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2006年1月18日 (水)

生かされている

震災を機にもうひとつ強く思うようになったことがあります。
もともとぼんやり思っていたことですが、震災を経、以前ご紹介した飯田先生の著書などに出会い、より一層思うようになったことです。

それは、「人は生かされているのだ」ということ。

もちろん、人はひとりでは生きていけませんから、そういう意味でも「生かされている」のだと思いますが、私が感じているのはもっと大きな、目に見えない力、言うなれば「神」によって生かされているのだと思っています。

何度も言いますが、私は特定の宗教を信仰している訳ではありませんので、神といってもキリストでも仏陀でもアラーでもなく、もっともっと大きな意味で私達を見守る大きな力のようなものをイメージしているのですが。

震災のとき、色々な話を聞きました。
本当は実家にもう1泊して朝帰る予定だったのに、急遽予定を変更して前日の晩帰宅した友人家族。もしもう1泊していたら、彼女達が寝るはずだったその部屋は2階が落ちてきて完全にぺしゃんこになっていたそうです。
その日だけたまたまいつもと違う部屋に寝ていて助かったという知人もいました。
連休でスキーに行っていたのだけれど、帰りの道が渋滞して、まだ家に着いていなかったため助かったという話もありました。

それとは逆に、伝え聞いた話では、普段は寝ることのない部屋に寝ていて亡くなられた方や、揺れの収まった後の部屋の様子からすればおよそ亡くなるはずはないのに亡くなられた方もおられたようです。

また、震災後、テレビで何度も放送されたので、ご存知の方も多いかもしれませんが(私もそのお店は外からしか見たことがありませんが)激甚地でもあった三宮のとある喫茶店。
映像で目にされた方も多いと思いますが、三宮の中心部は阪急の駅や交通センタービル、市役所など多くの建物が倒壊するなど、激しい被害が出ました。

商店街も壊滅状態で、震災後復旧、復興には長い時間がかかりました。
その中に1軒、殆ど被害のなかった喫茶店がありました。両隣のお店は甚大な被害を受けているにも関わらず、そのお店だけがカップがいくつか割れたりという、考えられないほど小さな被害で済んだそうです。

そのお店の名は「5時45分」。奇しくもその時間は震災の起きた時刻の1分前です。

テレビで名前の由来を言っていました。オープン前、なんていう名前にするかマスターたちが話し合ったもののなかなか決まらず、どんどん時間が過ぎ、もう疲れたなぁと「今何時?」そう尋ねたところ「5時45分。」との答え。そして、それがお店の名前になったのだと。

もちろん、単なる偶然ということは簡単です。たまたまそのお店の下だけ、地盤に何か揺れを弱めるものがあったのかもということだって考えられるかもしれません。
けれど、私はそうは思えないのです。やはり見えない力が働いたとしか思えません。

その後、「奇跡の生還」などと言って、考えられないような状況から助け出された方なども数多く紹介されました。

私自身、何かのタイミングが少しずれていたら、命を落としていた可能性は否定できません。タンスの上に置かれていた1.5Mほどあるブリキの衣装缶が2つ、お布団に向かって真っ直ぐに落ちてきていました。もちろん、タンスも倒れてきていました。揺れの凄さを示す信じられないエピソードといえば、揺れが収まった後気づくと、丸い蛍光灯の2本のうち1本がなくなっていました。数日後部屋を片付けていると、倒れなかったタンスの裏で粉々に割れていました。揺れで蛍光灯が外れ、偶然揺れていたタンスの後ろに飛び、タンスが元に戻ったことで押し潰されたということなのでしょう。

それでも私は無傷でした。

実は私は生まれたときにお医者様に匙を投げられたそうです。幼い頃少しだけその話を母に聞いたのですが、そのときの母があまりにも申し訳なさそうだったので、詳しく聞くこともなく育ったので、真実は今も確かめてはいないものの、たまたま大人になってから知人に話したところ、血液型不適合だったからではと言われました。
母はO型なのですが、兄はA型。その時点で母の体には自分を守る抗体ができるとか。で、抗体を持っているのに次に身ごもった私がまたA型。つまり、それで私がやられかけたのではと。
とにかく、生まれて数日間高熱と黄疸が引かず、母はお医者様に諦めるよう言われたそうです。それが今では。。。(苦笑)

正直な話、そんなことは誰も信じてくれないどころか、自分でも信じられないほど、その後の私は健康優良児、今に至っても大病どころか骨にひびが入ったことすらありません。

そのことも含め、私は神様に生かされているのだと思っています。

人にはそれぞれ今回の人生でやらなければならない課題のようなものがあって、それをやり遂げなければ人生は終わらないのではないかと思うのです。

素晴らしい方が早く亡くなられるのは、その方が今回の人生でやるべき課題を全てクリアされたからなのではないかと。

だから私は「寿命」というのは多分ホントに決まっているのだろうなと思っています。
そして、私はまだまだ未熟者で課題が沢山残っているということなのだろうなと。(苦笑)

人は「生きている」のではなく「生かされている」。

今日もしっかり頑張らなくてはいけませんね。

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