんなことを一番初めに実感したのは会社員を辞めたときだった。
もともといつか教員になるつもりで、まずは3年と思って選んだ会社だった。色々なことをさせてもらえるようにと、社員が多くない会社を選んだので、神戸本社と東京支社を合わせても、100人ほどの規模だった。

婦人服の企画・製造・卸というのがその会社の業種で、デザイナー達が絵を描き、パタンナーが型紙に起こし、外注工場でそれを製品にしてもらう。
どんな素材を使い、どんなボタンをつけ、どんなジッパーにするか。。。そんなものも全てデザイナー達が生産部門と相談しながら決めていた。

しかし、今思えば、ホントにおままごとのような世界だったと思うのだ。

規模が小さい分、1つの製品を作る枚数は多くても1000枚程度まで、普通は3色各20~30枚というほどの量で、少ないときなど1品番全てで20~30枚というようなこともあった。
要するに、デザイナーが描いたデザインが形になったけれど、それは日本中で20枚とか30枚とかしか存在しないということだ。まるで高級ブランド並みだ。(いや、もしかすると、高級ブランドの方が余程沢山の量を作っているかもしれない。)

そんな枚数しか作らないということは、当然効率が悪い。外注工場に払う工賃や、仕入れる素材、何もかもが割高になるし、かといって大量に作って1枚あたりが割安にできたところで、それを売る営業力がなければ結局は意味がない。

生産部門にいたとき、原価計算をして、定価を決める仕事に参加していた時期がある。
なんだかすごいことのように聞こえるかもしれないが、これがまた本当に誰だってできる、おままごとレベルだったのだ。

もちろん、営業が売りたいと思っている定価がある。それに収まるよう、縫製の工程を簡略化することはできないか、素材を安く仕入れることはできないか、付属品を値段の安い別のものに変えることはできないか、そんなことはみんなで考えていた。
けれど、最善(と自分達が思っている)の努力をした後は、原価率から逆算して上代(定価)が決められるのだ。

もちろん、あまりにも高くなってしまっては売れないので、企画段階でぽしゃることもなくはなかったが、営業が予定している範囲に収まれば、それで生産にかかっていた。

たった数十枚の服を1シーズンにある程度決まった品番数作り、売り上げの計算をする。
しかし、今思えば全てが、予算を達成するためにはどれだけ作らなければならないか、そのためには。。。という逆算から入っていた。
その上、その少ない枚数で全社員のお給料をまかなわなければならないのだから、原価率だってある程度以上は上げられない。
結局、色んなことが妥協と惰性で決まり、進められていたように思うのだ。

あの状態で会社がある程度持ったのは、やはり「親」がお金持ちだったということなのかもしれないと、会社を辞めた後に思った。(勤めていた会社は親会社が日本屈指の総合商社だった。)

中にいた頃、私は全く違和感を持っていなかった。それが当たり前だと思っていた。
おまけに、アパレルに勤めている人間は殆どが自分自身が服が好き、オシャレが好きという人間だから、服飾品にかけるお金は世間一般の平均より遥かに高いのではないかと思う。

だから、世間の人の感覚がわからないのだ。

会社を辞めて、ただの消費者になったとき、服は一番ほしい時期にはセールになっていた。少し待てばセールになることがわかっているのに、余程お気に入りでもない限り、プロパー価格の時期にそのまま買おうだなんて思わないということがわかった。

言ってみれば、そんなことすらみんな殆ど気づいていない(または、気づいていても変えようとしない)会社だったのだ。
考えれば考えるほど恐ろしくなる。
(続く予定です。)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月21日 (火)

やっぱりすごい。。。

今日は祝日ですが、少しだけレッスンがありました。
うちのスーパー3年生たちも今日ご登場だったのですが、彼女達やはりすごい。。。

ピ○マリオンの算数教材をひと通り終えてしまったので、実際にはもう5年内容もほぼひと通り学習が終わっている状態なのですが、何しろまだ3年生。忘れているところやあやふやなところがあるまま先に進む必要もないので、今回からはまず4年内容の復習に入りました。

教科書に沿って用意した復習プリント。
多分一般の塾で単元ごとのまとめテストに使っているところもおありだと思われるA4サイズで100点満点というようなプリントだったのですが、見ていてただひたすら感心。。。そんな感じでした。

まずは円と球の復習。中心や半径、直径という言葉を少し忘れていたものの、それ以外は全く問題なくクリア。(忘れていたそれらも、教えたのではなく、プリントのどこかに答えがあるよと言ったらちゃんと見つけて答えていました。)

中でも惚れ惚れしたのは、縦24cm、横36cm、高さ12cmの箱に半径3cmのボールを入れたら何個入るかという問題。。。
これまで、箱にボールが2段重ねで入るという問題はやったことがありませんでした。さて、どうなるかなと思うまでもなく。。。。。。48個と答えが書かれました。恐るべし。(因みに計算は全部暗算でした。)

超余裕だったので、そのまま割り算へ。2~4桁の数を1桁で割るものの余りがあるものまで、もちろん文章題なども含め、見ている私には(なんでこんな簡単なのさせるん?)と言わんばかりの解きっぷりでスラスラとクリア。

まだいけるのか?と、とうとう教科書では3単元目の億や兆までの大きな数。これも。。。。。。全く言うことありませんでした。。。
6兆は1億の何倍かとか、260億を100倍したらとか、10で割ったらとか。。。そんなのもやはり(なんでこんな簡単なのを。。。)という状態。。。

時間が来たのでそのあたりで今日は終了したものの、60分のレッスンで教科書3単元分、それも教科書より少し難しいものも含めたプリントでやって、全く問題なし。。。

この分だとGWまでに4年生の復習が終わってしまうかもしれません。。。そして、5年生内容も基本的に殆どが復習なので、他のこともしながらゆっくり進めたとしても、今年が終わる頃には多分6年内容に進んでいるのではないかと。。。

因みに彼女達、中学受験の予定はありませんから、本当に週1回1時間ここに来てくれて、1週間で10枚の宿題プリントをやっているだけですからね。

ホントに驚くばかりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月20日 (月)

私の考え

今年唯一の受験生だった中3の子が無事志望校に合格してくれたので、今日書いておこうと思う。

私は随分前から思っていることがある。
それは本当に以前から思っていることだったのだけれど、万一試験で不本意な結果になってしまった後に書くと、子どもへの慰めにとられたり、もしくは、合格させられなかったことの言い訳にとられたりしそうだったので、発表があるまでははっきりとは書かずにいた。

実は今回、中3の子の公立の結果は、気にはなっていたし、もちろんおめでとうと言えることは願っていたが、そう気を揉んでいた訳ではない。薄情なのかもしれないとも思うし、自分でも、この仕事を始めて最初に見送った受験生などはもっとハラハラドキドキ、落ち着かない思いだったようにも思う。

まあ、もしも今回の彼女が併願で私立に受かっていなければもう少し神経をすり減らして心配したかもしれないのだが、正直言って、公立でも私立でも彼女が目標とするところに辿り着くにはどちらでも構わないのではないかと思っていたというのが、あまりやきもきしなかった一番の理由かもしれない。

強いて言えば、公立の方が近いので、時間的にも精神的にも、それこそ経済的にも負担が軽くて済むということがメリットかなというぐらいの意識だったので、きっと神様は、頑張った彼女により相応しい方に進む道を開いてくれるだろうと思っていた。それがもしかしたら私立に進学するということになるのかもしれないなと。

結果的に彼女は近くの公立に無事合格した。これで長年続けている習い事も続けられるのかもしれないし、校風も彼女には合っていそうな気もするので、本当によかったということなのだろう。

何を言おうとしているか。
もちろん、一緒に勉強した可愛い子が志望校に合格するのはとても嬉しいことだ。特に彼女は真面目でコツコツやってきた子だし、それでもいつもどこか少し自信がないようなところもあったので、ここでの挫折はしないで済むことを祈ってもいた。そして、そうなった。本当によかった。

ただ、世の中の多くの受験生の中には、志望校に手が届かなかった子、不本意な結果になった子も少なからずいるに違いない。
その子達に対して思うこと。同じようなことをこだま先生も書いておられたような気がするけれど、私も心からそう思っていることなので、敢えて書かせてもらおうと思う。

今は不本意に思えたり、挫折に感じたりする人もいるかもしれない。
けれど、それが一所懸命やった上で出た結果だとしたら、多分、それは自分が進むべき道、今とるべき道はそっちじゃないんだよってだけのことなんだと思う。

試験なんて、合格か不合格しかないのだから、合格じゃなければ不合格なのだ。けれど、不合格が必ずしも「不幸な結果」だとは思わない。

実は私は大学時代の就職活動で結構苦労をした。最終面接まで行っては不合格ということが何社か続いた。これまでに試験に落ちた経験がほぼなかったということもあり、もうイヤだ。。。とかなり落ち込みもした。

ただ、実は最終面接まで行っていた会社の中に、絶対ここで働きたいと思った会社はなかった。
そして、気を取り直してもう一度頑張ろうと、再度活動を始めた矢先、訪問した会社で少なくともこれまで回った中では一番自分の希望に合っていると思える会社に出会い、あっという間に私の就職活動は終わりを迎えたのだ。

その後、会社を辞めて今の状況に辿り着くまで、本当に色々なことがあった。友人には「そんな波乱万丈なヤツ、なかなかおらんで。。。」と言われたこともあるぐらい、少なくとも私の友人達の中ではかなり様々な経験をした方ではないかと思う。

けれど、その全てが必要だったと思えるし、それがあったから今があるのだと心からそう思える。
どんなに辛いと思ったことでも、逃げずに立ち向かえば、それはいつの日か必ず自分を成長させてくれたり、幸せにしてくれたりするのだと思う。

受験が不本意な結果になってしまった人がいたら、それは必ずあなたに何らかの成長や発見をもたらしてくれるはず。
そして、不本意に思えた選択もふたを開けてみれば、それが自分にとってベターなものだったと思えるときが来るかもしれない。

少なくとも、受験は人生の最終目標ではないのだから、ひとつ躓いたぐらい、きっと長い人生ではなんでもないことだ。

私は慰めでもなんでもなく、心からそう思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

よかったよかった。

塾長ブロガーの皆さんの多くが既に公立高校の発表も終えられ、いざ新年度に!って感じのようでしたが、私の住む県は今日が合格発表の日。

もともと幼児・小学生がメインだから、今年は中3は2人だけ。受験があったのはひとりだけ。

真面目で美人で人がいい彼女。
ホントにコツコツ頑張るんだけど、時々思いがけないポカもする。
だから正直、今だから言うけど。。。一発勝負の試験はかなり不安だったの。。。

おまけに今年の公立の数学の問題は急に全くというほど傾向が変わってて、やたら応用力や発想力の必要な問題が増えてたし、証明を全部書かせるような問題まで出てた!!

