自分を辿る(1)
自分の教室を開いて以来、ずっと考えていることがあります。
もともと、それよりずっと前から考えていたこともあるのですが、幼児教育を意識するようになり、一層考えるようになったことを、恐らく長くなりそうなので、何度かに分けて書いていこうと思います。
これを書くには、まず私自身について簡単な紹介をせねばなりません。
昭和40年代に神戸で生まれ、以来ずっと神戸の地を離れたことがありません。
幼稚園、小学校、中学校は地元の公立。高校は学区内の県立。大学は地元の国立大教育学部。卒業後の仕事でも神戸を出ることなく今日に至っています。
子どもの頃に習ったことがあるのは小学生の頃お習字を6年間、バレエを2~3年、エレクトーンもそのぐらい?記憶にある限り、それが全てです。
その後の学校生活において、塾や予備校を含めて一切の習い事はしませんでした。
私の教室では指導対象のメインが幼児・低学年であるにも関わらず、私は小学校受験も中学校受験も基本的にするつもりはありません。(それには色々な思いがありますので、おいおいそちらも書かせて頂こうと思っています。)
私には、なぜまだ幼稚園のうちから受験をする必要があるのかもよくわかりませんし、また、中学受験に関しては、少なくとも大半の受験生がそうであるように、週に何日も何時間も受験塾に通い、本来、学ぶことと同時にしっかり遊んで、しっかり考えなくてはいけない大切な期間を受験勉強に費やしてしまうことの意義が理解できないのです。
(このあたりのことに関しては、糸山先生の一番新しい著書を読んでいて、色々納得すること、共感することがありましたので、そちらもまた書かせて頂こうと思います。)
自分でも、どうしてそこまで抵抗があるのか、色々考えてみました。
ひとつには、単純に自分に小中学校受験の経験がなく、また、自分の過ごしてきた学校生活は十分に満足できるものだったからということがあると思います。ただ、それだけではなく、どうしても何か違和感があるのです。
小学受験や中学受験を選ばれる保護者の方がしばしば口にされる言葉があります。
「将来、勉強で苦労させたくないから。」
「勉強で」という言葉はつけない方もおられますね。早くから有名校に入れて、エリートコースをということでしょうか。私は、その言葉に最大の違和感を感じるのです。
勉強は苦労なのだろうか?そもそも、勉強は学生時代で終わるんだろうか?幼い時期にしかできないことを犠牲にして先の苦労を買って、その子の将来は本当に安泰なのだろうか?どうしても疑問は次々とわきあがってくるばかりです。
最大の違和感を感じる理由は、もしかすると自分の経験にあるのかもしれない。
そこで、自分の過去を振り返ってみることにしました。
((2)につづきます。)
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