1月17日(4)
会社に行くようになってからも、ひと月以上小学校で寝起きしていました。朝起きると一旦家に帰って着替え出勤。家に帰宅して、また着替えて小学校へ。そんな生活でした。未だにガスも水道も復旧していませんでしたし、お店でものが買える状況ではありませんでしたから、小学校で配られる食事中心の生活で、どうしたってパン、ご飯、お菓子に偏ってしまいました。そして、ここでもまた逞しさを身につけました。
それまでは几帳面な母に育てられたため、賞味期限や消費期限にはとても神経質でした。また、調理前にはお野菜などをきちんと洗わなければ気になりました。
けれど、配給されるパンは消費期限を過ぎたものもありましたし、水が十分にない状態では、お野菜も何もかも満足に洗うこともできないまま調理された食事を食べていました。けれど、どうってことないのです。人間って結構丈夫なんだな。そんなこともあの時実感しました。
避難所では、時間が経つにつれ珍しい配給がされたりもするようになりました。あるとき、ハングル語で印刷されたロッテのチョコレートが配られました。珍しくて、会社に持っていって同僚に見せたりもしました。
そんな私を見て、社内社外の何人もの人が「お前見てると避難所暮らししてみたいなぁ」と、私以外の人に言ったら激怒されるかもしれないようなことを言われていました。
取引先の電話を取っても、「〇〇さんは大丈夫でしたよね?」とはなから決め付ける方も少なくありませんでした。
どうやら私は全く悲壮感のない被災者だったようですね。確かにそうだったのですけど。
今でもよく覚えているのは、仕事で上司達とどうしても京都に行かなくてはいけなくなり、商談後、取引先の担当者とその上司である役員の方が慰労のつもりで食事に連れて行って下さいました。
上司の方は震災のことをあれこれ尋ね、挙句に担当の方に向かっておっしゃいました。
「お前も避難所暮らしさせてもらったらどうや、楽しそうやないか。」
その上司の方とは初対面でした。私のことを全く知らない方にそう言われ、正直なところ、その方の人間の幅が見えた気がしました。反面、その上司の発言を本当に申し訳なさそうに、小声で何度も謝ってくださった担当者の方の心遣いには感謝せずにはいられませんでした。
この頃、同じ関西でありながら、本当にすごい温度差がありました。
震災後、2週間お風呂に入れませんでした。2週間経ったときに1泊だけ大阪の友人のところへ行かせてもらうことになりました。
電車に乗って梅田に降り立ったとき、愕然としました。もうそこには震災の傷跡は何も感じられず、キレイに着飾った人たちがこれまでと何も変わりなく歩いていました。普通に電車に乗れば30分足らずの距離です。避難所にいる間は何も感じなかったのに、自分がものすごく場違いで惨めな気がしました。
それでも私は会社が神戸だったため、普段の生活ではある程度大変さはわかってもらうことができました。けれど、取引先の方の中には神戸に住んでいて大阪にお勤めの方などもおられ、不通区間がある電車、代替バスはどれだけ渋滞するか読めない状況の中、朝始発に乗って、どうにか始業時間までに会社についておられたりもしていたようですが、大阪の方にはその苦労がわかってもらえず、遅刻すれば怒られる、震災のことは一切考慮してもらえない、そんなお話も聞きました。結局、心無い言葉に傷つき、仕事を辞められた方もおられました。
人は、自分に降りかかったこと、自分も経験したことしか、結局は理解できないのでしょう。実際、私だって、それまで日本や世界のどこかで大災害が起きても、気の毒だなと思うだけで単なる他人事としか受け止めていませんでした。だから、被災していない方が被災者の気持ちに共感できないのは無理もないことだと思っています。
そういう意味でも、震災の経験は本当に貴重な経験をさせてもらったと思っています。
(あと少しつづきます)
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