これも今だから正直に言うけど。。。彼女は苦戦したはず。。。数学は。。。

こりゃちょっとやばいかも。。。
チラッとそんなことも頭を過ぎったりもして、もしも万一のときはなんて言えばいいんだろうとか思ったりもしてました、実際。(ごめん、Hさん。)

でもでも、無事合格しました~~!!
よかったよかった。ホントによかった~~~!!!

ホントにおめでとう。
これでやっとちょっとホッとできるね~。私も嬉しいなぁ、とっても。

しかし。。。今年かなり変わった傾向が今後も続くんだったら、うちのスーパー小学生達は安泰かもなぁとちょっと思ったりもしたんですけどね。だって、反復や詰め込みじゃ限界ありそうな問題多かったから~。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

卒業論文(2)

先日の続きです。
こんなよいお天気の日にこの記事もどうかなと思いながら(気分的にもっと明るく楽しい記事を書きたい。。。)、書いておかないと、そのまま忘れてしまいそうですので。。。(苦笑)

更に、国語の授業を「定石化」するには、全てにおいて予想のできる発問をしなければならないわけですから、子どもの自由な発想、意見は求められることはなくなるでしょう。内容から確実に読み取れる表面的なことだけを押さえた授業展開になっていくのは容易に予想がつくことです。

ですから、私が卒論を書いている間にも確か西郷竹彦先生だったかと思いますが、法則化運動のメンバーによる文学の授業についての批判本を2冊出され、そのほかにも、記憶にある限りでは色々な先生方から国語の分野に対する批判が多く出されたように思います。

その後私は一般企業に就職し、教育の世界からしばらく離れていたので、運動がどうなっていったのか知りませんでした。(詳しいことは知りませんが、今ではTOSSとしてすっかり定着しているようですね。)

そして、今は陰山先生の100マス計算、漢字前倒し学習、音読などの実践が大流行です。
法則化と陰山メソッドの異なる点は、一方は授業する教師の側しか直接使えないものが殆どだったということもあり、学校という限られた場所でのみの流行に留まったところが多いのに対し、(学校というのは子どもにとっては生活の大きな部分を占めている訳ですが。)他方は、家庭でもやれる部分のみ切り取られたような状態で、学校だけでなく家庭にまで広がっているということでしょう。
どちらの方が影響が大きいかは言わずもがなです。

何度も言うように、小学校の先生方は何かとお忙しい。おまけに、昔と違い、何か少しでも問題(問題とも言えないようなことも多々あると思いますし)を起こせば、すぐに保護者が乗り込んできたり、教育委員会に連絡されたりと、身動きが取りづらくなっているのも事実でしょう。

だったら、手軽にできて効果がある(らしい)と言われるもの、世に広く知られているものを使っておけば、うるさいことは言われずに済むだろう。。。そんな気持ちになったとしても仕方ないことなのかもしれません。(とても悲しいことですが。)

恩師が私に言った言葉が思い出されます。

「おまえは教師にならん方がええんかもしれん。学校もだんだん住みにくくなってるからなぁ。。。」

やる気や熱意がある先生達は居心地の悪い場所。そんな先生達は体を壊すか、心を壊すかしてしまうような場所。今の学校はそんな場所になりつつあるのだとしたら、学校の行き着く先は恐ろしい世界です。

現に、私はもともと子どもたちが大好きで中学校教師を目指していました。その夢に一切の迷いはありませんでした。けれど、恩師の言葉や実際に社会に出てみたことで見えてきたものがあり、自分の目指すものは学校では実現できないと感じたため、その道を選ぶのはやめました。

きっと、子どものことを真剣に考えている人の中には、そんな人も少なくないと思うのです。
「真剣に考えるからこそ先生になれない。」
それが意味するところは・・・・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月19日 (日)

ちょっとしたこと

こんなこと書いても、殆どの方が「そんなの当然でしょ~」って言われるかもしれません。
それならそれでとってもいいことだなぁと思いますし、もし誰かおひとりでも「ほぉ、そういう風に言ったらいいのか」と思ってくださったら、それもそれで嬉しいなと。

という訳で、もしかするとこれから時々おうちでも意識して頂けそうな小ネタ(?)をご紹介するかもしれません。(かもというのは、そういうのを思いつかなかったらご紹介できないものですから。。。)

昨日のレッスンで5年生の子がこれまでの復習で分数を小数に直す問題をやろうとしていたときでした。

2人が2人とも「分子÷分母やんね?」と尋ねます。。。(私は内心しょんぼり。。。)

まあ、この子たちと出会ったのは、学校でその学習が済んだ後なので、ある意味「よく覚えていたね」というところかもしれません。

きっと学校でもそう教わったのでしょう。

「分数を小数に直すには分子÷分母をしましょう。」

そう教わって、覚えたということなんだと思います。

けど、これって覚える必要のあることなんでしょうか?

質問に答えず、彼らに尋ねてみました。

「5分の4って1より大きい?小さい?」

すると、放っておいても「4÷5」の計算をして0.8という答えを出しました。

低学年から見ている子達は分数や小数を大きさのイメージで捉えているので、そんな質問さえされないと思うのですが、高学年で出会う子たちはこれまでテクニックだけを積み重ねてきている場合、何でもかんでも覚えようとしがちです。

覚えたものは忘れます。特に意味も理解せず覚えたものはほぼ間違いなく忘れます。

もちろん、暗記しなければどうしようもない教科や単元などもあるでしょうし、算数や数学でも覚える必要のあるものは間違いなく存在します。

けれど、覚える必要のないものまで覚えたら、その分何かを忘れるのではとも思いませんか?覚えずに済むものは覚えないでいいですよね?

お家でお子さんに何か聞かれたとき、できる範囲で構いませんから、公式を覚えさせるのではなく、気づかせる、考えさせるということを、特に小学生の間は意識してあげてもらえたらなぁと思うのでありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

どなたか。。。

すみません。。。非常にくだらないことなんですが。。。

この頃忙しくてテレビを殆ど見なくなり、バタバタしていると新聞すら見なくなり、昨日帰宅してからたまたま新聞のテレビ欄を見たら。。。

「女王の教室」のスペシャルがあったんですね!?!?

み、見逃した。。。

あれはちょっと見たかったんです。。。いや、かなり見たかったんです。。。
どなたか録画しておられませんか?もしくは、くわし~~~くストーリーを教えてくれませんでしょうか?

スミマセン。。。ど~でもいいことで。。。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月18日 (土)

安堵

今日は先日泣かせてしまった子が来る日でした。
どんな顔で現れるかな。。。普段はニコニコして登場してくれるんだけど、暗い顔で登場したらどうしよう。。。かなり気になっていました。

外は雨。時間になり、階下から子ども達の声が聞こえてきました。いつものように駆け上がってくる足音も。

ドアが開いて、先に入ってきたのは彼。いつもの笑顔で「こんにちは~。」そう言ってくれました
あれこれ悩んでいたのはなんだったんだ。。。と拍子抜けしてしまうほどの笑顔で、もしかしたら夢だったのかしら?とさえ思いました。

それでも、この前の問題は彼にとっては本当に難しかったのかもしれないし、今日は状況に応じて指導の仕方を変えるつもりでした。
しかし、その心配もありませんでした。。。(苦笑)

今日は2人とも宿題もとてもよくやってきてくれていて、レッスンもとても真面目に、それでも楽しく取り組んでくれました。
おまけに、彼らはまだ来年度も小学生なのに、泣いた彼の口からは

「なあ、中学になったらテストとかするん?俺、してほしい。」

と、もう再来年の話です。

「ん?それは中学になってもここに来てくれるかどうかってのもあるしなぁ。中学も来てくれるん?」

そう答えると、当たり前やん、なんでそんなこと言うん?と言いたげな表情です。

もちろん、それはどうなるかわかりません。現状うちは中学生に関しては個別指導でしか対応していませんし、彼らが力をつけてくれれば、一斉指導の塾に行ったって十分やっていけるはずですから。

けれど、この前泣かせてしまった彼がそんな未来の話をしてくれたことが何よりも嬉しくて、心からホッとしました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

流行り

多分私は変わり者だと思う。

昔っから「流行りもの」にはほとんど興味がなかった。
むしろ、いいなと思っていたものでも、みんなが持ち始めたり、人気が出始めると、その熱が冷めていくようで、多分かなりの天邪鬼だ。

アイドルでも何でも、みんながカッコイイという「正統派」をいいと思うようになったのはついこの数年のことかもしれない。
それが証拠に、チェッカーズが全盛の頃、フミヤもいいとは思ったが、一番は高杢だったし、SMAPでは森くんのファンだった。
かなり古い話になるが、阪神でバース・掛布・岡田が活躍していた時代、私が一番好きだったのは平田選手だったし、巨人では篠塚選手が好きだった。

高校生の頃、長かった髪をショートカットにした後、小泉今日子がショートにし、世の中にショートカットの子が増え始めた。切った髪はそう簡単には伸ばせない。このときはさすがにショックで、自分の方が先に切ったのに、まるで流行を追ったみたいに思われると、ちょっと凹んだりもした。

だからと言って、おしゃれに興味がなかった訳ではなく、むしろずっと自分なりのこだわりを持っていたし、多分そう「ダサい」訳でもないと思う。
ただ、人が何をいいと思おうが、何が流行ろうが、私の判断の基準は常に、自分に似合うか、自分がいいと思うか、それだけだった。

そして、それは今でも変わらない。
私のやり方は時代遅れもいいところだろう。経営戦略も何もあったもんじゃない。バリバリやっておられる塾長さんたちから見れば、よくそれで潰れないねと思っているかもしれない。

だけど、今のところ、このやり方しか無理なのだ。
ここまで筋金入りのこだわりは、自分がいいと思ったことにしか情熱を注げないのだから。

大抵のことは決断に恐ろしく時間がかかる。結局決められず時間切れになることも多い。今がチャンスだとか、チャンスを逃したとか、そんなことを感じた記憶すらもない。
ただ、これまでの人生で、絶対これだと思ったときだけは一切迷わないし、即断もできた。

だから、きっとこれからも当分このままなんだろうと思う。

流行には乗れないけれど、いつの日か、いつまでも残る本物になりたい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年3月17日 (金)

妨害

いきなりすごいタイトルですが、お蔭様で直接私に関わることではありません。

お知り合いの方が、全く根も葉もないことを吹聴され、仕事の妨げになっているということを伺いました。
それを吹聴している人間は、これが初めてではないそうです。とても可哀想な人です。(吹聴している人自身がです。)

人にしたことは全て自分に返ってくると言います。
笑顔を向ければ笑顔が、怒りをぶつければ怒りが返ってくる。そう言われると大抵の人が納得するのではないでしょうか。

だから、それ以外のこともきっとそうなんだと思うのです。
目先の利益のために誰かを陥れようとしたり、誰かを騙して儲けたりしても、必ずそれは何らかの形で自分に返ってくると思うのです。
仮にこの人生で目に見える形で報いを受けずに済んだとしても、生まれ変わった次の人生でそれが返ってくるかもしれません。

以前、まだ塾に勤めていた頃、出入りしていたある広告屋の人がいました。
初めてやってきたとき、オーナーに延々と奥方と海外に行って高級ホテルに泊まっただの、有名な高級クリスタルのグラスがどうのだのと自慢話ばかりしていたその人を、私は最初の印象から信用できませんでした。

少なくとも私の目には、その人は裕福そうにも幸せそうにも見えなかったからです。そしてその人は値引きを条件にオーナーを口説き落とし、スクーターにまたがって帰って行きました。

その後、何度かその人はやってきましたが、今度は来るたび他所の同業者の噂話。あの塾の塾長は保護者とどうだとか、あっちの塾は内情がこんなだとか、殆どでたらめなのではと思うような話を並べ立て、「うちには信用できる塾の広告しか出さないから。」そんなことを言っては次の仕事を取って帰るようでした。

その頃はまだオーナーが全てを決めておられたので、意見をしても耳を貸してもらえず、仕方なく、私はあの人が嫌いだとだけ伝えました。

ここでそんな話をするのであれば、他所に行ってうちのこともあることないこと言っているに違いありません。
現に、私が今でも時々お世話になっている良心的な広告屋さんの話では、そこの広告の掲載を断った塾は同じ紙面でひどいことを書かれていたそうですし、良心的な広告屋さん自体も、さんざんありもしないことを吹聴して回られたそうです。

勤めていた頃から私はその人が来ると露骨に態度に出していたので、その人はオーナーに「○○さんに嫌われてるから」と冗談めかして言っていたそうです。

ですから、独立した後も、何があってもそこにだけは広告は出すまいと決めていました。
ある日、ポストにその会社からの掲載依頼のDMが投げ込まれていましたが、そこが私の教室だとは知らないはずだし、そのまま無視をしていました。

それがひと月ほど前、偶然自宅近くで出会ってしまったのです。相変わらずスクーターにまたがった姿で、私は自転車でした。
うわぁ。。。と思いましたが、目が合い、気づかれてしまったので会釈だけして通り過ぎようとしたとき、声をかけられました。

「先生、塾始めはったんでしょ?」

塾を辞めるとき、辞めた後、色々なことがあり、その人への印象は一層悪くなっていましたが、私が塾をしていることを知っているとしても、それ自体は不思議ではありませんでした。

「どうしてですか?」

中途半端な返事をすると、

「いやぁ、そんなことをチラッと聞いたもんでねぇ。」

とまたもったいぶった言い方。

けれど、私が自分のことを嫌っているのも知っているはずだし、その後私がどんな思いをしたかも知らないはずはない。さすがに私を勧誘することはないだろうと思った次の瞬間、

「先生、広告出してよ。」

ちょっと呆れました。
この人にはプライドも後ろめたさも何もないようです。
これで断ったら、私のこともあることないこと言って回るのかもしれない。それならそれでいい。この人に関わるよりその方がずっといい。そう思って、

「無理です。甲斐性ないから。」

そう答えると、いつものように「安くしときますよ」と言ったけれど、それには答えず会釈してその場を後にしました。

もし仮に、教室の周辺でありもしない私のことがでっち上げられて吹聴されたとして、彼を信じる人とはご縁がなくて構わない。
もし仮に、それによってここがダメになってしまうようなことがあったとしたら、それは所詮私がその程度の人間だということだ。
そう思っています。

私はいつも私のまんま、真っ正直にやっていくことしかできません。
けれど、そんな私は多分、間違いなく彼より幸せで満たされていると思うのです。

だから、お知り合いにもそんな妨害でくじけないでほしい。
一所懸命にやっていれば、必ず応援してくれる人、支えてくれる人、守ってくれる人が現れる。私はそう思っています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

先日子どもを泣かせてしまった。

教室を始めてからこれまで、慣れてきて多少悪ふざけが過ぎるような子にも、少しきつめに注意すればちゃんと頑張ってくれていたし、もともとこの仕事に関わるようになってからこれまで、子どもに対して本気で怒ったことは年に1回もないぐらいなので、本気で怒らなければいけない場面は一度もなかった。

それでもこれまで何人かの子どもが、レッスン中突然ぽろぽろと泣き出すのに遭遇することがあったのだが、それは大抵小さい子がそのときやっている問題ができないのが悔しくて(悲しくて)というパターンだった。(そういうことで泣く子は殆どの場合、泣いた後にちゃんとクリアしていくのだけれど。)

しかし、今回だけはずっと心にひっかかっている。

高学年の彼はその日はいつになくふざけていた。注意してもなかなか聞かず、問題に集中しようとしない。チラッと見ただけで適当なことを答え、違うというとまた他のことを答える。そんな状態が続き、自分の頭で考えないならここに来なくていいよ、答えをすぐに言ってくれる塾に行けばいいんだからと、視線の端では彼の様子を気にしながらも、もうひとりの子の方を向いてレッスンを進めていた。

かなり時間が経って、やっと顔が真剣になったなと、ここが我慢のしどころだと思っていた。
私には彼の顔がとてもいい顔に見えたし、やっと真剣に問題に取り組んでいるようにも見えた。

時間を過ぎて、可哀想な気もしたが、ここは心を鬼にしてと自分に言い聞かせ、その問題だけは〇にして帰ってもらおうと粘った。

前半ずっとふざけていた彼とは別人のように、投げ出すことなく頑張って、最後は正解に辿り着いてくれたのだけれど、気づけば目が真っ赤だった。びっくりした。

もうこれで帰らせるのに、泣かせたまま帰らせるのはイヤだ。私だって苦しかった。途中でいっぱいヒントを出して、答えに辿り着かせて〇をあげていれば、こんな思いはしなくて済んだのだ。だけど、ここで折れたらダメだ。。。その日はそう思ったから、ぐっと堪えたのだ。

私は彼が大好きだ。本当に無邪気で素直で可愛い。大好きだからこそ、ここに来てもらうのなら賢くなってもらわなければ意味がないのだ。ただプリントに〇をもらって満足させていたって、今の状態になってしまっている彼は賢くなるとは思えないから、可哀想だと思っても突き放したつもりだった。

帰る前に彼には伝えた。あなたをいじめているんじゃない。ここに来てくれる子みんな大好きだから、賢くなってもらいたいんだと。そうじゃなきゃここに来てもらう訳にはいかないんだと。

泣きながら私を見ている目は決して反抗や怒りの目のようには見えなかったけれど、泣いている理由を尋ねることはできなかった。

彼らを見送った後、おうちに電話を入れ、彼を泣かせてしまったことをお母さんに伝えた。朗らかでとても素敵なお母さんは、明るく「わかりました。フォローしときます~。」と言ってくださったけれど、それでもやはり彼の涙の理由が気になった。

そして、私が取った態度は本当にそれでよかったのかも。

彼がそのとき読んでいた文章は小学生には難しい言葉もかなり混ざっていた。ふざけていたのは、もしかしたら何がなんだかわかっていなかったからなのかもしれない。
その後も、文章にはただの一度も出てきもしないのに「幽霊や、幽霊なんやろ?」と何度も言うので、それもふざけているのだと思ってしまった。けれど、理解できない文章で、彼がそれを理解するにはその物語の中に幽霊を存在させる必要があったのかもしれない。

「ふざけている」と判断したことは、もしかしたら半分以上は私の思い込みだったのかもしれない。
そのせいで彼を泣かせてしまったのだとしたら、本当に心が痛む。

どこまで教えるか、どこまで考えさせるかの判断は私にはまだ難しい。特に学年が上がってから来てくれるようになった子で、考える習慣があまり育っていない子の場合、特にその判断に迷う。

彼の涙がずっと心から離れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月16日 (木)

ご案内

今回は、教室に通ってくださっている方以外の皆さんにご案内させて頂きます。
と言いましても、どなたからも反応がなくたって凹んだりはしませんので。(笑)

私の教室は小さいお子さんがメインのため、春期・夏期・冬期の学校がお休みの期間は、これまで特に講習というものも設定せず、長期でご旅行や帰省などされる方はまるまるお休みされたり、通常通り週1回来てくださったり、時間がたっぷりあるので普段より少し多めに来てくださったりと、ご希望による選択制にさせて頂いてきました。

今後学年が上がってきた子達には何か変更することなどもあるかもしれませんが、とりあえずこの春も講習の設定はしていません。そして、3月最終週は通常レッスンを全てお休みにさせて頂き、ご希望の方や振替レッスンの方のみのレッスンをさせてもらう予定です。

糸山先生のサイトやこだま先生のブログなどでご紹介頂いたこともあって、他県の方も私のブログや教室のサイトをご覧下さっているようで、とても嬉しく、ありがたく思っています。

そして、ふと、普段はとても通えないけど。。。という方でも、関西がご実家だったり、他県でも近県の方だったりということなら、長期休暇の期間なら、見学や体験などをして頂くこともできるのではと思い、ご案内させて頂くことにしました。

まだまだ日々勉強という身ではありますが、今私がわかる範囲で、効果的な家庭学習の方法であったり、家庭でも使える教材であったり、そんなのをご紹介したりもできるかもしれないなと。

実際、学生時代の友人は関東在住なのですが、普段はピ○マリオンの教材をお家で少しずつやり進めていて、帰省のタイミングに合わせて夏や冬だけレッスンを受けにきてくれたりもしていました。

長期休暇の期間は時間の融通も普段よりはききますし、もしもご興味がおありの方がおられましたら、お気軽にお尋ねくださいませ。
以上、ご案内でした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「東京日本橋の・・・」

自宅の電話が鳴った。

もともと電話が苦手で滅多に自分からかけることもないし、今では殆どメールか携帯でのやりとりなので、自宅の電話が鳴ることは少ない。
実家からの電話でなければ、大半が勧誘の電話と言ってもいいほどだ。

そもそも、私の家の電話番号は、長年実家で使われていた番号だ。
生まれたときにはもう使っていたその番号を、震災で一度家を離れることになったとき、手放せば移った仮設でそのまま新しい回線をもらえるということだったようだが、両親はこちらに戻ってきたときにまたその番号を使いたいからと、同じ区内でひとり暮らしを始めることになった私にひとまず使わせることにしたのだ。

両親が仮設に移り、実家が解体・再建されるまでにはそれなりの月日がかかった。その頃にはインターネットをダイヤルアップでしていたので、もう一度これを実家に戻すとなると、何かと手続きが面倒だった。そして、結局そのまま私が使い続けることになった。

ひとり暮らしを始めて以降、電話帳への掲載はしていない。つまり、勧誘の電話はほぼ全て、何らかの名簿などをもとにしてかけてこられているものであろう。特に、親や私の名前を知っている場合は間違いない。

友人や知人には失礼だけれど、自宅の電話に出るときは基本的に名乗らない。
相手の口調でセールスだと思ったら、状況に応じて臨機応変に断りの言葉を考える。

「奥様でいらっしゃいますか?」

そう言われたときには楽だ。「いいえ、違います。」と答えればいい。実際違うのだから。
ただ、そう答えると大抵の場合「お嬢様ですか?」となるので、後は更に向こうの出方を見て、私ではわからないとか、母はそれには興味がないとか言って断る。

「ご主人様(もしくは父の名前)はいらっしゃいますか?」

これも簡単だ。「おりません。」と答える。本当だから仕方ない。

「〇〇〇さん(私の名前)でいらっしゃいますか?」

このときは少し微妙だ。万一知り合いとかだと困る。まあ、口調で大抵わかるが、セールスっぽいときには「今ちょっと出ています」と答えて様子を見る。

そして、厄介なのは、いきなりしゃべりだす勧誘だ。事前に何も聞いてくれず、誰宛にかけているのかさえわからないのに、一方的にセールストークが始まる。その場合、話を途中で遮って尋ねる。

「どちらへおかけですか?」

一方的にしゃべり始めている場合は、話の方向が見えているので、遠慮なく切って構わない訳だけど、話の途中にぶちっと受話器を置くのはやや躊躇われる。
なので、そのように尋ねると、名簿なんかを持っているらしい場合は「〇〇さんのお宅じゃありませんか?」みたいな返事が返ってくる。そこで、「いえ、違います。」と答える。

以上のどれかの方法を使えば、手短に勧誘電話を切ることができる。

今日の電話は最後のパターンで、いきなり一方的に話し始める勧誘だったのだが、私よりずっと年上っぽい雰囲気の声で、口調は非常に丁寧だった。その内容は

「新規株式公開のご案内です。東京日本橋の方からお電話させて頂いております。この度創業20年の老舗の出版社、ドリーム何とか(忘れた。。。)が株式公開することになりまして。。。」

というものだった。全く興味もなかったので、その段階で「どちらへおかけですか?」と尋ね、「〇〇様のところへ。。。」とうちの名前読み間違えて言われたのだが、違うというと「△△様とお読みするんですか?」と名簿かなんか見てるの丸わかりの答えが返ってきて、それでも違いますと答えると「大変失礼致しました。」と切ってくれた。

切った後、なんだか少し気になった。
私の学生名簿とかでかけているんだったらともかく、株式公開だのなんだので勧誘の電話ということはどちらかと言えば父親の方の情報のような気がする。(父はそういうのは一切やらない人だけれど。)

もう定年退職してのんびりしている年代に、「東京日本橋」「創業20年」「老舗」「株式公開」「出版社」「ドリーム(夢)」と安心感や信用を与えられそうな言葉のオンパレード。あまりにも胡散臭さ満載じゃないか?

私自身も株とかを一切やったことがないので、知識がないのだが、創業20年の老舗出版社がこれから株式公開してって。。。それを関西の人間に電話勧誘するっておかしくないんでしょうかね?

新しい手口でもなんでもないけど、老人からお金を吸い上げる気なんじゃないか。。。ちらっとそんなことが頭を過ぎりました。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

全く本当にどうでもいいことなんですけど。。。

帰宅してメールチェックをしていて、とあるDMのメールに目が留まりました。

一流ブランド物を扱うショップのDMで、当然何かを買うわけではないのですが、今は完全にお休みしてしまっているものの、趣味の習い事の関係でジュエリーやアクセサリーの写真を見るのは結構好きなため、なんとなく見ていました。

今回は腕時計の特集のようです。

そして。。。こんなものを発見しました。。。。。。
いや、ホントに全く微塵も教育や子育てに関係ないんですけど、あまりに衝撃的だったもので、誰かに伝えたくって。。。(苦笑)
どうぞご覧下さい。
http://item.rakuten.co.jp/ginzajewellery/gj_pia-w_m0026/

これが「SOLD OUT」と表示されるのはいつなんでしょうね。。。。。。
てか。。。腕切られそう。。。こんなのしてたら。(苦笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月15日 (水)

卒業論文(1)

以前、100マスのことを書いていて、ふと思い出したことがあります。
もうずっと忘れてしまっていましたが、私は卒論で「教育技術の法則化運動」の考察をしました。
今では陰山先生の影になって、あまり目立っていないようですが、向山洋一氏が小学校をメインとして起こした運動がちょうど私が3、4回生の頃、すごいブームになっていました。
簡単にいえば、授業の指導案でよくできたものをみんなで共有しようという動きだったのではないかと思います。(かなり記憶が薄れてきている上、探したのですが卒論やそれに使った文献が見つからないのです。。。)

100マスのことを書いたときにも触れましたが、小学校の先生は多分かなり慌しく授業をしておられるのではないかと思います。
ですから、「いい指導案の共有」の運動は恐ろしいほどの勢いで広がっていました。書店には次々と新しい本が並び、卒論を書き始めた後にもどんどんと実践を紹介した本やその活動を批判する本が出版され、どこまで参考にして書けばいいのか、大変な思いをしたことを薄っすらと覚えています。

私のゼミの教授は東大卒で文学の教育に力を注いでおられた方だったので、法則化運動の、特に国語に関しては否定の立場を取っておられました。
そして、私も、様々な文献をあたりながら、体育や算数などで有効と思えるものもある反面、国語の授業での法則化、定石化(と法則化運動のメンバーが名づけていました)にはかなり問題があるように感じたため、それをメインに論文を書きました。

「法則化」、「定石化」の目指すところは、「誰がやっても同じ授業ができる」というところでした。授業計画案の中で、1時間の授業の間にここでこんな質問をし、こんな板書をするなどといったことがこと細かく書かれ、それを見れば全くの新人の先生でもベテランの先生と同じような授業展開ができるというものだったのではないかと思います。

ここで違和感を感じられた方はなかなか鋭いと思います。
「誰がやっても同じ」ということは、あらかじめ答えが予想できる質問しかしないということに行き着くのです。そうでなければ、計画案通りに授業が進まなくなる可能性が出てきますし、「法則」「定石」とは呼べなくなるからです。

殆どの内容を忘れてしまいましたが、ひとつはっきり覚えているのが、「わらぐつの中の神様」のお話についての授業計画です。

わらぐつとスキー靴の対比を考えさせるという授業の中で、書かれていたのは

「スキー靴:新しい かっこいい いいもの」
「わらぐつ:古い みったぐない(かっこ悪い) 悪いもの」

というような内容でした。
このお話をご存知の方は多いのではないかと思いますが、そもそもわらぐつはおばあさんとおじいさんの馴れ初めになったものです。おばあさんの愛情がたっぷりこもったものです。それを単純な分類をさせた上、挙句、わらぐつは「悪いもの」になり下がってしまいました。

けれど、その指導計画は定石化のひとつのよい見本として、広く紹介されていました。

恐い。。。そう思いました。
大抵の物事には常に良い面も悪い面もあるものです。それを感じ、読み取らせることもこのお話を教科書で取り上げている理由のひとつなのではないかとも思うのです。
しかし、そんなことには微塵も触れられていません。

もし、この計画に沿って授業で子ども達に問いかけ、誰かがわらぐつを「いいもの」だと答えたら、先生は否定するのでしょうか。。。考えただけで恐ろしくなりました。
(もう少しつづく予定です。)

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006年3月14日 (火)

新たなるスーパー幼児

最近なんだかかた~~~~~~い内容が続いた(ような気がする)ので、ちょっとお気楽なブログを。

先日、年長さんが帰り際にぶつぶつと1+1=2、2+2=4、4+4=8・・・とえらくすごいところまで唱えていて感動したお話をしましたが、本日更なるスーパー幼児が登場しました。(笑)

彼はまだ年中さん、春からやっと年長さんです。
先日、ブログに週5回来たいと言ってくれたらしいと紹介させてもらった彼です。

まだ彼とは数えるぐらいしか一緒にレッスンさせてもらっていないので、レッスンの成果ということではありません。(ごく僅かぐらいは好影響を及ぼしているかもしれませんが。)
ですので、ただ単に、彼自身がすごくって驚いたってことのご紹介なんですけどね。

すごい勢いでニコニコ駆け込んできてくれたかと思えば、初めに少しお母さんとお話している間にホワイトボードに何やら書いていました。そしておもむろに

「さんぜんにひゃくってどうかくの?」

と。
お母さんと一緒にホワイトボードを見ると、そこには「1600+1600=3」まで書かれた式がありました。つまり。。。なんでなのかわかりませんが、彼はその足し算がわかっているようです。

「その次に2書いて、0、0だよ。」

そう言うと、何やら続けて書いているようです。そして

「なぁ、ろくせんよんひゃくってどうかくの?」

!?
見ると、そこには「3200+3200=6」と書かれていました。
お母さんも「何でそんなことできるの?あなたは。不思議ねぇ。」っておっしゃりながら、一緒に見ていると、とうとう彼は。。。。。

「いちまんにせんはっぴゃくってどうかくの~?」

ですって!!!!

その計算ができていることもすごいし、既に万までの数がきちんと言えていることもすごいし、なのに、その数字の書き方がわからないのは不思議だし、思わず笑ってしまいながらも大いに感心してしまいました。

更に、お母さんがおっしゃるには、先日、時計の読み方を彼自身が尋ねてきて、1のところが5分、2のところが10分と少しだけ説明をされたそうです。すると、数日後、時計を見て、「5時12分や」とかって、時間が読めるようになっていたのだとか。。。

どうやらまたまたスーパー幼児現れました。
数年後には、多分私なんて全く叶わないぐらい賢い子達が続々とってことになりそうです。
実際。。。現3、4年のスーパー小学生たちには、頭の回転で既に追いつけないときがありますしね。。。(苦笑)

今日も、スーパー3年生の女の子にも驚かされました。

とあるどんぐりの問題をやってもらっていたとき、答えに辿り着く手前で1230分という時間が出てきたのですが、1230分という数字を見た瞬間に

「20時間30分やから。。。」

と!!
もしもし~~~?!なんでそんな秒殺なんですかぁぁ??

かと思えば、もうひとりのスーパー3年生は「120円のシャープペンシルと100円のボールペンを合わせて17本買って1840円でした。。。」って問題を一発で正解していたので、どうやって考えたの?と尋ねたら。。。

「え?40円だから、20円で40円になるのって7本かなぁと思って。2本ってことはないし。」
(1840の40の部分に目をつけ、120の20にも目をつけて考えているということですね。)

うぉぉぉぉ~~~!!賢すぎます。見当のつけ方が凄すぎます。それをきちんと説明できることも更にすごいです。一体何者?って気分です。(笑)

因みに彼女達は、かな~~り骨のある問題ぞろいのプリントを7~8枚やったあと、どんぐり問題を結局5枚、1時間のうちにやってしまいました。。。恐るべし。。。

そのうち、みんながすごくなり過ぎて、「普通」に思えてくるかもしれません。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

すみません!

多分、今日の深夜、もしくは日付かわってからの更新になります。
どうぞお許しを。

寒いので、皆さまお風邪など引かれませんように。。。
忙しかったけれど、今日もとても幸せな1日でした。

明日は高校入試。
頑張ってきてね~~~!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

あるひと言

避難用(?)に立ち上げたアメブロで読者になってくださった方がコメントをくださった。
奇しくもその方は間もなく、私が危険視している機械的プリント反復教室を始められる方だそうだ。

その方がくださったコメントに「批判があるのは知っているが、どんな指導法にもいい面と悪い面があるはずで、いい面も探してみてほしい」という趣旨のことが書かれていた。

なんだかまた違和感を感じた。
もちろん、その方はまだどんぐりの存在もこだま先生のブログの存在も、当然伊藤先生のこともご存知ないようだったので、もしそれを読まれたら何か意識が変わられるのかもしれないけれど、少なくとも私はこれまで「機械的プリント反復教室」のことを「批判」したつもりはないのだ。

高学年以上なら一定の効果があるのかもしれないと、以前から書いているつもりだし、もちろん、低学年の子だって、100人が100人みんな悪影響があるかどうかはわからない。

ただ、危険性が極めて高いと言っているに過ぎないのだ。

例えば、極めて毒性の高い食品があったとして、それは食べたら美味しいのだとしよう。
では、
「その食品の短所は毒性が高いことで、長所は美味しいことです。」
そう答えていいものだろうか?

「美味しいけど、食べたら死ぬかもしれないよ?」
そう言われて、それを食べる人はどのぐらいいるのだろう。

私は批判をしているつもりはない。
これまで自分が出会ってきた生身の子ども達を見ていると、尊敬する先生方がおっしゃっていることと合致することが極めて多く、その結果、少なくとも幼児・低学年期に大量の機械的反復をさせたら、考える力が潰されてしまう可能性が極めて高いと思われるという、私が今感じている事実を述べているに過ぎないのだ。

これは批判なのだろうか?

「この食品は毒性が高いですよ。」

そういうことが批判なんだったら、私がしていることも批判だろう。
だけど、やっぱり私はそうは思えない。

もちろん、私が感じていることとは違うことを感じている人だって世の中に沢山存在することもわかるし、自分が絶対正しいとも思っていない。
ただ、何度も言うが、毒性が高いかもしれない食べ物があれば、それが危険かもしれないという段階でアナウンスされるべきではないか?
知らされないことの方が余程恐くないか?
BSEだってなんだって、知らされた上で食べる人は食べればいいと思う。それは個人の選択の自由だ。けれど、知らないうちに食べているのは恐ろしいことではないのか?

コメントをくださった方は何の悪気もないことはわかっている。それどころか、きっと子どものことを一所懸命考えて、やる気や希望に燃えておられるに違いない。そんな人が世の中に沢山いるのだ。その人たちのどれだけが幼児・低学年期の機械的反復の危険性を把握しているんだろうか。

とにかく知ってもらいたいだけなのだ。
情報のひとつとして真剣に耳を傾け、その上でやはり自分はその意見には共感できないし、それを否定できるだけの実績や成果があるという方はそれでいいと思う。
「危険らしいけど、うちの子は絶対大丈夫よ。もし大丈夫じゃなくても、私が責任を持つわ。」そんな覚悟のある方もそれでいいと思う。

うまく言えないが、ただ私は、いいものはいい。危険なものは危険。それを伝えているだけなのだと、改めて言いたい。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2006年3月12日 (日)

ナイトスクープ

今週は本当に忙しかったので、正直言って殆どテレビを見なかった。家に帰ってきてからも、普段ならとりあえず音がほしい気がしてテレビをつけることが多いのだけれど、それすらしない日もあった。

金曜日、今週は食生活もかなりすごい状態だったので、ちょっとはまともなものを食べようと、スーパーが閉まる23時に間に合うように切り上げて、買い物をして帰ってきた。
数日ぶりにつけたテレビでナイトスクープが始まった。

何かしながらだったので、じっと見ていた訳じゃない。逆に、ちゃんと全部見たかったと思ったのだけれど、2つめだか3つめだかの依頼で、鍛冶屋さんなのだろうか?かなり年齢を重ねられたらしきおじいさんが天然の砥石がないのでこのままでは廃業になってしまうというような依頼で(ご本人の依頼ではなかったようだが)、全国を探し回り、幻(?)の天然砥石を手に入れるというものがあった。

砥石を探して探偵と共に移動しているおじいさんは、さすがにもうそろそろ隠居した方が体のためにもいいのでは?と思わせるほどだった。そのおじいさんの作業場に見事に研磨された砥石が届けられたときにも、北野誠と共にその大きな砥石を抱えるおじいさんの足元はおぼつかず、正直、見ていてハラハラするほどだった。

それがだ、砥石を定位置にセットした途端、おじいさんは職人になった。
まるで別人のようにてきぱきとした動きで斧を磨き、鉄を打ち、見事な出刃を作り上げた。重い大きな金槌で熱した鉄を叩いているその姿は、背筋がぴんとして、どこにも年齢など感じさせるものはなかった。かっこよかった。見ていてボロボロ涙が出た。

話は少し変わるが、私はもともと出不精なので、海外にも殆ど行ったことがない。しかし、初の海外でローマとパリを見、会社を辞めてもう一度海外にというときには迷わずイタリアを選んだ。もしいつかまた海外に行く機会があれば、それでもやはりイタリアを選んでしまうかもしれない。自分でもなぜだかよくわからないのだが、それぐらいあの国が好きだ。

その理由のひとつはもしかすると、今も職人が息づいていることかもしれないと思った。
そして、近代化され、オシャレな建物が立ち並ぶ中に、当たり前のように遺跡や昔ながらの建物が存在する、そんなところも好きなのだと思う。

私は歴史にも経済にも疎いので、イタリアにももちろん問題は色々あるのだろう。そして、私は日本が嫌いではないし、ずっとこの地で暮らしていきたいとも思っている。

けれど、日本は急速な発展を遂げる中で、守るべきものまで全て捨ててきてしまったのではないかとも思うのだ。
伝統の技、日本ならではの文化、習慣、隣近所との家族同様の付き合い、そんな「人間らしい」ものがどんどん失われ、切り捨てられていってはいないだろうか。

それがあの国には残っている気がするのだ。ファッションの最先端とも言われるミラノにさえ、その息吹はしっかりと感じられたし、ローマにだって、フィレンツェにだって、遺跡もあり、職人達も生き続けていた。それを素晴らしいと思うのだ。

今の日本は弱者がどんどん切り捨てられていく。勝ち残ったものだけが恩恵を被り、それ以外のものは存在することさえ許されないような空気がどんどん広がっているような気がするのは私だけだろうか。

もちろん、「弱者」と言われる人にも色々いるとは思う。体も丈夫で元気なのに、努力せずに社会の仕組みだけを批判して、くすぶっているような人は「まず努力しろよ」って言われても仕方ないかもしれない。

けれど、頑張りたくても頑張れない人もいるし、ずっと頑張ってきて、もうリタイヤした人だっているだろう。
それに、例えば、仕事は何をさせてもてんでダメで使えないけど、その人がいるとなぜかホッとする、癒される、そんな人には価値がないのだろうか。
勉強は全くダメだけど、誰よりも優しい心を持っている子は「ダメな子」なんだろうか。

今の日本はなんだか、価値判断のものさしがひとつしかないような気がするのだ。
「古いもの、使えないものは切り捨てる。それはお前が無能だから悪いんだ。」
それはホントにそうなんだろうか。。。

誰だっていつか「古く」なる。今元気な人だって、ある日突然事故に遭い、今の生活を全て失うことだってあるかもしれない。
そのとき自分は「弱者」になり、「負け組」になり、社会の中で息を潜めて暮らしていくのか。それってやっぱり何か違う気がする。

どんなことにもいい面と悪い面があるのだろう。
社会主義と資本主義それぞれ両面があるのぐらいは私だって多少わかっている。日本が社会主義になればいいだなんて思わない。だけど、今あるひとつのものさしだけじゃ「幸せ」は計れない。

私が子どもだった頃にはまだ、夕食の準備をしているときにお醤油が切れているのに気づいて、ちょっとお隣に借りに行く、お隣からお砂糖を借りにくる、そんなことがあった。
けれど、24時間開いているお店が現れ、切れたら買いに行けばいい、そんな状況ができたことで、当たり前だった近所付き合い、近所との助け合いのきっかけをひとつ失ったのかもしれない。

何か困ったことが起きたとき、「〇〇ならあの人に、××ならこの人に。。。」みたいな専門家が沢山いて、お互いが助け合って、支え合って生きていく。そんな世の中じゃダメなんだろうか。

もちろん、専門家って言っても、何か特別な知識や技術を持った人のことを言うんじゃなくて、それこそ、もう隠居したおじいちゃんは昔遊びの知識や昔の出来事を子ども達に伝えてくれたら素敵だし、おばあちゃんは子育ての知恵、生活の知恵、昔からの言い伝え、そんなものを次の世代、その次の世代に伝えてくれたらと思う。
そして、小さい子ども達は、ひとり暮らしのおじいちゃんやおばあちゃんに生きがいを与えてあげる役目ができるかもしれない。
どんな人にだってきっと、その人にできること、その人じゃなきゃできないことがあるんじゃないかと思うのだ。

この世の中が、もっとあたたかな愛が溢れるようになれば、今ある問題の殆どはきっと解決してしまうに違いない。
そんなことを思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月11日 (土)

子どもたちはママが大好き

うちに来てくれている子たちはみんな、本当にママのことが大好き。

ある子はママが作ってくれたバッグをとても嬉しそうに、そして誇らしげに

「これ、ママが作ったの。」

そう教えてくれる。

その表情は、新しい何かを買ってもらったときよりずっとずっと幸せに満ちている。

また別の日には3年生の男の子が新しい、可愛いバッグを持っていたので尋ねると

「あ、これ、母さんが作ってん。母さんとお揃いやねん。」

そう言う彼の顔もとても嬉しそうだったし、おまけに彼は次の週にも、今度は私が何も尋ねていないのに、同じバッグを

「これ、母さんが作ってん。」

と嬉しそうにまた教えてくれた。

また別の子は、レッスンが終わった後にあげる飴をおうちに帰ってお母さんにあげたら、「お母さんが美味しいって言ってた。」そう言いながら、

「これ、お母さんにあげな。」

そう言って、嬉しそうに同じ飴を選んでいる。2つは取っていいことになっているのだけど、そのうち一つはまずお母さんの飴だ。

中には、私が見ていて、これだけ予定をつめては子どもが可哀想なのでは?と思ってしまうママでも、子どもはけな気なまでに一所懸命頑張って、レッスンがもう少しで終わる、もうじきママがお迎えに来るって頃になると

「ママにさっさとやってるところ見せなきゃ!」

そう言って頑張り始める。

子どもたちはみんな、ママが大好きだ。
私はいっぱい「ママ」の話を聞きながら、時々ママが羨ましくなる。こんなにも手離しに無条件に、大好きな存在なのだから。

だからこそ尚更、ママには意識していてほしい。
大好きな人に褒められたい。喜んでもらいたい。子どもたちはみんな子ども達なりに一所懸命それを考えているのだと思う。

その大好きな、もしかしたら世界で一番大好きなママに「なんでこんなのもできないの?」なんて言われたら、消えてしまいたくなるぐらい悲しいかもしれない。
嫌いな人に怒られたって、うるさいなぁって無視していればいいけど、怒っているのは大大大好きなママなのだ。

大好きな人の言葉は多分ストレートに心に届く。
嬉しい言葉も悲しい言葉も。

だからママたちにお願いしたい。
もちろん、命に関わるようなことは本気で、もう鬼になったかってぐらい怒ったっていいと思う。そのことで子どもは傷ついたりはしないだろう。そこには紛れもない愛情が存在するのだから。

けれど、何かが早くできなかったり、ママの思っているようにできなかったりしても、子どもが一所懸命やっている限り絶対怒らないでほしい。
だって、子どもたちはママに喜んでもらいたいから、一所懸命頑張っているのだもの。それなのにうまくできなかったり、さっさとできなかったりするのだもの。
そんなときはママが怒らなくたって、子ども自身がきっと悲しい気持ちになっているはず。

「なんでできないんだろう。。。上手にやってママを喜ばせたいのに。。。」
「なんでわからないんだろう。。。ママに褒めてもらいたいのに。。。」

子ども達の心の中にはきっとそんな思いがぐるぐるしているはずだから。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お知らせ

以前、お知り合いの先生がご自分のブログに全くアクセスできなくなって、バックアップしておかなきゃっていうお話が出たので、そういえば私も。。。と思い、ひっそりと、全く同じ内容ながら、万一何かが消えてなくなってしまったときのためにと、アメーバブログにも「日々の思い」を徐々に写していっておりました。

今回、30時間にも渡り、ココログが使えない状態になり、おまけにもともとBBSもない上に、コメントまで付けられない状態でしたので、今後のことを考えて、一応ご紹介させて頂いときます。

内容は本当に同じですし、まだ作業の途中なので、ココログが問題なく見られるときにはこちらをご覧頂けたらと思います。(基本的にアメブロは今のところバックアップ用と思っていますので。)

因みに、アメブロのURLはこちらです。
http://ameblo.jp/willseeds/

ココログの更新が予告なく止まっているなというときには、覗いてみて頂けたら幸いです。
どうぞ宜しくお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月10日 (金)

若者の夢

先日、高校生のお母さんからお電話を頂いた。というのも、私の教室で扱っている国語の教材は小4以上なら無学年式で、最終的には大学受験や社会人の資格試験などにまで活かせるというようなものだからだ。

とあるサイトでその教材を私の教室が扱っていることを見つけられたお母さんからお電話を頂き、状況を伺った限りでは自学自習が可能のようだったので、教材をお譲りして、困ったときだけ連絡を頂くということでお話させて頂いた。

そして、今日、高校を卒業したての彼が教材を受け取りにやってきた。国語が苦手ということだったし、雰囲気的にも賢そうだったので、理系なのかと尋ねるとそうだと言う。

実はこの彼、昨日教材が揃ったことを連絡したとき、お母さんが不在で彼に用件を伝えたところ、自然に「ありがとうございます。」と言ったので、いい育ち方をしているなと思っていた。

もう少し話を聞くと、国立の付属小・中を経て、私立高校へ。その後、国立のK大が最終目標だったのだけれど、残念な結果に終わり、ひとまず私立に進学して編入の道を目指すと言う。

その話をしているとき、また自然に彼は言った。

「高校も私立だったのに、大学までそうなってしまって、親に申し訳ないことをしてしまって。。。」

その言葉を録音してお母さんに聞かせてあげたかった。
きっと素晴らしいお母さまなのだろう。

国語が苦手で対人関係も苦手だという彼。しかし、彼には夢があるらしい。初対面の私に、すごく生き生きした表情で夢を聞かせてくれた。
とても穏やかで優しい、あたたかな夢だった。
そして、彼は言った。

「夢が実現したときには多分同業者になると思いますんで、よろしくお願いします。」

きっと、この彼が今思い描いている夢を本当に叶えたときには、私なんかが「同業者」なんていうのもおこがましいほどになっているような気もするけれど、こんな若者がいることを嬉しく思う。

いつの日か、彼と同業になれるよう、私もしっかり頑張っておかなくては。
そう思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

取り急ぎご報告

昨日から30時間以上、ブログに全くログインできない、コメントも付けられない状態が続いていました。

今、レッスンの合間に見たらようやく復旧したようです。間もなく子どもたちがきますので、取り急ぎご報告まで。。。

レッスンが済んだらコメントのお返事並びに記事の更新ができると思います。どうぞ宜しく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 9日 (木)

家庭でできる大切なこと

ブログ経由で小学生のお母さんから質問を頂きました。
そのお返事を打ちながら、そうだ!皆さんにお伝えしよう!と思ったことがあります。

既に何かでそういうものを読まれたり、聞かれたりして、実践されているご家庭もあるかと思いますが、特に意識したことがなかったというご家庭では是非オススメしたいことです。
オススメというか。。。正しくは、お子さんがその単元の学習で苦手意識を持たないで済むために家庭で心がけられる簡単なことのご紹介というのが正しいでしょうか。

低学年の間の学習で、苦手に感じるお子さんが多いところに「長さ」「嵩(リットル・デシリットル・ミリリットル)」「重さ」「時間」の単元があります。
それに関しては配当学年などが変わったりしましたが、私達が子どもの頃からずっとあります。これからもなくなることはないでしょう。

私の記憶では小学1年生のときにリットルとデシリットルを習ったような気がするのですが(実際はどうだったかわかりませんが、1と10の換算みたいなものなので、1年生で学習したのかなぁと思っていました。)今は3年生で学習しますね。

時間計算に関しては、私達の頃は時間計算の筆算も習った気がしますが、最近は簡単なものしかやっていないような印象です。

重さにしろ、長さにしろ、さらっと簡単なことだけをやっているような印象を受けるのですが、それでも苦手な子が多い。それはなぜかと考えてみたのですが、理由のひとつ(ふたつ)におうちにある道具が何でも便利になり過ぎたこととお子さんにお手伝いをさせることが少なくなったことがあるのではないかと思ったりするのです。

以前、レッスンで重さの勉強をしていたとき、絵に描かれた秤の目盛りがあまりにも読めない子がいたので、「おうちで色んなものを量ってみてね」と言ったところ、お迎えに来られていたお母さんがひと言。

「うちの秤はデジタルなんです。。。」

そうか。。。最近はキッチン秤も体重計も、それこそ時計だってデジタルのものが増えているんだ。。。そう言われて改めて気づきました。

おうちにデジタル表示の時計があれば、数字さえ読めるようになればすぐに時間はわかるようになります。それを見ればわかるのであれば、わざわざよくわからないアナログの文字盤を見て時間を考えようとする機会は自然と減るでしょう。

体重を量るときだって、それがデジタル表示であれば、針がどこを指しているから何キロかなんて考える必要がありません。見たまんまが自分の体重なのですから。

生活の中で文字盤と針で量を表しているものを目にする機会が減れば減るほど、子どもにとってはそれが難しいものに感じられるのは至って自然なことだと思います。

リットル・デシリットル・ミリリットルだってそうです。普段の生活ではよほど何か意識しない限り、デシリットルの表示を使うことはないでしょう。ジュースだってなんだって、リットルとミリリットルだけで表示されていますから。
おまけに、それが表示されていたところで、意識しなければ何も頭には残らない。仮にお料理などを手伝ってくれるお子さんだとしても、お料理の計量カップや計量スプーンは「cc」の表示だったりもしますしね。
普段、意識したこともないものを学校でいきなり教科書を使って説明されても、実感できないのは当然ですし、「難しい」、「苦手だ」と思うのも自然なことです。

とにかく、量の問題が苦手なのは、実生活でそれを意識することが減っていることも大きな理由だと思うのです。

ですから、小さいお子さんがおられるおうちでは、多少不便でもなるべくアナログ表示の時計や秤を使い、リットルますやデシリットルます、ものさしや長めの巻尺なども用意したりもして、日頃からそれに触れる生活をさせてあげてほしいのです。

「教えよう!」、「覚えさせよう!」と気負うのではなく、日常生活の中で無理なく、「〇〇ちゃん、今何時?」とか「あと何分で〇時になる?」とか、自然とお子さんに時計を見せる機会を増やしてみたり、お料理のお手伝いをしてもらいながら、「これを〇〇グラム量ってちょうだい」とか、「お水を〇デシリットルここに入れてくれる?」とか、そんな機会を作ってみたりしてもらえたらなと思うのです。

初めはリットルやデシリットルは覚えられないかもしれませんから、ますに大きくカタカナと単位両方を書いておいたりしてもいいかもしれません。
既に家で何度も目にしているものを学校で習うとなると、それだけでもかなり心理的に楽になるのではないかと思いますから。

長さも、色んなものの長さを測ってみたり、測り慣れてきたら、ものの長さを予想して当てっこしたりしてみてもいいですよね。

当てっこというのであれば、例えばコップにどのぐらい水が入りそうだとか、洗面器にはどうとか、場合によってはバスタブにはリットルますで何杯ぐらい入るかとか、そんなことも予想して確かめてみたりというのもいいですね。重さでもそんなことはできそうです。

そうやって実感することは多分とてもとても大切で、机に向かって沢山問題を解いても身につかないことをしっかりと記憶に残してくれるはずです。

教室では、もちろんできる範囲では実感してもらうのですが、やはりどうしても限られた時間ですし、心ゆくまでというわけにはなかなか行きません。
それに、一般の塾や教室では具体物を使って実感させながらというところは、そう多くはないのではないかと思います。

反復による暗記で無理矢理定着させた知識は生きた知恵になかなかなりにくいものです。けれど、実生活を通して学んだことは必ずお子さんの本当の力になるはずです。

これまで意識しておられなかった方は、お子さんのためにも少し心がけて頂けると嬉しいです。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006年3月 8日 (水)

駒大苫小牧

先日、ニュースで甲子園で連覇した駒大苫小牧の高3が喫煙だかなんだかで補導され、結果駒大苫小牧は出場辞退に至ったということを知った。

ちょうどお知り合いのところでお手伝いをしているときのラジオのニュースだったので、それを聞いてつい口走ってしまった。

「アホちゃうん。ありえへんわ。」

正直言って私は人前で滅多にそういう言葉を吐かない。そもそもあんまり怒らない。けれど、いくつか私の中に許せないポイントみたいなのがあって、そのニュースは正にそこを突いたのだ。

お知り合いはほぼ耳にしたことのない私の言葉に驚いたようで、

「どうしたんですか?ちょっと過激ですよ?」

笑いながらではあったけど、そう尋ねられた。

実際のところ、高校の野球部で全部員を厳しくチェックしたとしたら、飲酒・喫煙経験者が0だなんて学校はないんじゃないかと思っている。(もしかしたら中にはあるのかもしれないが。)
飲酒とか喫煙とかはもちろんいいことだとは思わないし、特にスポーツマンとしてはタバコは絶対よくないだろ?とも思うけど、それをしていたこと自体に腹が立った訳ではない。
腹が立った最大の理由は補導されたのが高3だったということだ。

自分達は甲子園に行った。そしてもう引退し、卒業式の気の緩みもあったかもしれない。だけどだ、その軽率な行動でこれまでずっと頑張ってきた後輩達の夢をひとつ潰したのだ。
もちろん、まだ夏がある。勝ち残って夏に出場できるかもしれない。だけどそれはわからない。そして、間違いなく連覇の夢はついえたのだ。

私は多分根っからの体育会気質なので、みんなで必死で頑張ってきたことをそんな一瞬の気の緩みで潰してしまった先輩達がとにかく腹立たしかったのだ。

もちろんきっと今頃はみんな後悔していると思うけれど、後輩達のショックは言葉にならないだろう。
今後、この出来事がただの後悔に留まらず、彼らみんなに何か大切なことを気づかせてくれることを願うばかりだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 7日 (火)

幼い日の思い出

昨日は雨だった。普段は9割方パンツスタイルなのだけれど、雨の日は裾が濡れると嫌なので、大抵スカートを履く。
昨日もスカートを履いた後、適当に手に取った黒タイツを履き、仕事に出かけた。

どうやら普段そのタイツを履いているときはパンツを履いているのだろう。だから気づかなかったのだけど、どうやら少しゆるいらしい。動いているとじわっとタイツがずってくるのを感じる。
さすがに人前で豪快に引っ張りあげるわけにもいかず、目立たないようできる範囲でタイツのズレを直していると、ふと幼い日のことを思い出した。

幼稚園の学芸会でのこと。
うちのクラスの出し物は「みにくいアヒルの子」で、自分には全く自覚はなかったが、どうやらその頃から私は姉御肌(親分肌?)だったらしく、見事(?)「みにくいアヒルの子のお母さん役」を仰せつかった。
みにくいアヒルの子役の男の子はカッコいい子だったことを考えると。。。先生はやはりその頃既にキャラ重視で配役を決めていたのではと思える。。。(余談ですが。)

その思い出というのは、実は私は全く覚えていないのだけれど、学芸会の発表が無事終わった後、母親に聞かされ、後にそのときの写真を見るたび思い出して母が詫びたため、私の記憶にしっかり刻まれたものだ。

写真の中の私は、昔の幼い子達は冬になるとよく履いていた「白タイツ」を履いている。
母が言うには、私はそのタイツが嫌いで、当日も履きたがらなかったそうだ。けれど、何とか言い聞かせ、履かせて幼稚園に行かせたとのこと。

発表の最中、そういえば時々、演技に関係ないようなタイミングで笑いが起きているような気はした。何かあったのかな?と思いながらも、「お母さん役」を必死で演じ続けていた。

全てが済んだ後、母は私に謝った。

「ごめんね。履きたくないって言ったのに無理に履かせたから。」

何のことだかちっともわからなかった。

その後母が聞かせてくれたこと。
演技の最中、ずってくるタイツが気になって、舞台の上、みんなの注目を浴びながら、豪快にワンピースをまくり上げ、タイツを引っ張り上げていたそうだ。それも何度も。。。(苦笑)

それを見ながら、母は顔から火の出る思いだったらしいが、同時に、無理に履かせなければよかったと後悔もしたそうだ。
その後何年も、その写真を見るたび謝られたところを見ると、余程恥ずかしかったに違いない。

幸せなもので、本人は全く覚えていない訳だし、おまけにまくり上げたといっても、タイツ全開になっただけ(?)で、幼い子のその姿に大人たちは笑ったかもしれないが、それは恐らく嘲笑ではなかったはず。
白タイツのお蔭で、私にとってその学芸会は一生の微笑ましい思い出になったのだ。

そして思う。

過去の思い出はその多くが、失敗したり、苦しかったことを乗り越えたり、そんなものばかりだ。
例えば旅行に行ったとしても、時が経っても覚えていることは大抵、旅先で起きたトラブルやハプニングで、そのときは大変だったかもしれないが、時と共に懐かしく、微笑ましく思い出せるものだ。

とすると、失敗のない人生は思い出のない人生を作るのかもしれない。
もちろん、思い出なんかいらないという人もいるかもしれないが、それも淋しい気がする。

失敗させないように、怪我させないように。。。
そうやって周りの大人が子ども達に心を配るけれど、もしかするとそれは子ども達の大切な思い出作りの邪魔をしているのかもしれない。
ふとそんなことを思った。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年3月 6日 (月)

お母さん方へ

教室に来てくださっている幼児・低学年のお母さん方のうちどのぐらいの方がここを見てくださっているのかわかりませんが、今日はちょっとお願いとお断りを。

お願いするまでもなく、皆さん素晴らしい子育てをしてくださっていると感じているのですが、それでも、お迎えにいらしてくださったときや、少しレッスンをご覧になっているときなどに、お子さんが少しもたもたしていたり、集中せずふざけているように見えることがあるかもしれません。

お母さん方にしたら、私に気を遣って「ちゃんとしなさい」とか「さっさとしなさい」とか言ってくださっている面もおありなんだと思います。
もしかするとですが。。。私は怒らない、怒れないと思っておられる方も。。。ホントにもしかするとですが、おられるのかもしれません。

ですが、実は私、本当に滅多に怒りませんが、絶対にそれはダメって言うときには中学生のやんちゃな子でもびびるぐらいの迫力があるようです。(いいのかどうかは微妙ですが。)

幼児や低学年の可愛い子達を静かにさせる、怒って無理矢理取り組ませる、そんなのは私にとっては多分すごく簡単なことです。本気で怒らなくたって、怒りパワーの10%ぐらいでもきっとちゃんということを聞いてくれると思いますから。

けれど、それはしたくないし、そんなことして無理に集中させたり、何かをさせたりするのは、きっとなにもいいことなんてないと思うのです。

誰かと比べて自分のお子さんがもたもたして見えることもあるかもしれませんし、理解していても答えを書くのに時間のかかるタイプのお子さんなのかもしれません。
何でもさっさと早くできることが必ずしもいいとは言えません。

実際、今、うちの教室で素晴らしくよくできている3年生の女の子のひとりは、1年生の頃、スピードは決して速くありませんでした。一緒にレッスンしているお友達にいつもいつも速さで負けていました。
けれど、彼女の集中力や根気強さには素晴らしいものがありましたし、実際今は本当に素晴らしい能力を発揮してくれています。

速いことがいいことだと思っておられるようでしたら、それは一概には言えないと思います。ゆっくりじっくり取り組むことで、あるときスピードまで速くなるときが来ますし、来なかったとしても、必要なことを時間内に終えられるのであれば、小さいうちは誰かより遅い、みんなより遅い、そんなことは気にしなくていいと思うのです。

もしも、私に気遣って叱ったり、注意したりしてくださっているのでしたら、そのお気遣いは無用です。本当に叱らなければいけないときは、お母さん方に「そんなに叱らなくても・・・」と言われたって叱りますので。。。

どうぞ宜しくお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 5日 (日)

ビッグマウス(2)

私は塾に勤めていた頃、よく中学生たちに言っていた。
「なんで勉強なんかせなあかんねん」という子達や、明らかにやる気もなくてダラダラしている子達に、勉強したくなければしなくてもいい、その代わり、勉強しなくて高校にも行かないのなら、中学出てからどうするのか考えろと。とことん打ち込める何かがあればいい、スポーツで生きて行くのも芸術で生きていくのも、勉強以外に他に道はいくらでもあるはずだと。もしそれが今見つからないのなら、可能性を広げるために今は勉強したらどうだと。

私にとって勉強とはそんなものなのだ。
私は教員免許を取ろうと思わなければ、大学にも行かなかったと思う。実際、私が受験した頃は国公立は基本的に1校しか受けられなかったから、同級生の多くの子は私大も受験していたけれど、私が知る限り、通える範囲で教員養成系学部があるのはその頃国公立だけだったので、たった1校しか受けなかったのだ。落ちたら浪人。それで仕方ないと思っていた。教育学部じゃなきゃ、大学に行く意味がなかったのだから。

決して勉強が好きだった訳ではない。無精者なので暗記は今でも嫌いだし、目標もないのに嫌いなことを続けられるほどの忍耐力は私にはないのだ。
だから、そんな子が沢山いたって不思議でもなんでもない。

「したくなきゃしなきゃいい。」
私がそういうときは、本気でそう思って言っているのだ。勉強せずに何かで生きていく覚悟があるなら、ホントにしなくていいと、教室をしている今でもそう思っている。
試験でいい点を取るために勉強するというのは、数多くある選択肢のたったひとつに過ぎないのだから。
そういう意味で、亀田三兄弟やオリンピックでは今ひとつ振るわなかったもののスノボの成田兄妹みたいに「学校の勉強」という土俵ではないところで勝負して素晴らしい結果を出している若者達がもっともっと増えたらいいなとも思う。

学校の勉強、テストの点は本当に狭い世界でのひとつのものさしに過ぎないのだということをもっともっと多くの人がわかれば、世の中はもっと優しく、暮らしやすくなるのかもしれないとさえ思う。
知らなかったことを知る喜びは素晴らしいものだけれど、テストでいい点を取ることだけが目標で、そのためには手段を選ばなかったり、テストで点が取れない子を馬鹿にしたりすることは私にはどうしても違う気がするのだ。

そして、「ビッグマウス」について、もうひとつ思うことがある。
そもそも。。。なぜわざわざ英語で言うのかって気もしなくはないが、日本語にすれば「大口を叩く」ということになるのだろう。

少なくとも日本人の国民性からすると「大口」に対するイメージはどちらかといえば否定的なものなのではないかと思う。
最近でこそ変わってきているのかもしれないが、日本人にとっては謙遜が美徳とされてきたのだから、大口を叩く人を評価しないのは当然なのかもしれない。

けれど、改めて思う。
口だけで結果が出ない大口は情けないだけ、かっこ悪いだけかもしれないが、実は「謙遜」には自己防御、自己弁護のずるさみたいなものがあるのではないかと。

私は自分にまだまだ自信がないし、人は強く言われると抵抗を感じるものだとも思っているから、色んなことをやんわりとオブラートに包んで話したりする。けれど、それはどこかで、断言した場合に責任を取らなくてはいけないということを恐れ、逃げているような気もするのだ。

そういう意味でも本物の「大口」を叩ける人は素晴らしいと思う。
いつか私もそんな強気の発言ができるようになれるだろうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月 4日 (土)

ビッグマウス(1)

先日、亀田三兄弟の次男のプロデビュー戦があった。
もともと格闘技には全く興味がないし、見ていても痛いだけで、なぜあんなことに夢中になるんだろう。。。と思っているような人間だけれど、亀田三兄弟のことはなんだか好きだ。

コテコテの大阪の子達。お父さんもかなりのものだ。
彼らが格闘技に打ち込んでいなければ、もしかするとただの乱暴者でしかなかったかもしれない。

彼らの言葉は常に驚くほど強気だ。
相手を挑発するためなのか、単純に思ったことを思ったままに言っているのかは分からないが、あそこまで強気の発言は聞いていてむしろ気持ちいい。

彼らの素晴らしいところは、少なくとも今のところ、その「ビッグマウス」と評される言葉が有言実行になっていることだ。

仮に彼らがあれだけのことを言って、試合であっさり負けたり、勝つにしても最終ラウンドまでもつれ込んで判定勝ちみたいな勝ち方しかしなければ、すぐにでも評価は急落するだろう。
彼らの人気は、言ったことを実現し続けていることで支えられているとも言えるのではないかと思う。

先日父が言っていた。詳しく聞かなかったので、長男なのか次男の話なのかわからないが、プロテストのとき、自分の所属するジム(お父さんの主宰するジム)の名前が漢字で書けなかったらしい。幼い頃からずっと通っているであろう、何百回、何千回と目にしているかもしれないその名前すら書けなかったそうだ。

それを聞いて思わず笑いながら、それだからこそいいのかもしれないとも思ったりした。
少なくとも今の彼らには強くなること以外に努力すべきことはないのだろう。だから、漢字を覚える必要もない。極端な話、文字すら読めなくたって、今の彼らの強さには何の影響もないかもしれない。

多分それでいいのだ。
本当に打ち込むべきものを見つけている人は、勉強なんてしなくたって、生きていくのに必要な知恵さえあればいいのだろう。

価値観は多分相当違うから、もしも身近に彼らがいても仲良くはなれないかもしれないけれど、何かに打ち込んでいる姿はきっと尊敬できると思う。
金子みすずの詩じゃないけれど「みんなちがってみんないい」というように、人それぞれに個性や才能があり、それに磨きをかけること、それが一番大切なんじゃないかと思う。
(つづきます。)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月 3日 (金)

不思議な質問

この前、レッスン中に突然、6年の男の子が尋ねた。

「なあ、センセ~、この教室カエルン?」

ん?なんて??

「この教室カエルン?」

???買うの?変わるの?
疑問詞だらけで尋ねると

「ん?買うことできるん?」

と。

??何でだ?その疑問はなんだ??

「え?ここええなと思って。」

お、気に入ってくれてるのか。そりゃよかった。でも、なんで買うんだ?
そう思っていると彼はもうひとこと。

「ひとり暮らしにええやん。」

(爆)
はい、そうですね。確かにうちの教室はひとり暮らしにはいい感じの広さですもんね。。。

内心かなりウケてたんですけど、本人は至って真面目な顔で言っているので、とりあえず真面目に答えておきました。
しかし。。。教室を見て「ひとり暮らしによさそう」と思われるのって。。。いいんでしょうか。(苦笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 2日 (木)

ペットブームと動物虐待

日曜のウルルンでドイツのブリーダー一家が紹介された。
ドイツは動物愛護の進んだ国で、犬1匹飼うための広さも決められていたり、ペットショップというもの自体が禁止されていたりするそうだ。
犬が飼いたい人は直接ブリーダーから飼うという。

それを見ながら、以前見た番組のことを思い出した。
日本での動物虐待を取り上げた特集のようなものだったが、小動物をエアガンなどで撃ったり、高所から落下させたり、様々な虐待が取り上げられていた。

それと同時に、顔を隠した状態で、動物虐待を続けているという会社経営者(と紹介されていた)男性のインタビューが流された。仕事などでストレスを感じると、エアガンなどで鳥や猫などを撃つのだという。それがストレス解消なのだと。

怖いなと思いながら見ていた。もちろんそんな人は多くはないことはわかるけれど、ストレスを小動物を虐待することで解消する人が存在するのなら、自分より小さくて弱いものを虐待してストレスを解消する人間がいても不思議はない。
今は小動物で収まっているかもしれないけれど、それがいつ幼い子ども達に向くかもわからない。

悲しい思いでその番組を見ながら、また別のことを考えていた。

今、日本はペットブームらしい。次々とペットショップやペットコーナーが作られ、血統書つきの高級犬がどんどんと飼われていく。犬に留まらず、爬虫類や珍しい昆虫など、その範囲はどんどん拡大しているようだ。

しかし、「ペットブーム」という言葉に世の人たちは違和感を感じないのだろうか。
ペットは間違いなく生き物なのだ。大事に育てて命の終わるときを見届けてやる気持ちのない人が簡単に飼っていいとは思えない。
少なくとも「ブーム」などがあっていいとは思えないのだ。

ブームは必ず去るのだ。去るときがあるからこそブームというのだ。

ブームが去った後、動物達はどうなるのだろう。
流行りで飼って、飽きたら捨てるのだろうか。ブランド犬を飼うことがステイタスだとでもいうのだろうか。命あるものをそんな風に扱っていいとはどうしても思えない。

雨に濡れていた捨て猫を拾ってきて育てる人や巣から落ちて親とはぐれてしまった雛鳥を拾ってきて育てる人、雑種の犬や猫を家族のように可愛がる人。そんな人たちも沢山いることを知っているし、そういう人たちは本当に動物が好きなのだと思う。

私の幼なじみは昔から動物が大好きだ。動物のこととなると収入を度外視して、ボランティアでも何でもやってしまうような子だ。けれど彼女はペットを飼っていない。直接聞いたことはないけれど、ひとり暮らしで仕事の忙しい彼女は、いくら好きでも飼ってはいけないと思っているのだろう。

先日、一緒にホームセンターに行ったとき、狭い狭いケージの中に入れられてぐったりしている動物達を見ながら、彼女は憤り、悲しんだ。
これが動物を愛する人の姿だ。

以前、昨今のペットブームに便乗して、遺伝子異常があるとわかっている犬に繁殖させ、血統書をつけて高値で売りつけているペットショップが取り上げられていたのを見た。生まれながらに遺伝子に異常があり、幼いうちに突然死するのだという。それを知りながら、儲けるためだけにそれを隠して売りつける店主。

また、とにかく数多く生ませるため、恐ろしく劣悪な環境でどんどん繁殖を繰り返させられた結果、どんどんと奇形が生まれていたと証言した元店員もいた。

全ては「ブーム」によるものだ。
買う人がいるから、そんな方法でまで売る人がいるのだ。

命あるものをそんな風に扱っていいはずがない。
ペットブームなんて言葉は本来存在してはいけないのではないだろうか。
動物虐待とペットブームは一見対極にあるようにも思えるけれど、もしかすると表裏一体なのかもしれない。
そんなことを思う。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年3月 1日 (水)

可愛くて仕方ない

この頃、自分でもちょっと不思議なぐらい、子どもたちが可愛くて仕方がない。

こう見えて(?)私は子どもの頃はずっと自分より年下の子の面倒をみるのが苦手だったし、塾に勤めていた頃も正直言って、多少でも会話が成り立つ中学生の方が断然好きだった。
そもそも、自分の志望は中学校の先生だったのだから、それは何の不思議もない。

今からほぼ3年前、勤めていた塾を辞めることになった。だから、3年前の今日からは新学年を担当することもなく、最後の受験生たちを無事に送り出すことだけを考えていた。
そのときも、辞めた後にも、まさか自分が幼児・低学年を主対象とした教室をすることになるだなんて夢にも思わなかった。

多分これも運命で、そうなるべくしてそうなったのだと思うけれど、予想もしない展開で自分の教室を、それも幼児・低学年をメインとした教室を始めることになった。

今ももちろん中学生だって、高学年だって、子どもはみんな可愛いけれど、幼児・低学年の子たちが可愛くて仕方がない。
彼ら、彼女らが何をしていたって、思わず顔がほころんでしまうほどだ。

一体何が起きたんだろう?と自分でも不思議になるけれど、選んだ道に後悔はない。
3年前に起きた全ての出来事に心から感謝したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今日から3月

本当に早いですね。
特に2月は短いから尚更ですが。。。

このところ慢性的にバタバタしていて、やらなくてはいけないことが全然追いついていません。
けれど、睡眠不足でレッスン中眠くなるのは絶対避けなければと思っているため、睡眠時間も削りません。。。
必然的に仕事がどんどん溜まっている気がします。。。気のせいだといいのですが。

今日から3月。
もう一度気持ちを引き締めて、しっかり頑張ろうと思います。
あまりまともなブログが書けないかもしれませんが、長い目で見てやって頂けると嬉しいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »