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2006年1月31日 (火)

幸せな瞬間

自分で教室を開くまでは、少人数ながらも一斉指導形式の塾で仕事をしていた上、殆どが小学校高学年以上だったこともあり、説明したことをどれだけ理解できているか、どれだけ覚えていて使えているかということに目が行きがちでした。

ですが、今の指導法に出会い、更に様々な本などにも出会い、子どもの能力を伸ばすには「教えない」「急がさない」「反復させない」(幼児~低学年に特に言えることですが。)ということが大事だと知り、その後の私の指導はそれまでとは130度ぐらいは変わったのではないかと思います。

一度に1~2人の子だけを丁寧に見る。見るけれど、説明は必要最低限しかしない。どの子にも、知らない言葉など絶対必要なこと以外は説明せずにまず問題に取り組ませてみる。意味も理解していないのにとにかく覚えろという指導はしない。そんなことを心がけるようになって、沢山のことを発見するようになりました。

その中でも何より嬉しいのが、子ども自身が本当に理解して、自ら会得した瞬間、発見した瞬間に出会うことです。
まだ2年半。全く0からのスタートだったこともあり、関わってきた子どもの数はまだ決して多くありません。それまで何年も、沢山の子達に関わっていたはずなのに、その頃にはその瞬間を感じた記憶がありません。けれど、自分で教室を始めてからは何人もの子の表情が変わる瞬間を見ることができるようになりました。

そして、今日もその瞬間に出会うことができました。

年中の冬から通ってくれている男の子。こちらに来てくれる前に既にプリント反復学習でひと桁の足し算引き算などを繰り返してしまっていました。

決して反応は悪くないし、手先も器用。本来ならもっとすんなり伸びてくれるはずなのに、正直言って相当苦戦しました。(しばらくの間は掛け持ちされていたようなので。。。)

そちらの算数を完全にお休みされたぐらいから、少し様子が変わってきたかなという雰囲気はありました。あと一歩というところまできているんじゃないかなと。

そして今日、以前にもやったけれど、復習を兼ねてひと桁の引き算をやっていました。

教具を見せておさらいをし、いよいよプリントをやり始めました。
最初のうちは、彼の口癖である「かんたん、かんたん」という言葉が出ていましたが、正直なところ「簡単」に解いている訳ではありませんでした。

それが、ある1問の問題でふと彼の表情が変わったのです。
もしかして。。。そう思ってみていると、それまでは間違えると消して適当に書き直すということもあったのですが、それが嘘のようにすらすらと答えを出していきました。

その後はひと桁であれば、ランダムに出た問題でも、少し他のことをした後で戻っても、もう間違えることはありませんでした。

そして、彼の表情は満足そうで、穏やかでした。

その瞬間、子どもたちは本当に見違えるように変わります。
ほんの数秒前までもたもたしていた、何度も間違えていた、嫌々やっているのが顔に出ていた、そんな全てが一瞬で嘘のように消え、本当に素敵な表情になるのです。

そんな瞬間に出会えることを心から幸せに思っています。

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2006年1月30日 (月)

文房具

以前から少し意識はしていましたが、近々ご紹介予定の(今読んでいてあと少しで読み終わります)本で改めて意識したことです。

そういえば最近、ブロガーの塾長さんのお一人も少し近いお話を書いておられたような気もします。

できる子は忘れ物をしない。整理整頓がきちんとできる。
それを感じている大人は結構多いのではないかと思います。

確かにこれまでに私が出会った子ども達を見ていると、そう言っても間違いではないと思えます。

プリント類の整理が全くというほどできなかったのに学校でトップクラスの成績をキープし、学区の上位校に合格した男の子がいましたが、それは本当に珍しいケースで、ある意味彼は天才の域に達していたのかもしれません。(コツコツやっているというタイプではありませんでしたので。)

その彼を除けば、プリントや文房具など勉強に必要なものを整理できない子、なくしてしまう子は概ね成績も今ひとつ振るわないというところはあったように思うのです。

まあただ。。。今私の教室に通ってくれている子たちは殆どみんなよくできる上、レッスン時間より早くから元気に登場してくれるにも関わらず(レッスンに嫌々きているのではないにも関わらず)、困ったことになぜか筆箱を忘れてくる確率が異常に高いように思うのですが、これは過去の例からすると説明がつきません。。。(苦笑)

それは一旦置いておくことにして、最近気になっているのは筆箱の中の状態。

忘れてくる子はちょっと例外になってしまいますが、ある程度の長さのある鉛筆がきれいに削られた状態で数本と、まともな大きさの消しゴム、あとは直線定規などが整然と筆箱に入っている子は概ねよくでき、見ていても心が安定しているように思えます。

しかし、短くて明らかに使い辛い鉛筆がゴロゴロ、もしくは噛んだ跡が沢山ついていたり、削られたまともな長さの鉛筆がなかったり。。。
消しゴムは消えにくいものだったり、ちぎれたり折れたりして原形を留めていないようなものだったり。
必要ないものがいっぱい詰まっているのに、まともに使える鉛筆や消しゴムがない。。。中にはそんな子もいます。

そして、そういう子達はどこか落ち着きがなかったり、集中力が続かなかったり、子どもらしい伸びやかさが感じられなかったりという傾向があるような気がします。

もしかすると、学校にはきちんとしたものを持っていっているのかもしれませんが、小さいうちはやはりある程度保護者の方のフォローも必要なのではないかと思います。

削りたての鉛筆やおろしたての消しゴムはなんだかそれだけでやる気になります。
おろしたての消しゴムは使うのがもったいないから、間違えないようにしよう。。。そんなことさえ思うことだってあるでしょう。

短い鉛筆がダメな訳ではありません。ものを大切に使うということは、今のような時代だからこそ、より意識して教える方がいいとさえ思います。ただ、短くなった鉛筆には補助のキャップをつけてあげるなり、やり方を教えてあげるなりする必要があると思うのです。

実は、教室に来てくれているある女の子は、初めの頃、問題が難しかったりすると、わざと力を入れて鉛筆の芯を折ってしまったり、消しゴムを細かくちぎったりして筆箱の中にはそのかけらがいっぱいでした。

けれど、レッスンを重ねるうち、算数に自信がついてきたせいでしょうか、彼女の芯を折ったり消しゴムをちぎったりする癖は全くというほど出なくなりました。
やはり恐らく、心の安定と繋がっているのだと思います。

小さい子をお持ちの方、あなたのお子さんの筆箱はどんな状態ですか?鉛筆や消しゴムは高いものではありませんし、筆箱だって最近では100円ででもそれなりのものが手に入るのですから、もしももしもお子さんの筆箱の中身がぐちゃぐちゃになっているようでしたら、まずはきれいな鉛筆とよく消える消しゴムを揃えてあげて、その後は、単に整理が下手だったり乱暴に扱ってそうなっているのか、それとも何かストレスを抱えているのか、ちょっとよく見ていてあげてください。

小さなことですが、もしかすると大切なことなのではないかと思っています。

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2006年1月29日 (日)

ちょっとした疑問

最近改めてふと思ったことがあります。
昔、塾に勤め始めた頃にもそういえば思ったなぁと思い出しました。

私が勤めていた個人塾は、玄関で靴を脱いで上がる塾でした。多いときは150人ぐらいの子がいたこともあります。
けれど、その子たちの中で靴を揃える子はほぼ皆無でした。

稀に脱いだ靴を揃える子がいて、極めて稀に他の子の靴を揃えてくれる子がいました。
当然、その子たちは他のこともきちんとしていました。

その後、自分で教室を始めました。もともとワンルームマンションで始めた教室ですので、やはり靴は玄関で脱ぎます。

今、うちに来てくれている子たちの数は少ないのですが、やはり靴を揃える子は限られていて、大半の子は玄関で靴を脱ぎ捨てるようにして上がってきます。

金曜日、1年生の女の子のレッスンが終わり、玄関でお迎えのお母さんと弟くん、彼女を見送ろうとしていたとき、お母さんが彼女に言いました。

「〇〇ちゃん、そのお兄ちゃんの靴、揃えておいてあげてね。」

一緒にレッスンをしている別の男の子の靴のことでした。
このお母さんの言葉にちょっと感動しました。普段から、いい子育てをしておられるお母さんだなと思っていましたが、やっぱり素敵でした。

普段、私も気をつけなきゃ、脱ぎ散らかしてあったらとりあえず揃えて子どもに声をかけるようにしなきゃと思うのに、ついつい忘れてしまうのです。

そういえば、まだ1年生の小さな彼女は、来ると靴を脱いだ後玄関でちゃんと揃えている気がします。
それはやはり、お母さんがきちんと躾けているからなんですよね、きっと。

ということは、今のお母さん達の多くがそれを言わないってことなんでしょうか?
この疑問は昔にも思ったことがありました。それを思い出しました。

私も子どもの頃、いくつぐらいからだったのかは覚えていませんが、しょっちゅう母に言われていた気がします。玄関で脱ぎ散らかしていると叱られ、直らないとしまいには靴を捨てるとも言われ、そのうち靴は揃えるものだと、それが当たり前のことだと身についたように思います。

今はそれは「当たり前のこと」ではないのでしょうか?

玄関で靴を揃える意味はなんでしょう?
後で自分が履きやすいようにということもあるでしょうし、揃っている方が見た目が美しいとかいうこともあるかもしれません。ただ、多分、他者への気遣いも含まれているのではないかと思うのです。

教室や病院、その他多くの人が集まる場所で靴を脱ぐとき、後から来る人が脱ぎやすいよう、邪魔にならないよう揃えて端に置くのではないのでしょうか。そのために躾をするのではないのでしょうか。

小さなことかもしれませんが、その小さなことから、私ももう一度意識していきたいと思います。
もし、普段お子さんに何も言ってないわと思われる保護者の方がおられましたら、黙って揃えてあげるのではなく(一生揃えてあげることは恐らくできませんし。)お子さんに働きかけてみませんか?

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2006年1月28日 (土)

くらべる量ともとにする量

今、5年生は学校で割合を習っているか、そろそろ終わったかという時期。そして、割合は速さと並んで苦手な子がとても多いところです。

個人的には、公式を覚えさせようとすることが諸悪の根源なのでは?と思っており、それに近いことは私が言うまでもなく、とっくの昔に糸山先生やこだま先生、城内先生などなど素晴らしい先生方がおっしゃっているかと思います。

今日、一緒にレッスンするようになって3ヶ月目の5年生の子達と割合の学習をしていました。
学校では割合をほぼ習い終えようとしているところ。因みに彼らは4年生の1年ほど関西の中学受験塾御三家といわれるうちのひとつに通っていたとのことで、そこでも一度習ったそうなのです。

でも、プリントをやらせてみると非常にあやしい。手が出ていないところも沢山あるし、答えを書いているところにもあり得ないような答えがいくつも見受けられます。

2人一緒にレッスンしているのですが、2人の性格はかなり違っていて、ひとりは学校で言われたことを忠実に覚えて使おうとするタイプ。もうひとりはそれが苦手なタイプ。学校では前者は好成績を修め、後者は今ひとつという状態のようです。

後者の子が素直に言いました。
「割合わからないから教えてください。」

私は、それはダメという方もおられるかもしれませんが、中学以降で活かせるであろう考え方は教えますが、公式は教えません。
当然、私の説明には「くらべる量」という言葉も「もとにする量」という言葉も出てきません。

そもそも、その言葉ってわかりにくくないですか?私だけでしょうか?
意味を考えたらわからなくはないけれど、どっちがどっちかわからなくたって問題の意味を考えれば解けるのですから、教える必要性を感じないのです。

そこにもうひとりの子が尋ねました。
「せんせ~、どっちがもとにする量ですか?」

それさえわかれば公式を覚えているから解けるというのです。
それを「解ける」というのでしょうか。

もちろん、彼は何にも悪くありません。学校では当然、恐らく多くの塾でも「くらべる量÷もとにする量=割合」とかいう公式を覚えるように言われるのですから。そして、きっと先生によっては「覚えて当てはめなさい」という指導をするのですから。。。

例えばこんな問題がありました。

「定価2000円のぼうしを1800円で売ることにしました。定価の何%にしたのでしょう。」

わからないから教えてといった子にまず尋ねました。
割合で使う計算は+、-、×、÷のうちどれ?と。それはちゃんとわかっていて、「×と÷だ」と答えました。

次にこう尋ねました。
2000円が1800円になったら、これは100%より多いの?少ないの?と。
これも間違えずに「少ない」と答えました。

そこで彼に言いました。この問題で使える数字は2000円と1800円しかないよと。答えは100%より小さくならなくてはいけないのですから、できることは決まってしまいます。

こんな問題もありました。

「庭の面積は48㎡です。庭の0.75がしばふです。しばふの面積は何㎡でしょう。」

これも間違えていた彼に長方形の図を描いて尋ねました。
これが庭だったら、しばふはどのぐらい?と。
彼はなんとなくですが、ちょうど4分の3ぐらいの広さのところに線を引きました。

そこでもう一度言いました。使える数字は48㎡と0.75だけだよと。
面積と割合は足したり引いたりできる?と尋ねると、「ううん」と。そして、求めたい面積は48㎡より狭いことを図でわかっているのですから、それ以上は言わなくても答えを出してくれました。

そんなやり取りを何度かすると、後は自分で考えられるようになっていきました。

私はただの一度も「くらべる量」や「もとにする量」という言葉を使っていませんが、使う必要を感じないのです。。。

そんなやり取りをしているのに、隣りでは頑なにもうひとりの彼がまだどっちがもとにする量なのかに拘っていました。

彼は何にも悪くない。だけど、このままでは彼は近い将来壁にぶつかるでしょう。
まだなんとも言えませんが、彼ら二人を知る人はほとんどみんな、前者の彼より後者の彼の方が賢いと思っているでしょうし、本人達もそう思っているのではないかと思います。

けれど、私は後者の彼の方が不安なのです。

二人とも本当に可愛くていい子達です。
なんとしても中学に上がるまでに「考える力」をつけてあげたい。そう思っています。

それにしても。。。「くらべる量」や「もとにする量」って言葉は使わなくちゃ、今後何か支障があるんでしょうか?少なくとも私はまだ感じたことがないのですが。。。

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あいのり

スイマセン。。。こんなタイトルで。(苦笑)
ここにそんなテーマで書いていいものかちょっと迷ったのですが、あまりの感動と驚きに、思わず書いてしまうことにしました。

ご存知の方もおられると思いますが、ここを読んで下さっている方の顔ぶれからして、全くご存知ない方も結構おられるかと思いますのでちょこっとご紹介を。

この数ヶ月妙にバタバタしていて、教室に深夜までいることが多いため、長らく見ていないのですが、関西では(他所は違うところもあるのかもしれませんので)月曜23時からフジTVで(だったと思うんですけど)放映されている「恋愛バラエティー」(?)番組です。

7人の男女がワゴンに相乗りしながら世界を旅し、その中で友情や恋愛が芽生え、めでたくカップルが成立したら一緒に帰国、失恋したらひとりで帰国。そんな(身も蓋もない説明でスミマセン。。。)番組です。

あるとき、通称「ヒデ」という男の子がその旅のメンバーになりました。ショップ店員だという彼は、少し中田英寿(ヒデ)に似ているということで本人もそれ風のスタイルを意識して参加しました。

しかし、見た目は多少似ているものの、しゃべり方はなよなよしている。「おしゃれさん」とさん付けでナレーションが入るような、ちょっと独特な感性。正直かなり女性的な印象で、初めの頃は女性メンバーも、彼のことを異性としてみることは全くなく、いい相談相手という感じでした。

語弊があるかもしれませんが、正直言って、最初の頃の彼に対する印象は「気持ち悪い」という感じでした。
仮に私が彼と同年代だったとして、地球が滅んでも彼と恋愛することはないんじゃないかと思うような、ふにゃふにゃしていて頼りない「なんちゃってヒデ」だったのです。

その彼が数ヶ国を旅するうち、アフリカの貧困やエイズ問題など様々な現実に触れ、どんどん変わっていきました。

見ていてはっきりわかるほど、彼の顔つきやしゃべり方までもが、週を経るごとに明らかに変わっていきました。

最後の最後、ちょうど彼が意中の相手に告白をするという回は見逃してしまったのですが、残念ながら彼の思いは叶いませんでした。そして帰国。

その後、ずっとその番組を見られずにいたのですが、今日たまたま友人のサイトで「ヒデ」のサイトを見つけたとリンクしてあるのを目にしました。

クリックしてみて、衝撃を受けました。

そこには帰国して、現在のヒデの姿がありました。
全く別人のように精悍な、本当にカッコいい男の顔になっていました。

人ってこんなに変わるんだな。意志を持って何かを感じて生きれば、こんなにいい顔になるんだな。なんかそんなことを思いました。

もし今、彼と同年代の女の子達が彼を恋愛対象として見られるかと聞かれれば、その番組を全く知らない子でも、YESと答える子も多いのではないかと思います。

人ってすごいなぁ。
「ヒデ」の写真を見ながら、しみじみ思ってしまいました。

因みにヒデのサイトはこちら。
http://blog.jamaa.jp/

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2006年1月27日 (金)

うれしい電話

今日、家で出勤する仕度をしていると、携帯が鳴りました。
見ると、以前勤めていた塾で一年弱一緒に仕事をした学生講師の女の子の名前。

年齢はひと回り以上も違う、彼女からしたら「おばさん」であろう私をなぜか彼女は慕ってくれて、塾を辞めた後も時々連絡をくれ、教室にも遊びに来てくれたりもしていました。

この春には社会人になる彼女は学校が遠いことや就職活動などもあり、しばらくご無沙汰していたので、久しぶりに顔でも見せてくれるのかなと電話に出ました。

「お久しぶり~。お元気?」

そう言うと

「せんせ~~、お久しぶりです~~!」

といつもの元気な彼女。(未だに彼女は私を「せんせい」と呼ぶのですが。。。(苦笑))

「どうしたの?」

そう尋ねた私に、彼女の答えは思いがけないものでした。

「あのね、一緒にバイトしてるお母さんにね、せんせ~の教室は面白いよ~って話したら、一度話を聞いてみたいって言ってるんですけど、どうしたらいいですか~?」

聞けば、彼女のバイト先に小4と小5か小6のお子さんを持つお母さんがおられるらしく、そのお母さんが一度話を聞いてみたいと言っているというのです。

学年が学年なので、仮にご連絡を頂いてもお役に立てるかどうかはわかりません。
けれど、どんな経緯にしろ、こんな風に彼女が私のことをずっと思っていてくれて、知り合いのお母さんにそんな話をしてくれたということにとてもとても感激しました。

私は彼女に何もしてあげられていないし、おまけに彼女は私が塾を辞めるときの辛かったことやゴタゴタも全部知っているにも関わらず、こうしてずっと覚えていて、縁を繋いでいてくれていることが本当にありがたく、幸せに思うのです。

今日は1日幸せな気持ちで過ごせそうです。

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2006年1月26日 (木)

不思議な状態は続く。。。

一体何がどうしたんだろうというほど、秋にとある勉強会に参加させて頂いて以来、他塾の塾長さんたちのご訪問が続いています。

このところ特に重なっていて、先週土曜、今週水、木とバリバリご活躍の塾長さんたちとお話させて頂きました。

もちろん。。。きっかけはその勉強会で、私が今やっているピ○マリオンの指導法の素晴らしさなどをお話したことなのですが、ピ○マリオン自体は伊藤恭先生がお作りになったもので、私はあくまでもそれを使わせて頂いている身。それを使って指導するようになってからまだ、キャリアは2年半の発展途上。

ですので、もともとは伊藤先生をご紹介する橋渡しをさせて頂くだけのつもりだったのです。
それがなんだかおかしなことになっています。。。

伊藤先生のところにいらした後でもまだ、私のところにいらして下さる先生方がおられるのです。。。ホントに一体なぜなのでしょう?(苦笑)

おまけに。。。今日いらした先生に至っては、伊藤先生のところでどの教材を使ったらいいか直接先生ご本人に尋ねられたのに、なぜか答えが返ってこず、仕舞いには「まあ、○○先生と相談して。。。」と伊藤先生までが私と相談しなさいとおっしゃったと。。。(苦笑)

伊藤先生!!そりゃさすがに違うでしょ?それとも私を代理店にでもして下さるんでしょうか。。。(苦笑)

それにしても、生徒数数百人というような規模の塾長さん達が私の小さな小さな教室にいらして、どんなものを得ておられるのか、どうにも不思議でなりません。

私ももちろんかなり不思議なのですが、まあ、一番不思議がっているのはうちの可愛い子どもたちでしょうね。。。12月以降、代わる代わる見たことのない大人が教室に現れ、自分達のレッスンをじっと見ているというのは、多分不思議でならないと思います。(苦笑)

とにかく場所が狭い上、普段は男性がいることがないものですから、子ども達は妙に緊張したり、言葉にはしないもののちらちら様子を伺っていたりと、ちょっぴり可哀想なことをしているかもしれません。
まあ、それでも本当にみんな頑張ってくれるので(普段私とのレッスンに慣れてしまっている子たちにはたまには刺激になっていいのかもしれません(笑))、ご覧になった先生方には軒並み感心して頂けるのですけど。

先月いらして下さった先生が、お世辞もあるのかもしれませんが、うちの3年生の子たちがかなり難しい問題に何の説明も受けず取り組み、1時間ほぼずっと集中し続けていたことに感嘆して下さいました。

今月いらした先生方は、うちの2年生や3年生が普通に取り組んでいる内容を見て、「え?これを2年生がやるんですか?」、「え?これってできるんですか?」、そんな反応をして頂きました。

もしかすると、塾を辞めた直後なら、私もこの子達はみんなすごくレベルの高い問題をやっていて超天才だ~~!!とか思っていたのかもしれませんが、今ではそれが当たり前のことになってしまっていて、そういう意味では他の先生方のそういう反応は新鮮です。改めて、忘れていたものや子ども達の素晴らしさに気づかせてもらえています。

私にはこれが日常なので、よくわからなくなっているのですが、もしかすると、うちでよく伸びている子達は他所では驚異的に賢いというレベルで、うちでイマイチ伸び悩んでいる子達でさえ、他所では普通以上のレベルにいるのかもしれない。。。そんなことを思ったりしています。もしそうだったらとってもとっても嬉しいのですが。

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2006年1月25日 (水)

自分を辿る(5)

就寝時間に関しては中学時代でも晩10時になったらもう寝なさいと言って叱られていたように思います。(だから、今の子ども達が遅い時間に平気で外にいることに余計違和感があるのだと思います。)

学校の勉強で覚えていることは、1年生のときに既に、先生の説明を聞くより自分で教科書を読んで問題を解く方が面白いというか、特に算数は勝手に問題をやっていたこともあったような気がします。

また、その頃の学校では当たり前の宿題だったように思いますが、1年生のときからずっと何らかの日記を書いていたようにも思います。
日記を書いて先生に出すと、何かコメントがもらえるのが嬉しくてまた書く。それは6年生まで続きましたが、今思えば、先生方はさりげなく文章指導をしてくださっていたように思います。何をした、何があった、何を見た、そんな箇条書きのような日記には「それでどう思った?」とか「どんな風にすごかったの?」とか、そんなコメントがつけられることがあり、次の時にはそれを意識しながら書くようになっていった気がします。ありがたいことです。

小さい頃から文を書くことは全く苦にならず、作文の時間も、夏休みの宿題の読書感想文も、悩んでいる友達が不思議に思えました。(内容がよかったかどうかは別の話ですが。)

もうひとつ自分でもおかしいなぁと思っていたことは、記憶にある限り、私は両親に声を荒げられたり、手をあげられたりした記憶は全くないのですが、なぜか怒られることがとても怖くて、何か悪いことをしてしまったときには謝りの手紙を書いて母の目に付くところに置き、しばらくはどこかにじっと隠れているということがありました。

それは特異な例ですが、小さい頃から電話をかけるより手紙を書く方が好きでした。急ぐ用件以外は余程のことがないと電話はしない。そんな子どもでした。

また、本を読むのは好きでしたが、小学生の頃は学校の図書の時間などにはその頃同級生の間で人気だった怪人二十面相などのシリーズや伝記などは殆ど手に取ることもなく、専ら有名な児童文学者(もちろんその頃はそんなこと知りませんでしたが)の物語の本を読んでいました。
気に入った本を週1回の図書の時間数週間、数ヶ月に渡って読み、読み終わってしまうと次に読む本を選ぶのに、少し読んで面白いと思えなければ他の本に替え、時には1回の図書の時間が終わってしまうようなこともあったほど、気に入るものしか読まなかったように思います。
その代わり、本当に面白いと思えるものしか読まない分、感想文を書くのは楽でした。
因みに、感想文の宿題をやるときに課題図書を読んで書いたことは一度もありません。

学年が上がると段々要領もよくなっていき、単純作業の繰り返しが嫌いだった私は、計算ドリルの宿題が出ると、常にだったかどうかは覚えていませんが、まず何問かは真面目にやってから答え合わせをし、間違いなく解けていたら残りは答えを写すなどということもしていたように覚えています。
我ながらなかなか大したものだと思う訳ですが、子供心に、なぜ理解できているものを沢山やらなくてはいけないのか、その意義が見出せなかったのだと思います。
(あと少しつづきます)

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2006年1月24日 (火)

自分を辿る(4)

比較的早くにひらがなを覚えたせいもあったのか、幼稚園のときに「小学1年生」を読んでいたため、1年生になったときには「小学2年生」、そのうち内容に物足りなくなり、月刊の少女マンガ雑誌に移っていったように思います。

また、母のお知り合いの方が「学研のおばちゃん」のお仕事をしておられたこともあってか、1年生のときから「科学」と「学習」は買ってもらえました。子どもの頃はずっと、「学習」の方が好きでしたが、兄は「科学」の方が好きだったようです。

そして、同じく学研のカラーの20巻シリーズの百科事典も私たちのために買ってくれましたし、少年少女文学全集のような、それも15巻か20巻シリーズの箱入りの分厚い物語の本も揃えてくれました。事典で、見たこともないようなものを色々見るのは楽しかったですし、物語も多分全部読破しました。それがあるのが当たり前の環境を作ってくれた親には感謝しなければなりませんね。

うちの母は、教育情報には疎かったようですが、躾には厳しく、例えば、食べ物の好き嫌いは基本的に許されず、小さい頃ほうれん草が大の苦手だった私はいつもは箸をつけたふりでごまかしていましたが、ある日「食べなかったらお母さんは出て行きます」と言われ、それでも食べずにいると、本当に鍵をかけて出て行ってしまい、大泣きして戻ってきてと言ったのですが戻ってくれず、泣きながら2口ほど食べたのを覚えています。

正直なところ、他の野菜で食べられないものは殆ど記憶にありませんでしたから、今思えばほうれん草を食べないぐらい大目に見てくれてもよかったのでは?と思わなくもありませんが、母のお蔭かはわからないものの、今私は基本的に食べられないものはありません。(食べたことのないものについてはわかりませんが。)

また、母は食事中はテレビは消すようにと、恐らく私が小学生の間ぐらいはずっと言っていたように思いますし、やや潔癖なところがあったため、ものを食べるときには絶対手洗いとうがいをしてからでなければダメ、だから買い食いなどもってのほかと言われていました。

話は少し逸れますが、そのことに関してすごく覚えていることがあります。幼い頃から外でものを食べてはダメと言われていたため、兄とお隣のお兄ちゃんと一緒に盆踊りに行き、帰りに配られたアイスキャンディーを兄達は食べながら帰っているのに、律儀に言いつけを守って浴衣の袖に入れて帰ったところ、帰り着いた頃には全て溶けてしまっていて、大泣きしました。
言いつけを守った結果そうなったので、母が必死で謝っていたことを今でも覚えています。

母は食品添加物などのこともお母さん達の勉強会のようなところで少し学んでいたようで、赤いソーセージは子どもの頃我が家の食卓に上ったことは一度もありませんでした。

また、どうしてなのかわかりませんが、私も兄も外食が嫌いで、母が食べに行こうかと言っても頑なに「いや、家がいい。家で食べる。」と兄妹揃って答えていました。
母は365日ほぼ休みなしに食事の仕度をしていたのだなと、今になって少し申し訳ない気持ちになったりもしますが、感謝しています。
(つづきます)

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2006年1月23日 (月)

「生かされている」追記

先日、人は生きているのではなく、生かされているのだと思うというブログを書きました。

その後、ある方からメールを頂きました。
そして、それからずっと考えていました。言葉が足りなかったかもしれない。安易に書いてはいけない話題だったかもしれない。。。

何か書かねばと思いながらも、この数日バタバタとしていたこともあり、一層まとまらないままで、遅くなってしまいました。

ある方が下さったメールにはこんなことが書かれていました。(一部引用させて頂きますね。もしダメだったら削除しますので。。。)

「寿命」が決まっている、と考えてしまうのは、どうなんだろうか?と。

美人薄命。
憎まれっ子、世にはばかる。

では、長生きする人は、「ヤナ奴」なのか?

まず、ここに関しては、書きながら一瞬自分の頭を過ぎったことでもありますので、言葉が足りなかったかと思います。
確かにそんなことわざがあります。まあ、だから私は両方の意味ですごく長生きするかもしれませんが(苦笑)、実際、私が考えている「寿命」というのは一般の感覚での「寿命」とは多分違うのだろうと思います。

違うのに、特に断ることなく同じ言葉を使ってしまったことで、もしかすると読まれて嫌な気持ちになられた方もおられるかもしれません。
お許しください。

こうも書いてくださいました。

どうも、「ガン」をとりあげた、ドラマやドキュメンタリーは、
「かっこよく死ぬ」姿をとりあげるだけで、
「かっこ悪くても、生きる」姿を描いていないように思うのです。



他にも色々素晴らしいことを書いてくださっていました。そんなメールを頂けたこと、本当にありがたく、嬉しく思っています。

うまく言えないのですが(だったら書くなと言われそうですが)、私の言う「決まっている寿命」というのは、例えば、医者にされる「余命宣告」とは全く違っていて(極端な話、医者に余命を宣告された後、不治の病を完治させてしまった方だって世の中には存在するのですから)、死を迎える年齢が決まっているというより、その人がこの人生で果たすべき課題が全てクリアされたときや、そのタイミングでこの世を去ることで別の誰かを成長させられるときなどに「寿命を全うした」ということでそのときがくるのではないかと思っているというのが近いかと思います。

つまり、例えば重い病気にかかったとしても、それを克服することが課題として与えられている方だっているんじゃないかと思います。病と闘う強い心を持つことを課題として与えられているということでしょうか。
そして、例えば最愛の恩師のように、多くの人に惜しまれながら、ご本人も志半ばでこの世を去られたように思える方もいますが、きっと恩師もあのタイミングで天に呼び戻される何かがあったのだと思います。

そのような考え方は、生まれ変わりや前世について書かれた著書などにも出てきます。
幼くして亡くなった子どもは、例えば両親を成長させるという課題を持って生まれてきて、自分がこの世を去ることで両親が成長するという課題達成があるのだと、そんなことが確か飯田先生の本に書かれていたように思います。

とにかく私は寿命が決まってるんだったら適当に生きればいいじゃんということを言っている訳ではなく、むしろそれとは正反対のことを言っているのです。

もちろん、人はいつか必ずこの世を去るときが来るでしょう。仮に生まれ変わって戻ってこられるとしても、今の人生は必ずいつか終わります。

だからこそ、毎日を大切に、幸せに生きていかなくてはと思うのです。
悪いことをして、誰かを苦しめて、それで長生きしたって意味はないと思いますし、長生きするために色んなことを我慢して、楽しくない人生を送るのも何か違うと思うのです。

おかしな例かもしれませんが、うちの父はタバコを吸います。未成年の頃から吸っていたそうです。いくら母がやめさせようとしても、やめることができません。
父は「タバコやめて長生きなんてせんでもいい」と口にすることがあります。

子としては心中穏やかではないものの、そんなときにふと思うのです。極端な話、ものすごいヘビースモーカーでも長生きする人はするし、全く吸わない人でも肺がんになってしまう人もいるのだと。

大好きなタバコをやめれば、きっと父にはストレスでしょう。そのストレスの方がタバコよりずっと体に悪いかもしれません。それは誰にもわからないことです。だから、大好きなタバコをやめてまで長生きしなくてもいいという父の考えには反論する気にはなれないのです。
反論はしないけど、体は大事にして、長生きしてねと思うのです。

頂いたメールにはうまく答えられていないような気がします。
けれど、少なくとも私は命は大切だと思っていますし、与えられた命は精一杯全うしなくてはならないとも思っています。
メールに「かっこ悪くても、生きる」と書いてくださった言葉。私は生きようと努力する姿に「かっこ悪い」なんてものはないと思っています。
逆に「かっこいい死」なんてものもないと思っています。

書けば書くほどまとまらなくなりそうなので、このあたりにさせて頂きますが、もしどなたかに不快な思いをさせてしまっていたとしたら、それは本意ではありません。
どうぞお許し下さい。

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2006年1月22日 (日)

改めて気づいたこと

ある方にメールを打ちながら、ふと気づきました。
もしかすると、何を今更?そんなこと前からわかってたでしょ?と言われるのかもしれませんが、自分の中で「あぁ、そうか、そうだったな」と改めて気づいたので、書き残しておこうと思います。

すごくすごく根本的なことです。
当たり前すぎて改めて考えたこともないという方も多いのではないかと思います。

子どもをお持ちの方や私と同じような仕事をされている方の殆どが自分の子どもや自分が関わっている子どもに「賢くなってほしい」「勉強ができるようになってほしい」を思っているのではないかと思います。

それはなぜでしょう?

「何でも、できないよりできた方がいいから」
とか
「勉強ができた方がいい学校に入れるし、そうしたら将来安定だから」
とか
「学校の勉強についていけないと可哀想だから」
とか、他にも色々な理由が挙がるかもしれません。

けれど、少なくとも親が自分の子どもに対してそう思うのは、突き詰めればほぼ間違いなく、それが子どもの幸せに繋がっていると思っているからのはずです。

もし仮に、全く勉強をしないで学校の成績は散々だったという子達が大人になって、みんな幸せになっている。逆に一所懸命勉強して好成績を収めていた子達が大人になって、みんな不幸になっている、そんな現実があったら、それでも親は自分の子どもに「頑張って勉強しなさい」と言うでしょうか?

あくまでも予想でしかありませんが、恐らくそんな方は極めて少ないはずです。

もちろん、学ぶこと、知らなかったことを知るということ自体に喜びがありますから、するなと言ってもする子どももいるでしょう。その喜びを知っている親が、そうしたら将来不幸になるかもしれないけれどとやらせるかもしれません。

けれど、やはりそれは圧倒的少数に違いありません。

要するに、大人が子どもに勉強させる、よい成績を収めさせたいと願う、その理由は突き詰めれば「将来子どもが幸せに過ごせること」を願ってのことといっても過言ではないのではないでしょうか。

私には「自分の子ども」はいません。
けれど、子ども達が大好きです。
子ども達みんなが幸せに過ごせることを願っています。

だから、もしももしも、賢くなることで子どもが不幸になるということであれば、私は今の仕事を続けることはできません。
私がこの仕事をしているのは、素敵な子どもが素敵な大人になって、将来を幸せに楽しく過ごしてほしいからなのです。
そのことに改めて気づきました。

そして、だからこそ、夜遅くに電車で出会う塾帰りの小学生達を見て不安になるのです。
この子達は本当に「幸せになるため」の勉強をしているのだろうかと。。。
その生活を続けることで、幸せから遠ざかってはいないのかと。。。

伊藤先生に初めてお会いしたとき、先生がおっしゃった言葉を改めて思い出しました。

「塾に行って勉強ができるようになるのなんて、そんなの当たり前のことです。
素敵な子どもを育てなきゃ。」

勉強はしたいからする。
そうじゃなければ、幸せになるためにする。

今のところ私には、それ以外に子どもに勉強をさせる理由がわかりません。

本来、知らなかったことを知る、できなかったことができる、それは知的好奇心を満たしてくれる楽しい活動のはずです。その楽しさを知っている子どもは、闇雲に勉強を嫌ったりはしないはず。もちろん、時には苦しいこともあるでしょうけれど。

私の仕事は子どもが成人してどう過ごしていくかまで見届けられることは稀でしょう。
けれど、過去関わった子達はみんな幸せでいてくれることをいつも願っています。

そしてこれからも、きっとそれは変わりません。

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2006年1月21日 (土)

なにかすごいらしい。。。

11月の初めにとあるワークショップに参加させて頂いて以来、時々他塾の塾長先生がご見学に来られるようになりました。

そもそもは、私が今やっているピ○マリオンをはじめとする素晴らしい指導法のことをチラッとお話したのがきっかけになっているのですが、ワークショップには私以外に15名の塾長さん、塾講師の先生方がいらしていて、そのうち7名(!)の先生とそのお知り合いの先生、合わせて8名の先生方が今日までに来られました。
因みに、その先生方はほぼ皆さん、生徒が100人以上、多い方では600人やそれ以上の生徒数の塾長さんまでおられるんです。経営戦略とかももちろんしっかり立てておられ、バリバリやっておられる方ばかり。

ですが、私の教室をご存知の方もおられると思いますが、本当に小さなお部屋に長机が2つあるだけの小さな小さな教室です。
私自身、子どもが100人になるとかそんなことイメージしたこともありませんし、(もちろん今より沢山の子ども達に出会えるといいなと願ってはいますよ~。)「ケイエイセンリャク?それってなぁに?」みたいな状態ですし、そんなに多くのすごい塾長さんたちにお越し頂くようなところではないのです。ホントに。。。

まだまだ未熟なところだらけで、日々勉強。ああ、もっと子どもを伸ばせるようになりたい。もっと頑張らなきゃ。。。そう思ってばかりの毎日です。
もちろん、子ども達はみんな可愛くって、私は毎日幸せな気持ちにしてもらえますから、私は私のこの教室が大好きですけどね。

しかし。。。本当に何がなのだかちっともわからないのですが、私はなにか「すごい」らしいのです。
う~ん。。。連日のように座椅子で寝てしまっても風邪ひとつ引かない頑丈なところとかのことでしょうか。。。でも、それは多分ごく一部の方にしか知られていないはずだし。。。

ホントに、私からしたら皆さん「すごい」塾長さんで、足元にも及ばないんですけど、何かしら「すごい」と思って頂けるのはありがたいことですので、今後もそう思って頂けるよう、頑張って。。。う~ん、でも、何がすごいかわからないから、頑張りようがないかもしれません。(苦笑)

ということで、今後もこれまで通り、マイペースで行かせて頂きます。(笑)

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2006年1月20日 (金)

振込用紙

このところ、ひたすら真面目な路線で(そう思っているのは自分だけかもという不安もなきにしもあらずですが。。。)書いているので、ちょこっとどうでもいいお話を。

教室を始めて長い間、教室にはインターネット環境がありませんでした。
完全に0からスタートした教室でしたから、初めは必要最低限のものだけということでやってきて、本棚をひとつ、椅子をもうひとつ、教材を少し、そんな風にものを増やしてきて、去年の夏頃から教室にネットを引くかどうか迷いに迷って、秋にパソコンを買い換える決心をしたと同時に(98年春発売のノートにご老体に鞭打って、頑張って働いてもらっていましたもので。。。)ネット同時加入なら更に安くなるということで入っちゃいました。

で、そのとき同時加入の指定はOCNかyahoo!で、たまたま尋ねたお兄さんが後者からの出向の方だったこともあり、そちらに決定。
契約時、無料期間中に解約しても違反にはならないと聞き、おまけにそのとき「もし解約を忘れてたら、振込用紙が届くので気づきますよ」とのお兄さんの言葉。そっか、ならまあどこかに乗り換えるにしてもとりあえずそれでいいやと。

その後、支払い手続き書類とかも来ていたものの、振込用紙が届くはずだし、2ヶ月は無料だしとのんびりしていたところ、どうやら振込用紙なるものは、引き落としできなかった場合にしか送られてこないらしいということが判明。しかし、時既に遅く、今から手続きしても今回は用紙が送られてくるという内容のメールが。。。

ま、もともと振込用紙で振り込みたかったからいいんだけど、無料期間でも無条件でセットになっているIP電話とかの通話料はかかりますって話だったから、それがどのぐらいかかってるんだろうな。まあ、転送の電話とかは全部NTTだから、大したことはないはずだけど。もし忘れてて何か巨額の請求とか来たらどうしよう。。。
ちょっとだけ不安を感じつつ、振込用紙の到着を待っていました。

そして、昨日ポストに封筒が届きました。
ほんの少し緊張しながら、手続きを放っておいたので督促とか手数料とかかかってるのかもと、ちょっとドキドキして封を切りました。

振込用紙を取り出して恐る恐る金額欄を見ると。。。

26円。

ヲイ。(苦笑)

26円のために振込用紙に印字し、封筒を使い、郵送料を使い、これを届けてくれたのかと思うと、なんだか妙にいじらしく。。。なったりはしませんでした。(苦笑)
なんだかお役所仕事のようですね。
どうやらわたくし、ソフトバンク様に損をさせてしまったようでございます。(笑)

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2006年1月19日 (木)

自分を辿る(3)

父は手先の器用な趣味の多い人で、私が幼い頃、我が家にはレゴや精密なプラモデル、積み木や塗り絵などが当たり前にありました。父は趣味で折り紙もしていました。
兄と一緒に見様見真似で色々なものを作ったり、塗り絵を塗ったりということは常にしていたようにも思います。

父は当然ながら色を塗るのも、絵を描くのもとても上手く、ものを作らせてもなかなかのものを仕上げる人でしたので、子供心に「私もあんな風にできるようになりたい」と思ったものです。
また、3歳年上の兄が持っている色数の多い色鉛筆が羨ましくて羨ましくて、自分の塗り絵は下手なのに、兄が上手いのは色鉛筆のせいだと思ったことも覚えています。

それとは別に、母としてはお箸を上手に使えるようにさせたかったようですが、「豆つかみ競争」と名づけられたゲーム(?)が我が家にはありました。低学年のうちは兄も一緒にやっていたように思いますが、そのゲームは、時折幼児教育関係の書籍などで見かけることもあるのでご存知の方もおられることでしょう。

我が家の場合は、何かお菓子が入っていた木箱にやはりお菓子が小分けに入っていたようなプラスチックのケースを並べ、豆は確か5種類ほどあったのではないかと。小豆、うずら豆、金時豆、黒豆。。。4つかな?とにかく色や大きさの違う豆が4~5種類ずつ1つのケースに入っているのですが、それをお箸で上手につかんで、右から左、または左から右のケースに移す速さを競うというものでした。

残念ながら、ゲームに必死になってしまった私は、母の意図する「正しくお箸を使えるように」という結果は得られませんでしたが、最近になって色々な本を読むと、頭のためにはよかったのだろうかと思ったりします。

時代も時代だったのでしょうけれど、遊びといえば基本は外遊び。兄がいたせいもあり、兄にくっついて近所の子達とビー玉やメンコをしたり、大きな石を動かしてダンゴムシを発見し、丸めて遊んでみたり、小学校低学年頃まではそんな感じだったように思います。

室内での遊びは、積み木、パズル、レゴ、トランプ、そんなものが中心でした。1年生になったとき、母の見様見真似でかぎ針を持ち、くさり編みだけできるようになりました。今思えば恥ずかしい限りですが、1年の担任の先生のお誕生日に、金色に近い毛糸でくさり編みをし、ネックレスだといってプレゼントしたことを覚えています。

もう少し学年が上がると、児童館でもう少しちゃんとかぎ針編みを習い、少しまともなものが編めるようになりました。

また、自分でも不思議なのですが、小学生の頃、しばしばしていたことが「母のお財布の中の小銭を数える」ということでした。
お金がほしいとか、そういう感覚は全くなかった気がしますし、お財布からお金を取ったこともありません。ただ単にお財布に入っている小銭だけをテーブルの上に出し、種類ごとに分け、それぞれ種別に合計した後合算する。ただそれだけのことなのに、結構頻繁にしていたのでしょう、母に「またやってる」と言われたことを覚えています。
((4)につづきます。)

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2006年1月18日 (水)

生かされている

震災を機にもうひとつ強く思うようになったことがあります。
もともとぼんやり思っていたことですが、震災を経、以前ご紹介した飯田先生の著書などに出会い、より一層思うようになったことです。

それは、「人は生かされているのだ」ということ。

もちろん、人はひとりでは生きていけませんから、そういう意味でも「生かされている」のだと思いますが、私が感じているのはもっと大きな、目に見えない力、言うなれば「神」によって生かされているのだと思っています。

何度も言いますが、私は特定の宗教を信仰している訳ではありませんので、神といってもキリストでも仏陀でもアラーでもなく、もっともっと大きな意味で私達を見守る大きな力のようなものをイメージしているのですが。

震災のとき、色々な話を聞きました。
本当は実家にもう1泊して朝帰る予定だったのに、急遽予定を変更して前日の晩帰宅した友人家族。もしもう1泊していたら、彼女達が寝るはずだったその部屋は2階が落ちてきて完全にぺしゃんこになっていたそうです。
その日だけたまたまいつもと違う部屋に寝ていて助かったという知人もいました。
連休でスキーに行っていたのだけれど、帰りの道が渋滞して、まだ家に着いていなかったため助かったという話もありました。

それとは逆に、伝え聞いた話では、普段は寝ることのない部屋に寝ていて亡くなられた方や、揺れの収まった後の部屋の様子からすればおよそ亡くなるはずはないのに亡くなられた方もおられたようです。

また、震災後、テレビで何度も放送されたので、ご存知の方も多いかもしれませんが(私もそのお店は外からしか見たことがありませんが)激甚地でもあった三宮のとある喫茶店。
映像で目にされた方も多いと思いますが、三宮の中心部は阪急の駅や交通センタービル、市役所など多くの建物が倒壊するなど、激しい被害が出ました。

商店街も壊滅状態で、震災後復旧、復興には長い時間がかかりました。
その中に1軒、殆ど被害のなかった喫茶店がありました。両隣のお店は甚大な被害を受けているにも関わらず、そのお店だけがカップがいくつか割れたりという、考えられないほど小さな被害で済んだそうです。

そのお店の名は「5時45分」。奇しくもその時間は震災の起きた時刻の1分前です。

テレビで名前の由来を言っていました。オープン前、なんていう名前にするかマスターたちが話し合ったもののなかなか決まらず、どんどん時間が過ぎ、もう疲れたなぁと「今何時?」そう尋ねたところ「5時45分。」との答え。そして、それがお店の名前になったのだと。

もちろん、単なる偶然ということは簡単です。たまたまそのお店の下だけ、地盤に何か揺れを弱めるものがあったのかもということだって考えられるかもしれません。
けれど、私はそうは思えないのです。やはり見えない力が働いたとしか思えません。

その後、「奇跡の生還」などと言って、考えられないような状況から助け出された方なども数多く紹介されました。

私自身、何かのタイミングが少しずれていたら、命を落としていた可能性は否定できません。タンスの上に置かれていた1.5Mほどあるブリキの衣装缶が2つ、お布団に向かって真っ直ぐに落ちてきていました。もちろん、タンスも倒れてきていました。揺れの凄さを示す信じられないエピソードといえば、揺れが収まった後気づくと、丸い蛍光灯の2本のうち1本がなくなっていました。数日後部屋を片付けていると、倒れなかったタンスの裏で粉々に割れていました。揺れで蛍光灯が外れ、偶然揺れていたタンスの後ろに飛び、タンスが元に戻ったことで押し潰されたということなのでしょう。

それでも私は無傷でした。

実は私は生まれたときにお医者様に匙を投げられたそうです。幼い頃少しだけその話を母に聞いたのですが、そのときの母があまりにも申し訳なさそうだったので、詳しく聞くこともなく育ったので、真実は今も確かめてはいないものの、たまたま大人になってから知人に話したところ、血液型不適合だったからではと言われました。
母はO型なのですが、兄はA型。その時点で母の体には自分を守る抗体ができるとか。で、抗体を持っているのに次に身ごもった私がまたA型。つまり、それで私がやられかけたのではと。
とにかく、生まれて数日間高熱と黄疸が引かず、母はお医者様に諦めるよう言われたそうです。それが今では。。。(苦笑)

正直な話、そんなことは誰も信じてくれないどころか、自分でも信じられないほど、その後の私は健康優良児、今に至っても大病どころか骨にひびが入ったことすらありません。

そのことも含め、私は神様に生かされているのだと思っています。

人にはそれぞれ今回の人生でやらなければならない課題のようなものがあって、それをやり遂げなければ人生は終わらないのではないかと思うのです。

素晴らしい方が早く亡くなられるのは、その方が今回の人生でやるべき課題を全てクリアされたからなのではないかと。

だから私は「寿命」というのは多分ホントに決まっているのだろうなと思っています。
そして、私はまだまだ未熟者で課題が沢山残っているということなのだろうなと。(苦笑)

人は「生きている」のではなく「生かされている」。

今日もしっかり頑張らなくてはいけませんね。

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2006年1月17日 (火)

1月17日(5)

私はこの震災を経験し、かなり考え方が変わりました。
もともと、あまり物欲がある方ではありませんでしたから、購入欲のようなものは特に変わりませんでしたし、貧乏性なのも変わりませんでしたが、「お金があっても何もできない」ということはすごく新鮮な価値観となりました。

たとえ学歴がなくても、貧しくても、優しい心さえあれば、窮地に立ったとき必ず誰かが手を差し伸べてくれるのではないか。
それは震災後、より強く意識するようになったことです。

夢や目標のために勉強することはいくらでも応援できますが、高学歴を得るため、その後の高所得を得るため、そんな意識での勉強を応援したいと思えないのは、「お金」は助けてくれないことがあるということを実感したせいもある気がします。
(まあ、これに関しては、例えば本当のお金持ちであれば、震災後もすぐにホテルや別荘などに移って、普通に暮らしていたというような反論もあるかもしれませんし、それは人それぞれの価値観ですので、別に否定するつもりもありません。ただ、震災直後、どこかに移り住むという選択をしなかった場合、お金は殆ど無意味だったのは否定できないと思います。)

「人生一度きり。やりたいことをやって生きよう。」

そう思えたのも、この震災を経験したからです。
やりたいことというのは、何でも好き勝手という意味ではなく、ずっと自分がやってみたいと思いながらも行動に移せなかった仕事や夢、そんなものに挑戦するという意味でですが。

そして「人間いざとなったらなんでもできる」というのも私にとって本当に貴重な意識の変化でした。普段の暮らしをしていたら、2週間もお風呂に入れないなんてこと、そんなことさえ考えられません。見ず知らずの人たちと学校の講堂で、ダンボールの上にお布団や毛布を敷いて眠るなんて、想像もできないでしょう。自転車で10キロの道を通勤するなんてことも。

会社を辞めたいと思ってもずっと辞められなかった。それだけの勇気がなかったのです。
けれど、そんなことは大したことではないのでは?辞めて新しいことをやってみよう。そう思えるようになりました。

辞めた後しばらく、進みたい方向が見えずに焦り始めたときにも、震災の経験が私を強くしてくれました。
そして、最も影響が大きかったのは、自分で教室を始める決心をしたときでしょう。それまでの私ならそんな決心は絶対つかなかっただろうと思います。だけど、大袈裟かもしれませんが、こう思えたのです。

「命がなくなるわけじゃなし、やってみてダメだったらそのときに考えよう。本当に生活に困ったら、今はやりたくないって思ってるような仕事でもやれるかもしれない。いざとなったらなんとでもなる。」

そして今があります。
もちろん、それ以外にも色々なことがあって、悩んだ末での独立でしたが、それでもあの経験がなければ決断できなかったように思います。

色んな方に避難所暮らしが楽しそうと言われましたが、確かにあまり辛かった記憶はありません。普段絶対経験できないようなことを沢山経験できて、プラスこそあれ、マイナスではなかったと思っています。

どんな状況でも、心の持ちようで楽しくもなり、苦しくもなるんじゃないか。自分でもいつどう変わったのかわからないのですが、それまでの私はかなりのマイナス思考な面があったのですが、いつの間にか辛かったことはすぐ忘れる人間になっていました。(それ以外のこともかなり忘れているような不安もありますが。。。)

そして「人は優しい。どんな人も、根っこの方にはあたたかいものを持っている。」と。
それも強く実感できた日々だったように思います。

時と共にあのときの記憶は薄れていきますが、一年に一度振り返り、当たり前に過ごせることのありがたさを噛み締めようと思います。

今自分がこうしていられることに心から感謝します。

震災から11年。
あの日亡くなられた多くの方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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2006年1月16日 (月)

悲しい気持ち

テレビでドキュメンタリーをやっていた。
生活保護を受けたいのに受けられない人と行政の対応、受けられずに餓死した人の映像。。。

私はドキュメンタリー番組が好きだ。
どちらかといえば「情熱大陸」や「夢の扉」みたいな、頑張っている人を紹介するような番組の方が好きだけど、深夜にテレビをつけていると、社会の問題に焦点をあてたドキュメンタリーが多い。

そういうのを見ながら、いつも色々考える。悲しい気持ちになりながら。

今日の生活保護についての番組は、生活保護を申請しても役所の窓口で申請書さえもらえず追い返される人たち、保護を受けられた後、執拗に保護の打ち切りを迫られる人たちを中心に作られていたのだけれど、それを見ながら色々なことを考えた。

幸い私はそこまでの貧困を経験したことがない。ありがたいことに生まれたときにお医者に見離された以外、大きな病気もしたことがない。とりあえずこれまでの人生で「食べるのに困る経験」はしたことがないのだ。

まあ、震災の時には多少はそうだったのかもしれないけれど、本当に何ひとつ食べられなかった日はなかったし、バランスが悪かったとは言え、かなり早い段階から配給物資で空腹はしのげるようになった。

だから、私は生活保護を受けなければ生活できない方の本当の辛さはわからない。あくまでも想像することしかできないし、その想像も結局は本当の辛さには程遠いものなのだろうと思う。

行政によって生活保護を打ち切られた30代の男性が、ミイラ化した遺体で自宅で発見されたと、その映像までもが流された。そのときの番組のナレーションはこんなものだった。

成功を夢見て都会に出てきた真面目な男性が転職を繰り返し、最終的に失業して、一度は栄養失調で保護され入院、一時的に生活保護を受けられるようになったものの、退院と同時に打ち切られたと。後遺症が残り、仕事につける状態ではなかったし、実家は生活苦で頼ることができなかったのだ。

また、狭心症で仕事ができないため生活保護を受けている女性はこんな紹介がされた。

役所の担当者に、仕事に就けないのは太っているからだと言われ、1週間ぐらい食べなくても死なない、痩せろ、そんな暴言を吐かれたのだと。それが彼女のトラウマになっていると。
そして、女性が言った。
「親の世話になれと言われるんですけど、親も歳ですし、とても私の面倒まで。。。」

60代半ばの男性も紹介された。腕のいい畳職人だったそうだが、怪我がもとで解雇。怪我が治った後は臨時雇いでごく稀にしか仕事がもらえず、年齢も年齢なので他に仕事も見つからないと。けれど、何度生活保護の申請に行っても、「仕事はあるはず」とか「子どもさんと一緒に暮らせないの?」とか言われるだけで、申請をさせてもらえないと。
この男性は離婚後10年子どもと連絡も取っておらず、今更頼ることもできないということだそうだ。

番組を見ながらずっと考えていた。
行政の対応は確かにひどいかもしれない。少なくとも、狭心症の女性に対して「太っているから仕事がないんだ」とか「1週間ぐらい食べなくても死なない」とか、そんな言葉を本当に投げたのだとしたら、それは行政どうこう以前に人間として最低だと思う。

ただ、実際、かなりの不正受給があるのも事実のようで、そうなると、窓口の担当者が本当に困っている人なのか、不正に申請しようとしている人なのかを限られた時間で見極めなくてはいけないということなのかもしれない。

そうなると、まあ、公務員を目指した方たちな訳だから、真面目で失敗は許されないと思っているような方も多いだろうし、だったら申請自体を断ってしまえという発想が出てくることもあるのかもしれない。

そして、また思うのだ。
番組で紹介された行政側の言葉は、本当に全て批判されるべきものなのだろうかと。

狭心症の女性に親の世話にはなれないの?と言った担当者。それに対して親も歳だから自分の面倒は見られないと言った女性。
けれど、家族なのだ。仮に親の元に戻って、家族3人で暮らしてみて、本当に困窮すれば3人に対して保護がおりることはないんだろうか?それに、親は自分達の大切な子どもが辛い思いをしていれば、なんとしても助けたいと思うものではないんだろうか。
そんなことも思った。

また、離婚したから子どもの世話にはなれないと言う男性も、頼んでみてダメだったのではなさそうだ。子どもに頭を下げることもせず、行政は助けてくれないと言っているのだとしたら、それもなんとなく順序が違うのではと思わなくもない。
どんな経緯で離婚をしたのか、どんな風に子どもと連絡が途絶えたのかはわからない。けれど、子にとって親は離婚しようが何をしようが親にかわりはないということはないのか。
もしも私がその男性の子どもで、テレビで自分の父親のそんな姿を見たら、ショックを受ける気がする。そんなことはないんだろうか。。。

そして、一番違和感を感じたのは、餓死してしまった30代の男性。
ナレーションでは実家も生活苦で頼れなかったと言ったが、その後、顔は映らなかったものの、男性の母親が出てきた。「(行政担当者が)自分の子がそんな風に死んだらどういう気持ちになるのか」「保護さえ受けられていればあんな死に方はしなかったのに」そんなことを言っていた。

あなたの息子だ。まだ未来があったはずのあなたの息子。それがあなたたちに助けを求めることもせず、2ヶ月も発見されず命を終えたのだ。おかしくないか?

もちろん詳しい事情はわからない。けれど私はその母親にとても腹が立った。
子どもの性格はある程度わかっているはずだ。自分の子が都会に出て、困っていないか、元気にしているか、それを確かめていさえすれば、彼はそんな死に方はしなかったのではないのだろうか。。。お金があるとかないとか、そんなレベルの話ではないのだ。もう死ぬかもしれないときにさえ、親に連絡をせず死んでいった彼を母親はどう思っているのだろう。

色々なものへの違和感、やりきれない思いを抱きながら、悲しい気持ちで番組を見ていた。

都会での孤独死、餓死は珍しいことではなくなっているらしい。
実際、私が住んでいるところでも、お隣の人がどんな人なのかさえよく知らないし、普段の生活で顔を合わせることすら殆どないような状態だ。都会ではそんなことは当たり前のことになっている。

もちろん、それ自体淋しいことだと思う。向こう三軒両隣ではないが、近隣の方と仲良くできるにこしたことはない。

けれど、お隣の方は知らなくても、肉親や友人に助けてもらうことはできるのではないか。
ご老人などで特別な事情がある場合もあるだろう。けれど、孤独死、餓死した人たちは命に関わるほど困ったときにさえ、誰かに助けてといえないということなのか。それとも、誰とも接することなく常に孤独で生きていた人たちなんだろうか。本当に誰も助けてくれなかったんだろうか。。。

震災のとき、どんな人もみんな根っこは優しいんだ、そう感じた。
本当に困っていれば、助けの手を差し伸べてくれる人は必ずいるはず。
私はそう思っている。そう信じている。

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2006年1月15日 (日)

1月17日(4)

会社に行くようになってからも、ひと月以上小学校で寝起きしていました。朝起きると一旦家に帰って着替え出勤。家に帰宅して、また着替えて小学校へ。そんな生活でした。未だにガスも水道も復旧していませんでしたし、お店でものが買える状況ではありませんでしたから、小学校で配られる食事中心の生活で、どうしたってパン、ご飯、お菓子に偏ってしまいました。そして、ここでもまた逞しさを身につけました。

それまでは几帳面な母に育てられたため、賞味期限や消費期限にはとても神経質でした。また、調理前にはお野菜などをきちんと洗わなければ気になりました。
けれど、配給されるパンは消費期限を過ぎたものもありましたし、水が十分にない状態では、お野菜も何もかも満足に洗うこともできないまま調理された食事を食べていました。けれど、どうってことないのです。人間って結構丈夫なんだな。そんなこともあの時実感しました。

避難所では、時間が経つにつれ珍しい配給がされたりもするようになりました。あるとき、ハングル語で印刷されたロッテのチョコレートが配られました。珍しくて、会社に持っていって同僚に見せたりもしました。

そんな私を見て、社内社外の何人もの人が「お前見てると避難所暮らししてみたいなぁ」と、私以外の人に言ったら激怒されるかもしれないようなことを言われていました。

取引先の電話を取っても、「〇〇さんは大丈夫でしたよね?」とはなから決め付ける方も少なくありませんでした。
どうやら私は全く悲壮感のない被災者だったようですね。確かにそうだったのですけど。

今でもよく覚えているのは、仕事で上司達とどうしても京都に行かなくてはいけなくなり、商談後、取引先の担当者とその上司である役員の方が慰労のつもりで食事に連れて行って下さいました。
上司の方は震災のことをあれこれ尋ね、挙句に担当の方に向かっておっしゃいました。

「お前も避難所暮らしさせてもらったらどうや、楽しそうやないか。」

その上司の方とは初対面でした。私のことを全く知らない方にそう言われ、正直なところ、その方の人間の幅が見えた気がしました。反面、その上司の発言を本当に申し訳なさそうに、小声で何度も謝ってくださった担当者の方の心遣いには感謝せずにはいられませんでした。

この頃、同じ関西でありながら、本当にすごい温度差がありました。
震災後、2週間お風呂に入れませんでした。2週間経ったときに1泊だけ大阪の友人のところへ行かせてもらうことになりました。
電車に乗って梅田に降り立ったとき、愕然としました。もうそこには震災の傷跡は何も感じられず、キレイに着飾った人たちがこれまでと何も変わりなく歩いていました。普通に電車に乗れば30分足らずの距離です。避難所にいる間は何も感じなかったのに、自分がものすごく場違いで惨めな気がしました。

それでも私は会社が神戸だったため、普段の生活ではある程度大変さはわかってもらうことができました。けれど、取引先の方の中には神戸に住んでいて大阪にお勤めの方などもおられ、不通区間がある電車、代替バスはどれだけ渋滞するか読めない状況の中、朝始発に乗って、どうにか始業時間までに会社についておられたりもしていたようですが、大阪の方にはその苦労がわかってもらえず、遅刻すれば怒られる、震災のことは一切考慮してもらえない、そんなお話も聞きました。結局、心無い言葉に傷つき、仕事を辞められた方もおられました。

人は、自分に降りかかったこと、自分も経験したことしか、結局は理解できないのでしょう。実際、私だって、それまで日本や世界のどこかで大災害が起きても、気の毒だなと思うだけで単なる他人事としか受け止めていませんでした。だから、被災していない方が被災者の気持ちに共感できないのは無理もないことだと思っています。
そういう意味でも、震災の経験は本当に貴重な経験をさせてもらったと思っています。
(あと少しつづきます)

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2006年1月14日 (土)

為末大さん

昨日の深夜(正確には今日のですね)テレビをつけていたら、ある番組のゲストが為末大さんでした。

その番組は何曜日の何時からあるのかもよく覚えておらず、遅い時間にテレビをつけていると時々見かけるという感じで、TOKIOの国分くんとイノッチが司会をし、30代前後の著名人をおひとり毎回ゲストに招いてトークするというものです。

そこに、初めて彼らより若いゲストとして為末さんが登場しました。

為末さんは皆さんご存知だと思いますが、陸上のハードル競技で日本人初のメダルを獲得した方です。現在27歳。

以前何かの番組で、彼がひとりでトレーニングを積んで、食事なども自分で作って管理している様子を見たことがあり、すごい人だなぁと思っていました。

ですので、普段はただついているだけということも多いのですが、ちょっと見入ってしまいました。
そして、見終わった感想は「凄すぎる」のひと言でした。

彼の話は最初から最後まで凄かったのですが、まずひとつ目は、世界レベルの選手が皆そうなのかどうかはわかりませんが、彼が言うにはオリンピックに出る選手は「何月何日の何時」というピンポイントにピークを持ってこなければならないので、そのためのスケジュール管理は「前日の何時に寝て。。。」に始まる計算が緻密になされ、そのスタートの日がオリンピックの翌日だというのです。

それを聞いて、国分くんが私の代わりに言ってくれました。

「オリンピックの翌日はお休みじゃないんですね?もうそこから始まるんですね?!」

為末さんは当たり前のように返事をされました。本当に驚きです。世界の頂点を目指すというのはそういうことなのだなと、世界の凄さを感じました。

彼の凄さはまだまだありました。
彼はもともと短距離で中学生の頃から既に素晴らしい選手だったそうです。世界大会で400Mの4位になったこともあるそうなのですが、彼はそのとき、世界1位との差があまりにも大きくて、これから30歳ぐらいまでの間に努力したらその差を詰めることはできるのだろうかと考えたそうです。

そのとき、同じ大会でハードル競技を目にし、「これなら世界一が狙えるかも」と感じて、高3でハードルに転向したというのです。

もともと400Mで世界大会の決勝まで進んだ高校生が考えることが、この競技では世界一にはなれないから別の競技にということだったということに心から驚きました。

更に、そのためのトレーニングについて話していたとき、「もっと速くなるためには、例えば体重はそのままで、腕のこのへんの筋肉の2%を足のこの辺に移すとか、そういうことも。。。」という表現が出ました。

腕の筋肉を落として足につけるとか、そういうことは理解できます。ただ、その緻密さが、腕でも特定の、ごく限られた一部の筋肉を落とし、代わりに足のやはり限られた一部にと、1%単位で計算してトレーニングするなんていうことは想像したこともありませんでした。

ここでもやはり「世界レベル」の凄さを感じました。

この前のオリンピックで2つ目の銅を獲得したときのレースの話も素晴らしいものでした。
その年はオリンピックまでに色々な世界大会などを転戦していたそうですが、結果は全く芳しくなかったそうです。正直言ってこのオリンピックでメダルが取れるなんてことはそれまで全く考えていなかったと。

実際の競技でも予選の結果はよくなく、コース的にメダルが取れる可能性は極めて低かったのだそうです。
しかし、その日、天候が荒れ、雨でコースコンディションも悪く、その状況を見たときに彼は思ったそうです。「もしかしたら。」と。

その理由がまた素晴らしかった。
その決勝には、珍しく若い選手ばかりが残っており、彼は8人中最年長だったのだそうです。
若い選手は経験が浅いため、天候を考慮し、さまざまな計算をした上でのレース運びは難しいはずと、自分が若い頃にそういう天候のとき一番されたくなかった戦法で決勝に臨んだそうです。その結果が銅メダル。

彼は陸上競技を引退したら、経営者になりたいそうです。(何の経営者になるかはまだ考えているところだそうですが。)
けれど、間違いなく彼はものすごく頭のいい人だと思います。何をやっても成功するだろうなと、見ていてそんなことを思っていました。

「侍ハードラー」と呼ばれる彼。
その呼び名が妙にぴったり来る、本当にかっこいい人だなと、改めて感じさせてくれた番組でした。

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2006年1月13日 (金)

1月17日(3)

その後、1週間程度で一般家庭にも電気は戻りました。会社に行く訳でもなく、どこかに遊びにいける訳でもなく、とにかく家族で家の片づけをしました。

ある程度片づけが済んだ頃、多少復旧していた電話回線で会社から連絡がありました。
神戸の西の方は殆ど被害もなく、会社の人たちは当日から電気もガスも水道も全て普通通りだったという人も少なくなく、2日目以降徐々に出社する人が増えていたようです。

直属の上司に「落ち着いてから出てきたらいいから」と言って頂き、結局1週間会社を休みました。その電話をくださったとき、上司が言いました。

「〇〇さん(取引先の担当者)が家の住所教えてって言ったから、教えたぞ。多分もう少ししたら行くと思うわ。」

その方は、大阪の取引先の担当者で、心配してバイクで会社まで様子を見に来てくださったそうです。そして、私がまだ出社できていないことを知り、来てくれるとのこと。正直言って本当に驚きました。

私にはその頃付き合っていた人がいました。
震災直後、群馬の社長にかけた後、何度もその人に連絡を取ろうとしましたが繋がらず、翌日になってようやく連絡がつき、お互いの無事を確認しました。
聞けば、その人のところはほぼ何も被害がなかったそうで、その頃大変だったらしい仕事に追われ、無事ならよかったとそれだけで結局会いにきてくれることすらありませんでした。

それなのに、ただの取引先の担当者の方がこの悪路、帰る方向であるとはいえ、来てくれるということが信じられませんでした。
ただ、もともと婦人服のメーカーに勤めていたので、普段はお化粧バッチリ、それなりに服もキメてという姿でしかお会いしたことがありません。震災以降お風呂にも入れず、当然化粧も殆どせず、おしゃれなどとは無縁の姿。どうしよう。。。少し戸惑いました。

けれど、どうすることもできず、程なくその方が来て下さいました。
私の顔を見ると、ペットボトルのお茶を数本袋ごと差し出して、ひと言

「ぼちぼちいきましょ。」

それだけを言って、それじゃと帰っていかれました。
そのさり気なさ、優しさ、あたたかさに涙が出ました。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、一生忘れ得ない、心から感謝している出来事です。

震災で本当に色々な人の本質が見えました。
思ってもみない優しさをもらったり、反対に優しいと思っていた人がそうではなかったり。
普段は頼りなさそうな人がみんなのためにバリバリ働いていたり、えらそうにしていた人が何にもできずにいたり。。。

1週間ほどでどうにか自分達のできる範囲で家も片付き、会社に行くことにしました。連休を挟んでいたので10日ほど休んだことになるのでしょうか。
会社は液状化で何度も紹介されたポートアイランドにありました。ポートライナーは完全に不通になっていましたから、通勤手段は誰かの車に同乗させてもらうか、代替バスなどの公共交通機関を使う、それでなければ原付や自転車、徒歩しかありませんでした。

自宅から会社までは10キロほどあり、交通機関は麻痺していましたから、原付で通うことを考えました。しかし、道も至るところで亀裂や段差が入り、通行止めになっているところもありましたので、それまで乗ったことのない私がその時期に乗るのはあまりにも危険だと、「そこまでして行くのなら会社なんて辞めてしまえ」という親の大反対にあい、諦めました。

かといって、その頃の代替交通機関は道の大渋滞で普段なら10分の距離が2時間とかいうことも珍しくありませんでした。
読めない通勤時間のために闇雲に早起きできる人間でもなく、結局私はひと月半ほどの間、その距離をいわゆる「ママチャリ」で通勤しました。

片道10キロの道を自転車を漕ぎながら思いました。人間、いざとなったら何でもできるもんだなと。これが私が震災から得たものの大きなひとつです。
(つづきます)

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2006年1月12日 (木)

1月17日(2)

電話を終え、一旦自宅に戻り、少しでもと家の片づけを始めました。電気もガスも水道も全て止まっていました。日がある間、できる範囲のことをして、家族で再び小学校へ戻りました。

避難所である小学校は既に人が溢れており、また、あまりの恐怖に冬にも関わらず建物の中に入ることができず、グラウンドにいる人たちも大勢いました。そして、逃げ遅れる恐怖から、2階以上の教室へ上がる人は少なく、1階は油引きされた廊下にも人が溢れていました。

遅くに行った私達家族はどこか場所がないかと探しましたが、結局その日は廊下の隅で身を寄せ合って過ごしました。父、兄、私の母校であるここでこんな風に過ごすことになるとは夢にも思いませんでした。

目の前の体育館も人がいっぱいでした。けれど、奥の方が静かで、もしかして場所があるのではと覗きに入った私の目に飛び込んできたものは、数十体の白い布をかけられて静かに横たえられた方がたでした。

体育館の半分には生き長らえた人たち、そして残り半分には命を終えられた方たち。
衝撃的な光景でした。とにかく、これまでの日常、常識を全て覆すほどの出来事であったには違いありません。

翌日、海岸のガスタンクが爆発するかもしれないという知らせが流れ、国道2号線以北に非難するよう指示が出ました。小学校も実家も全て2号線以南。既にかなりのダメージを受けている状態の実家はこれ以上の衝撃に耐えられるとは思えませんでした。

けれど、まずは命。とるものもとりあえず北に向かって移動をしました。
しかし、避難指示が解かれるまで一時的に身を置いた高校には、一瞬で家を失った方、お身内を亡くされた方が沢山おられ、曲がりなりにも家族が皆無事で、家から毛布を運び出せた私達は幸せな方でした。

悪いことをしている訳ではないものの、とにかく居心地が悪く、翌日、寒いから更に毛布などを運ぼうという母にこれ以上嫌だと言ってやめさせました。

震災のある時期、「震災ユートピア」という言葉ができました。
それを象徴するような出来事が私にもありました。

その高校で、ある親子に出会いました。
その親子とはこれまで長い間、朝の通勤で同じ電車の同じ車両に乗るというだけの存在で、お互い相手を認識しているものの、挨拶を交わしたことすらありませんでした。

けれど、名前も知らないその親子と高校でばったり出会ったとき、お互いが同時に
「ご無事だったんですね。よかったです。」
そう言って喜び合いました。
これまで毎日のように顔を見ていても、会釈すら交わすことのなかった人たちと、お互いの無事を心から喜び合いました。

震災のあとしばらくはそんなことが沢山ありました。
強いものが弱いものを助け、見ず知らずの人のために被災者同士が手を差し伸べあう。
本当にあたたかくて幸せな空間ができあがりました。正に「ユートピア」でした。

その後、避難指示が解かれ、自宅に戻り、母校の講堂での避難所生活が始まりました。
自宅は片付ければ寝起きできなくはありませんでしたが、余震が来ると言われており、既に歪んでしまったこの家では余震には耐えられないだろうと、日のある間は片づけをし、夜には避難所へ移動する生活が続きました。

何日目だったでしょうか。何か買えるかもしれないと、近所のスーパーに行ってみましたが、食べ物も飲み物も既になく、かろうじてラジオや懐中電灯用の電池を買うことができました。
今の時代にありながら、お金があってもものが買えない、何もできない。それを経験できたのも、本当に貴重なことだったと思っています。

完全に遮断されたライフラインのうち、電気は避難所にだけ非常用発電で数日のうちにつけられました。
数日間、お日様の光と懐中電灯やろうそくの明かりだけで過ごした目に、電気の明るさは希望の光にさえ感じられました。大袈裟なようですが、電気がついたことでみんな、未来をほんの少し考えられるようになったのです。
(つづきます)

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2006年1月11日 (水)

「おしまいじゃありません。」

先日も書きましたが、今回ミニコミ誌に出した広告は、反応を殆ど期待せずにお付き合いで出したようなものでした。
ですが、思いがけず昨日も2件の問合せを頂きました。そして、そのうちのおひとりが早速今日体験に来てくださいました。

お電話のお話では今まだ年少さんとのことで、私がこれまでお受けした最年少は年中さんを夏頃からなので、体験だとしても最年少記録です。

年少さんとのレッスンはどんなものなんだろうなと思いながら、来てくれるのを待っていました。

時間になり、インターホンが鳴りました。
ドアを開けると、とっても可愛くておりこうそうな男の子がいました。もう見ただけで幸せな気分になるような可愛さです。

お母さんと一緒に入ってもらって体験開始です。
恐らくおうちでお母さんのご指導がよいのでしょう。言葉遣いもきちんとしていて、しゃべり方は幼いものの、聞いていて気持ちのよい受け答えをします。
そして、クレパスも鉛筆もとてもしっかり使えます。

感動しっぱなしで、あっという間に体験レッスンの時間が終盤になってきました。見ると、予定していたプリントもあと少しでおしまいというところ。50分近く頑張った彼も少しお疲れのようです。

「じゃあ、今日は(次があってもなくても、子どもが楽しそうにしてくれている限り、そういうようにしています)このプリントでおしまいにしようかな。よく頑張りました。」

そう言った私に、彼が何か言いました。

「おしまいじゃありません。」

ん?そろそろ時間だし、ちょうどキリもいいんだけど、なんで??そう思いながら、まず1枚プリントを終え、本当に予定の最後のプリントを出しました。

「じゃあ、これでおしまいです。いっぱいできましたね。」

そう言うと、

「まだおしまいにしません。」

と彼。
う~ん、困ったなぁ。(笑)

それから少しお母さんとお話をしなくてはいけなかったので、その間教具を出してあげると、また嬉しそうに遊んでいます。
お母さんとのお話が終わりそうになると、また

「お話終わりません。」

もう可愛くって、可笑しくて、顔がニコニコしてしまいました。
お話が終わったら帰らなくてはいけないとわかっているのです。

お話が終わり、お母さんが「次のお友だちの時間になるから」とどうにか促してくれたのですが、今度はさっき出してあげたカエルの教具が気に入ったらしく

「ひとつ持って帰ります。」

と。(笑)
「次」があるかどうかは私にはわからないものの、やむを得ず

「カエルさん1匹だけ連れて帰ったら、他のみんなが淋しがるから、今日は我慢してくれるかな。また今度ね。」

そう言って、どうにか諦めてもらいました。

やっと帰る仕度をして、玄関で靴を履き終わった彼が言いました。

「お家に帰りません。」

それを聞いて、お母さんが「お買い物して帰ろうね」と言ったのですが、ひと言「いや」と即答です。

それじゃあと、「幼稚園に行く?」と延長保育なのでしょうか、何かそれらしき名前を出して尋ねたのですが、うんとは言いません。

「もっとお勉強したいの?」

お母さんがそう尋ねると、やっと頷きました。
もちろん、残念ながら今日はもう無理なんですけど。。。

子どもって本当に可愛いですね。
そんなにも子どもを惹き付ける教材や教具。遊んでいるみたいだけどしっかり賢くなるための工夫が詰まっている。
小さい子とレッスンをすると、改めてこの指導法の素晴らしさに気づかせてもらえます。

そして、何より、やっぱり子どもは超~~~カワイイです♪
結局今日も「お家でゆっくりお考え下さい」とお見送りしてしまいましたので、可愛い彼にまた会えるかどうかはまだわからないのですけど。

たけ○○くん、今日は幸せな気持ちにさせてくれて本当にありがとう。とっても楽しかったです。

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2006年1月10日 (火)

1月17日(1)

この日付を見て、すぐに気づく方はどれだけおられるでしょう。
実は、私も完全に忘れていました、今日のある会話をするまで。

来週の17日に用事が入ったのでレッスンを変更してほしいと、中学生のお母さんから連絡がありました。子どもに何の用事か尋ねると、「震災の行事で。。。」との答え。
そこでようやく、あと1週間であの日から11年になるのだと気づきました。

時の流れと共に、自分の中でどんどん風化していく記憶。それはやはり、あのとき受けた被害が軽かったからに違いありません。今でも悲しみを抱いたままの方や、元の生活に戻れないままの方もおられるでしょうし、その方達にとっては今でも「現実」のままなのでしょう。そんな方がおられるのに、こういうことをいうのは不謹慎かもしれません。けれど、私にとって震災は、今の私を形作る上で不可欠な体験であったことは間違いないのです。

11年前のあの日、すごい揺れで目を覚ましました。まだ薄暗い時間で、尋常ではない揺れにお布団をかぶったままじっとしていました。
古い木造の家はぎしぎしと音を立て、(崩れるかも。。。。)そう思いました。

揺れはいっこうに収まる様子を見せず、ドスン、バタンとものすごい音を立てながらものが落ちているのがわかりました。

揺れが収まり、家族は無事なのか確かめなくてはと布団から出ようとしたものの、なぜか布団がびくともしません。状況もわからず、とにかく

「お父さん、お母さん大丈夫?」

と大声で叫びました。

程なく、布団越しに父の声が聞こえ、

「ちょっと待っとけ!今助けたる!」

そう言ったかと思うと、ものすごい勢いでものを投げているような音が聞こえました。

「大丈夫だから。慌てなくていいから。」

そう叫んでも父の様子は変わりません。後で聞けば、お布団で遮られ、何を言っているのか聞き取れず、私がうめいているように思えたようです。

ようやく布団から出られ、自分の部屋の様子を見て言葉を失いました。あらゆるものが棚という棚から全て落ち、タンスは壊れ、窓ガラスは割れ、どう見ても、自分が無傷で何一つ痛い思いすらしなかったのは奇跡以外の何物でもない、そう思える状態でした。

そして、あんな頼もしい父を見たのも生まれて初めてのことでした。それは今のところ後にも先にも。
照れくさくって本人には言っていませんが、父がどれだけ大切に思ってくれているかを実感できた大切な出来事になりました。

家の中は足の踏み場もない状態で、キッチンの天井ははがれ、食器は散乱し、本当に何が起こったのか把握できぬままでしたが、幸い家族は皆無事でした。

パジャマ姿のまま表に出ると、見慣れた風景が一変していました。
今となっては笑い話かもしれませんが、真剣に(爆弾でも落ちたのかな。。。)そう思いました。

数軒先では完全に家が倒れ、道には亀裂が走り、倒れないまでも殆どの家が傾いていて、無事だった人たちがぞろぞろと表に出てきていました。

歩いて3分ほどのところにある小学校が避難所になっており、みんなそこに向かって歩きました。みんな、一体何が起きたかわからないまま、公衆電話には長蛇の列ができました。家の電話は繋がらず、公衆電話だけがどうにかよそとの連絡が可能でした。

列に並びながら、私は(どうしよう、会社に行けない。連絡しなきゃ。)それしか考えていませんでした。ようやく回ってきた順番。会社に電話をしたものの、呼び出し音が鳴るだけでいっこうに誰も出てくれません。仕方がないので、覚えていた群馬の取引先の社長に電話をかけるとうまく繋がりました。社長に今の状況を伝え、会社に行けないという伝言をお願いしました。

震災を経験したことのない方はきっと笑われるでしょう。私も後になって自分で笑いました。でも、そのぐらい、全く予想もつかない出来事だったのです。
(続きます。)

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2006年1月 9日 (月)

自分を辿る(2)

教室をしている今も、塾に勤めていた頃にも、しばしば言われる言葉があります。
既に述べたように、私はずっと公立育ち、おまけに運動部育ち。塾にも予備校にも通ったことはないけど、運良く志望の大学に進学することができました。
一応、地元では名の知れた大学ですから、保護者の方の中には私のことを「頭がいい」と思われる方がおられるようです。そして、おっしゃるんです。

「うちの子は先生とは頭の出来が違いますから。」

因みに、私が進学したのは自分にとってはそれ以外の志望はなく、最も行きたかった学部ではありますが、大学の全学部中ではその頃は確か最も偏差値の低い学部だったのではないかと思いますし(現在は他大学と合併したりしてかなり変わっているようですが)、志望学科も学部内で最も定員が多い学科でした。おまけに、実はその1校しか受けなかったため、試験後、高校の先生には1年浪人して頑張れと言われていた身ですので、残念ながら、決して保護者の方が思っておられるほど頭がいい訳ではありません。

でも、保護者の方は(もちろんお世辞もあると思いますが)大抵の場合、

「いえいえ、先生またご謙遜されて。。。」

となる訳です。

ただ、もし仮に、私が平均よりは頭がいい子どもだったのだとしたら、私の幼少期は一体どんな過ごし方をしていたんだろう。。。
そんな思いが湧いてきて、最近は思い返せる限り自分の子どもの頃のことを思い出しています。

何の参考にもならないかもしれませんが、ご興味があればお付き合いくださると嬉しいです。

過去を振り返る上でひとつ、先に私の家族のことを少し書かねばなりませんね。

私は両親と兄の4人家族です。(現在は別に暮らしていますが。)私以外は大学には通ったことがありません。当然、私も大学に行くようにと言われたこともありません。

また、兄は中学時代、自分から行きたいと言ったので塾に通っていましたが、私は言わなかったので通いませんでした。
両親とも、進学情報などには極めて疎く、中学3年の進路指導のときにも私共々担任の言うがまま、はいはいと答えていたように思います。多分それは兄のときもそうだったのではないかと思います。
ただ、ある程度できるから安心して疎かったというのとも違うと思います。少なくとも学校の成績だけで言えば、兄は「できる」とは言えなかったですから。

そんな親ですから、勉強しなさいと言われたことは殆ど記憶にありません。(まあ、さすがに中学の定期テストの前に寝てばっかりの姿を見て、たまには怒られていた気はしますが。)

そのことを頭に置いて、この先を読んで頂けると幸いです。要するに、両親とも全く「教育ママ」でも「教育パパ」でもありませんでしたから。

まず、自分が覚えている一番幼い頃の記憶のひとつは、4歳の頃、母のペン習字の習い事についていって、大人の中で退屈している私にお習字の先生が書いてくださったひらがなのお手本のこと。

よくわからぬままにお手本を真似て先生に見せると、上手に書けた字には先生がいっぱいぐるぐるに〇をつけてくれました。それが嬉しくって一所懸命になって書いたのを覚えています。かなり断片的な記憶なのですが、そのお蔭でひらがなは図らずも比較的早くに読み書きできるようになったような気はします。

ただ、上述のように、母は意識的に私をそこに連れて行った訳ではありませんし、記憶にある限り他に子どもはいなかったようにも思いますので、偶然そうなったということです。
それはある意味でとても幸運だったと思います。

ひらがながわかるようになったので、本を読むのは好きだったような気がします。1年生のときだったと思うのですが、大石真さんの「さとるのじてんしゃ」という本をどなたかから頂いて、没頭して読んだことをなぜかよく覚えています。
((3)につづきます。)

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2006年1月 8日 (日)

ある電話

昨日、1本の電話を頂きました。

実は、6日に新聞折込になったあるミニコミ誌に小さな広告を出しました。
ただ、もともと私としては3、4月にしか考えておらず、今回はそのミニコミ誌の担当の方が独立されたということやら、私の教室の立ち上げのときに広告でかなり勉強してくださったりということなどもあって、「んじゃ、頑張って出しましょう」(といっても先方もすごく頑張ってくださったんですけど。。。費用的に。)という経緯で出したものでした。

なので、正直なところ、生徒募集というよりは、存在のアピールと幼児期の機械的反復学習の危険を訴えるという、およそ広告とは言えないような内容になりました。

けれど、思いがけずそれを見てお電話をくださいました。
そして、その方は、お話を伺ってみると去年か一昨年、一度体験にいらしてくださった方だそうなのです。今2年生になるというお兄ちゃん。

「あのとき、習い事をいっぱいしていまして、時間が取れなくて。。。」

お母さんのその言葉になんとなく、ああ、あの彼かなぁという姿が思い浮かびました。私は見学や体験に来てくださった方には伊藤先生のご本を差し上げるようにしていて、忙しくてお時間の取れない方は直接教材を買われてご家庭でされてはどうですか?とも申し上げています。

結局、その彼はその後、教材を購入され、お母さまがお家で指導をされているそうです。
ではなんでお電話を?と思いますよね。

それは、下のお子さんの件だったのです。今、年少さんだそうなのですが、いつから申し込みできますか?と問い合わせてくださったのです。
お母さまはお兄ちゃんの方を見ていて、下の子さんに十分な時間が取れないとのことで、

「教材がいいことも、先生のこともわかってますので。」

と、下のお子さんを通わせて下さることに全く不安や迷いを感じておられないご様子でした。
とても嬉しいことです。

これまで、体験に来てくださった方をこちらから勧誘したことはありません。
多分、もっと熱心に勧誘すれば、その場で決めてくださる方もおられるんだろうなとは思いますし、そんなことだからダメなんだと、バリバリ経営されている方には笑われるだろうとも思っています。

ただ、私自身、例えば服を買いに行ったときにでも、いくら勧められても気に入らなければ買いませんし、キャッチセールスや訪問販売など、どんな勧誘でも必要と思えないものは絶対断る自信があります。(過去、うっかり玄関に入られてしまった高額布団売りや浄水器売りの方でさえ、1時間近く、こちらはひとりの状態で勧誘されても、相手を説得して諦めて帰って頂いたなど、数々のセールスマン泣かせの記録(?)を持っています。)

つまり、本当にほしければ何も言われなくても買うし、いらなければなんと言われても買わないのが私。

だとすると、お母さんやお子さんが迷っている段階でプッシュして入ってもらうというのは、なんとなくいい結果を運んでくれそうにない気がするのです。だから、体験のときには、こちらがお尋ねするまでもなく、お母さんやお子さんが「通わせたい」「通いたい」と言って下さったとき以外は、私からは「お家でゆっくり考えてみて下さい」としか言いません。もちろん、そのまま帰らせると、もうご連絡を頂けないという確率が上がることもわかっていてのことです。(やっぱりちょっとバカかもしれませんね。(苦笑))

結局その嬉しいお電話にさえ、「3月頃に言って頂けたら」とお返事をしてしまったのですが、とっても嬉しかったです、こうしてまたご連絡をくださったこと。

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2006年1月 7日 (土)

春の七草

今日は七草粥を食べる日。
昨日仕事の帰りにスーパーに寄ったら、七草セットが売り切れていて、ちょっと焦りました。

今日は早目にスーパーに行って確保しなくてはと思いながら、冬休み最終で子ども達がレッスンの曜日変更などが重なり、レッスンはお休みになったため、ついついお家で帳簿の整理をしたり(まあ、これは仕事なんですけど)、ブログ打ったり、お洗濯したりしていたら気づけばもう3時半になっています。
ちょっとピンチかもしれません。こうなったら「ニセ七草粥」になる可能性大です。(苦笑)

実家にいた頃、七草粥の日に母はしばしば「無理矢理な七草粥」を作ってくれたものです。
時にはにんじんとかも入ってたり。。。(笑)
それでも、そんな母のお蔭もあり、実家を離れた今も年中行事のひとつとして、やっぱり外せないもののひとつになっています。

その昔、まだ小学生の頃、母が近くの河原かどこかで「ぺんぺん草」を取ってきました。
それも春の七草のひとつなのだという母を、内心、(そんなん絶対ウソや。あんなもん食べさせる気なんやろか。。。)と思っていたのを思い出します。

子どもの頃には近所の空き地や河原などにぺんぺん草は簡単に見つけられ、葉っぱを折って、茎のところを持ってくるくる回すと、シャラシャラ音がするのを楽しんでいたものです。
そんな、その辺に生えている草を食べるだなんて、子供心に理解できなかったのです。だって、煮込んでもイマイチ柔らかくなりそうにないですし。。。(苦笑)

今の子達の多くはスーパーで売られている「七草セット」を見たことはあっても、道端でぺんぺん草を見たことはなくなっているのでしょうね、きっと。

因みにネットでいくつも紹介されていましたが、見やすくて、説明もきちんとしていそうだったので、ひとつサイトをご紹介しておきますね。
これが春の七草だそうです。
http://kiransou.hp.infoseek.co.jp/harunonanakusa.htm

さて、ちょっとスーパーに行ってきてみます。
手に入りますように。。。

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2006年1月 6日 (金)

今日少し切なかったこと

今日のレッスンでちょっと切ないことがありました。

低学年の女の子で、わざと乱暴な言葉を使ったり、やんちゃしたりして、自分を見てもらいたいと思っているのではと感じる子がいます。
それと別に彼女は、まるで正反対のことのようですが、ふざけることで大人を笑わせて、怒られないように自己防衛しているようにも感じることがあります。

とても可愛い、いい子なのですが、性格的にどうも落ち着かないのはどんな要因があるのだろうということがずっと気になっています。
少なからず家庭での親御さんの接し方による影響があるはずとは思うものの、そこまで踏み込むこともできず、日頃からもどかしく思っているのです。

そんな彼女に今日可哀想なことをしてしまいました。

彼女のお母さんはとても礼儀正しく、子育てにもとても熱心で本当に色々とお勉強されておられ、素晴らしい方なのです。それは本当に。

けれど、恐らく私への気遣いもあってだと思うのですが、レッスンの終わりにお迎えに来られると、普段でもとにかく「早くしなさい」、「きちんとしなさい」と何度も口にされるのです。

私はいつも「いいですよ」、「大丈夫ですよ」とお声をかけるものの、やはり遠慮されているのでしょう。必ずのように彼女はお母さんに急かされます。

まだ2年生の小さな女の子ですから、何でも大人の思うようにさっさとはできません。だから必死でやっているのがわかります。なのに、雑になると「きちんと」と、正に多湖先生のご本に書かれている例そのままを求められます。

お母さんが悪い訳ではないのです。私がもっとはっきり、急かしちゃダメって言わなければならないのだと思うのです。その辺りが私のまだまだダメなところです。

しかし、今日のことは後悔しています。

私の教室ではレッスンが終わった後、小さい子達には飴をあげます。缶に入っている中から好きなのを選ぶことは、こんなにものが溢れている今の子達でも意外なほど喜びます。

そして、今日のレッスンが済んだとき、彼女に飴の缶を差し出しました。
すると彼女は、小さな声ですがきちんと「ありがとうございます」と言ったのです。そんな子は滅多にいません。(「ありがとう」という子はいますが、大変喜んでもらってはくれるものの、お礼を言わない子もいます。)

内心、かなり感動していました。えらいなぁと思っていました。

ちょうどそのとき、彼女の後姿を見ていたお母さんがおっしゃいました。

「○○ちゃん、何してるの。早くしなさい。」

彼女が言いづらそうに、「これ。。。」と飴の缶を指差したところ、お母さんがおっしゃいました。

「なんて言うの?ちゃんと、ありがとうございますって言いなさい。」

彼女は言い返せず、お母さんに言われるままにもう一度言いました。

「ありがとうございます。」

彼女がそれを言う前に私はお母さんに言わなければならなかったはずです。彼女はちゃんとお礼を言ってくれましたと。なのに、一瞬の躊躇いが彼女に先を越され、そのまま私はお母さんに何も言えずに彼女を見送ってしまいました。
本当に申し訳ないことをしてしまいました。

やっぱり私はまだまだです。今日は自分の弱さを悔いています。

○○ちゃんのお母さんはこちらを読んではおられないと思いますが、書かせて頂きますね。
彼女はちゃんとお礼を言ってくれました。それは間違いなくお母さんの躾がきちんとされているからです。素晴らしいと思います。彼女は沢山のことができます。いいところが沢山あります。彼女が今よりもっと伸びるために、もっともっと褒めて、彼女に自信を持たせてあげてください。
でも、私は本当にお母さんのことを素晴らしいと思っています。間違っていると責めているのではないのです。それは本当です。

これを読んでくださっているお母さん方へ。
私は子育てもしたことがありませんし、育児の大変さは想像でしかわからないものの、私にはとてもできないかもしれないとさえ思っています。だから、本当にお母さん方のことは尊敬しているのです。
だからこそ、経験もない私が偉そうなことを言ってもいいものかと迷います。

けれど、より素敵なお子さんになってもらいたいから、まだ限られた経験からですが言わせて頂きます。

もしお子さんが、明らかにふざけてだらだら、ぐずぐずしているのであれば、それは「早くしなさい」と言ってもいいのかもしれません。
けれど、そうでない限り、うんと辛抱して見守ってあげてください。応援してあげてください。上手にできたときにはうんと褒めてあげてください。

これまで出会った子ども達とそのお母さん方を見ていて、お母さんは朗らかで大らかにおられるのが一番だと感じています。
どんなに子育てに熱心で、一所懸命勉強され、努力されておられるお母さんでも、いつもニコニコしていて、優しく子どもを見守っておられるお母さんにはかなわないような気もするのです。

実は、幼い頃のことなのであまり覚えてはいませんが、うちの母親はどちらかといえば「早くしなさい」、「きちんとしなさい」、「それはダメでしょ」、そんなことを連発していたように思います。

そのせいかどうかはわかりませんが、兄は几帳面で神経質な人間に育ちましたし、実は私も以前は相当神経質な人間だったのです。こう見えて、小さい頃は遠足などの前には「行った先でトイレがなかったらどうしよう。。。」「バスの中でトイレに行きたくなって我慢できなくなったらどうしよう。。。」「あれも持っていかないと困るんじゃないかな。。。」そんなことばかり考えて、集合時間が近づいてくるとお腹が痛くなるような子どもでした。そして、結局今でもずっと出不精で、新しい環境に身を置くのはとても苦手です。
そんな風に育って得することは殆どないように思います。

今日は自分を反省すると共に、お母さん方にもう一度、お子さんへの接し方を意識して頂けたらなと思って書かせて頂きました。
何か感じて頂けたら嬉しいです。

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2006年1月 5日 (木)

自分を辿る(1)

自分の教室を開いて以来、ずっと考えていることがあります。
もともと、それよりずっと前から考えていたこともあるのですが、幼児教育を意識するようになり、一層考えるようになったことを、恐らく長くなりそうなので、何度かに分けて書いていこうと思います。

これを書くには、まず私自身について簡単な紹介をせねばなりません。
昭和40年代に神戸で生まれ、以来ずっと神戸の地を離れたことがありません。

幼稚園、小学校、中学校は地元の公立。高校は学区内の県立。大学は地元の国立大教育学部。卒業後の仕事でも神戸を出ることなく今日に至っています。

子どもの頃に習ったことがあるのは小学生の頃お習字を6年間、バレエを2~3年、エレクトーンもそのぐらい?記憶にある限り、それが全てです。
その後の学校生活において、塾や予備校を含めて一切の習い事はしませんでした。

私の教室では指導対象のメインが幼児・低学年であるにも関わらず、私は小学校受験も中学校受験も基本的にするつもりはありません。(それには色々な思いがありますので、おいおいそちらも書かせて頂こうと思っています。)

私には、なぜまだ幼稚園のうちから受験をする必要があるのかもよくわかりませんし、また、中学受験に関しては、少なくとも大半の受験生がそうであるように、週に何日も何時間も受験塾に通い、本来、学ぶことと同時にしっかり遊んで、しっかり考えなくてはいけない大切な期間を受験勉強に費やしてしまうことの意義が理解できないのです。
(このあたりのことに関しては、糸山先生の一番新しい著書を読んでいて、色々納得すること、共感することがありましたので、そちらもまた書かせて頂こうと思います。)

自分でも、どうしてそこまで抵抗があるのか、色々考えてみました。
ひとつには、単純に自分に小中学校受験の経験がなく、また、自分の過ごしてきた学校生活は十分に満足できるものだったからということがあると思います。ただ、それだけではなく、どうしても何か違和感があるのです。

小学受験や中学受験を選ばれる保護者の方がしばしば口にされる言葉があります。
「将来、勉強で苦労させたくないから。」
「勉強で」という言葉はつけない方もおられますね。早くから有名校に入れて、エリートコースをということでしょうか。私は、その言葉に最大の違和感を感じるのです。

勉強は苦労なのだろうか?そもそも、勉強は学生時代で終わるんだろうか?幼い時期にしかできないことを犠牲にして先の苦労を買って、その子の将来は本当に安泰なのだろうか?どうしても疑問は次々とわきあがってくるばかりです。

最大の違和感を感じる理由は、もしかすると自分の経験にあるのかもしれない。
そこで、自分の過去を振り返ってみることにしました。
((2)につづきます。)

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2006年1月 4日 (水)

今日の感動

今日からレッスン再開。
レッスン自体は実質5日お休みしていたので、少し久しぶりです。

お正月ボケも不安でしたが、幸い今日は振替などで変更もあり、レッスン自体は2つ。どうにかウオーミングアップできそうです。

今年最初のレッスンは11月からスタートした年長さん2人。もともとお友達の2人だけど、とてもしっかりしていてなんでもよくできる女の子と、これまでお勉強らしいことはほとんどさせてないからと事前に聞いている男の子。

走り回って遊ぶのが好きで、レゴや折り紙なんかで何かを作るのが好きな男の子だから、将来的には全く不安はないのですが、同い年の女の子がどんどん進んでしまったら、劣等感を持たないかだけが心配です。

でも、これまでのところはなんとか大丈夫そう。
そして、その彼が今日ちょっと嬉しい「発見」をしてくれました。

これまでのレッスンで、おはじきや玉や積み木などを見せながら、数を具体物でイメージできるようにしてきているのですが、それも、なるべく数をかたまりで掴むということを意識してもらっています。

5ぐらいまでは見たらすぐわかる。
並び方が整然としていたら、6、8、9、10などもすぐわかる。
そんな状態になりつつあります。

目と耳から「3と3で6」「4と4で8」などなど、そんなことを繰り返しながら2ヶ月ほどレッスンをしてきて、今日は答えが10以下のたし算をやっていました。

レッスンの中で出てきたプリントの「4+4= 」という式を見て、彼は一瞬戸惑ったのですが、「4と4で?」と尋ねると、すぐに気づいて他の問題も解き始めました。

4と4が8なら、4と3はそれより1つ少ないとか、これまで見てきた具体物をイメージしつつ、順調に問題を解いてくれていました。

そのとき、「3+6= 」という式を見た彼がふとこんなことを言いました。

「3たす6。これは3と3と3やから9やな。」

感動です。

彼の頭の中で、「6は3と3」、「3と3と3は9」、その2つのことが自然と結びついたようです。

その後、「3+6」や「6+3」という式が出てきたら、

「○○くんの得意なやつや!」

そういうと、嬉しそうに

「これは3と3と3と一緒やから9や!」

そう言ってくれました。

この感動はどの程度皆さんにわかって頂けるのかはわかりません。
けれど、「数を量としてイメージできる」「数の合成・分解ができる」、それらのことは本当に大切なことです。

そして、こちらから何も言わないのに、3+6は3が3つ分と気づいた彼の頭の中には、間違いなく「6」という数がイメージできていたということです。

これは思った以上に早く、驚くような伸びを見せてもらえるかもしれません。今年も楽しくなりそうです。

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2006年1月 3日 (火)

ドナーカード

元日の夜、両親と一緒にテレビを見ながらくつろいでいました。
テレビで臓器移植のドナーカードのCMが流れると、思いがけず母が言いました。

「私はもう十何年前からあれ持ってるよ。全部提供するわ。」

それを聞いて、父は持っていないけど、自分も死んだら提供すると言いました。
母の言葉に私は驚き、思わずお願いしました。

「絶対やめて!」

と。

私自身、ドナーカードはまだ持っていません。
以前は自分が(本当の意味で)死んだら、その後、自分の体で誰かが生きられるなら、提供したっていいなと漠然と考えていました。

けれど、あるとき、みかみ先生の教え子さん「天才いとう」さんのブログを見て驚きました。
ここにも知らなかったことがあったと。

脳死者から臓器を取り出すとき、脳死者は痛みにもがき苦しむことがあるそうです。他にも色々書いてありました(勝手にリンクさせてもらっています)が、それを見て考えてしまいました。ここにも国が国民に知らしていないことがあるんだなと。

確かに、そんなことを聞けば臓器提供しようという人は減るでしょう。少なくとも、愛する人が臓器提供すると言ったら止める人は増えるでしょう。だから、いい面しか知らされていないような気がしました。そのことに納得がいかないなと。。。

母は尋ねました。

「なんで?死んでるんだからいいでしょ?」

だから私は言いました。脳死状態の人が体にメスを入れられたら、痛みでもがき苦しむことがあるらしいと。
それを聞いて父が言いました。

「死んだらどうせ何にもわからへんのやから、どうぞ好きにしてください。」

母も言いました。

「(痛みに苦しんでいる)そんなところは身内に見せないでしょ?」

(いや、それは全然答えになってないって、母さん。)
そう思いながら、もう一度頼みました。

「わかった。もし私が先に死んだら、そのあとは何でも好きにして。提供するんだったらいくらでもどうぞ。でも、私が死ぬまでは絶対提供するを選ばないで。」

脳死になった後は、生きていても植物状態になるんだから、そんな風になってまで生きていなくてもいいというようなことを言う母に、悲しい気持ちになりながら言いました。

「ねえ、じゃあ私がもし死んで、脳死ですって言われて、だけどまだ心臓も動いてるし、生きてるのに、臓器取り出されてもいい?」

両親とも言葉に窮しました。
私が頑固なのは両親から譲り受けたものですから、そこまで言っても両親はすんなり意見を変えたりはしません。

だからまだ続けました。
この先医学が進んだら、もしかしたら生き返ることもあるかもしれないし、とにかくまだ生きているのに臓器を取り出されるなんてイヤだと。だから絶対やめてと。

例えばもし事故などで即死して、その後何か臓器を提供できるのであれば、いくらでも提供していいけど、「脳死」での提供は絶対してほしくないと。

冷たいと言われるかもしれません。
それに、仮に自分自身だったら、植物状態になってまで生き続けたいとは思わないかもしれませんし、不勉強でわからないものの、脳死に至ったらその後どれだけ生きられるのかもよくわかりません。

特に、私の場合は、順当に行けば両親や兄が先立つでしょうから、下手したら完全に独りぼっちで最期を迎えるかもしれません。だったら、そのときにはいくらでも使えるものは好きに使ってもらっていいとも思います。

だけど、大切な人がそうされるのはイヤなのです。絶対にです。
どんな風であっても、生きながらえてほしいのです。

もちろん、生まれ変わりを信じているので、そういう意味では永遠の別れになる訳ではないと思うのですが、やはり目に見える状態で1日も長くい続けてほしいと思います。

天才いとうさんも結局いいとか悪いとかの結論は出せずにおられるようですが、私もそうなんです。
仮に、逆の立場で、臓器移植を受けなければ大切な人が命を失ってしまうのであれば、こんなことは言ってられない、頼むから、誰でもいいから提供して!と思う気もしますから。

ただ、ある情報の一面やごく一部しか知らされていないことに対する怖さを感じています。選択させるのであれば、国はもっと正しい情報を提供した上でさせるべきなのではないか。そんな風に思っています。

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2006年1月 2日 (月)

初詣とおみくじ

お正月休みなので仕事に全く関係のないような内容です。
お忙しい方は読まれなくって結構ですので。。。

半ば恒例行事になりつつある幼馴染たちとの初詣。
幼馴染とは4歳からの付き合いで、実はまだ20代の頃からお互い漠然と結婚しない(できない)かもしれないなと思っており、「将来、40になっても独身だったらマンションの隣りとか上と下とかで暮らそうね」と話していた仲だ。

それを横で聞きながら、私は仲間に入らないと言っていた友人も共に、未だ独身。来年は誰か抜けるかなと思いながらも一体何年経ったことだろう。
そろそろ、「夢の話」だった「近所暮らし」の年齢もすぐそこの話になってきた。
ただ、幼馴染はバリバリ仕事をしているので、今のままでは幼馴染と同レベルの賃貸マンションに住むのは私には難しそうだけれど。(苦笑)

彼女達と初詣に行き、おみくじを引くのは恒例行事のひとつになりつつある。
一昨年だったか、幼馴染の引いたおみくじは「半凶」で、そんなおみくじがあるということを初めて知った。

もちろん、おみくじに書かれていることを信じる訳でもなく、ただ単に運試しのような気持ちで引くのだけど。

今年の私のおみくじは「中吉」 書かれていたことはまずまずよし。
その中から3項目ご紹介。(笑)

学業 他人の助けによりはかどる友を選べ ・・・ 「友」の皆様、どうぞ宜しくお願いします。
就職 根気よくさがせ工業良し ・・・ いえ、それはちょっと予定しておりません。。。
縁談 後に到り思いがけず叶う気長く待て ・・・ あの。。。既に相当待ってるんですけど。。

そんな感じのおみくじでした。(どんな感じ?)
さて、どんな1年になりますやら。

※普段ブログを書いていると、一応教室のサイトにリンクしてあることもあり、どうしても真面目路線で書いてしまうため。。。実は自分の中でかなりの不安が膨らんでおります。
私を直接ご存知の方はきっと「またまた~~、真面目ぶって!!」と内心ツッコミを入れている方も多いのではと思いますが、今年はちょこっと、本来の私(?)も登場させてみようかと思っております。どうぞ宜しくお願い致します。

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2006年1月 1日 (日)

年末年始の習慣

明けましておめでとうございます。
まだまだ未熟者の拙いブログですが、今年もどうぞ宜しくお願い致します。

古くからの友人達には半ば呆れつつも感心されるのですが、私には年末年始にどうしても欠かせない習慣があります。

元日には新しいパジャマと下着、そして可能であれば新しい服を身につける。
そして、お正月を迎える前には例年除夜の鐘ギリギリか下手すれば新年になって初日の出の頃まで大掃除をする。

これらは欠かせない習慣です。

新しいパジャマや下着というのは子どもの頃から、お正月には母が新しいパジャマと下着を用意してくれて、それを身につけるのが習慣になっていたため、ひとり暮らしを始めてからもそれをしないとなんだかお正月を迎えられないような気がしてしまうのです。

おまけに、いつ頃からか、元旦に身につける服も高いものでなくても新しいものをと思うようになり、お蔭でこの仕事をし始めてからの年末は戦争のような慌しさです。

もともと、塾に勤めていた頃も29日まではほぼ確実に仕事がありましたし、教室の大掃除などもしなくてはいけない。だから、例年、大掃除もお正月準備や買い物も全て最終2日にしなくてはという感じになってしまうのです。

今年は特に時間が足りなくて、本当に最終2日しかない状態だったのに予定以上に寝てしまい、焦りながら大掃除と買い物をこなしました。
普段も歩くのは速い方ですが、普段の1.5倍速ぐらいで歩いている自分が何だか可笑しくなってきて、どうしてそうまでして新しい服を買わなきゃいけないんだ。。。と思ったりもしましたが、毎年続けていることを辞めるのにも勇気が必要です。特に元旦は1年に1回しかありませんし、「一年の計は元旦にあり」というぐらいですし。。。

時間も予算もあまりなかったので、手頃なものになりましたが、どうにか大晦日に必要な買い物を済ませることができ、ひと安心。
結局大掃除だけは年内に終わらず、元旦朝5時過ぎまでやっていましたが。。。

そんなことをしているご家庭は他にもあると思うのですが、お正月に実家ではお茶に結び昆布を入れて飲みますし、ほんの数分ではありますが、家族揃ってテレビも消して、きちんと正座してお正月の挨拶をします。

最近は忙しすぎて母のこだわりも減ってきましたが、数年前までは「元旦の午前中には刃物は使ったらいけない」とか「元旦には風呂に入らない」とか色々な言い伝えがあり、それを守っていました。

おせち料理にはそれぞれ意味があることをご存知の方は多いでしょうし、例えば鏡餅のお飾りにも意味があったりしますが、そういうのを親から子へ、子から孫へと語り伝えていくのは、私はとても素敵なことだと思っています。

まあ、私の場合、自分の「子」に伝えることはできないような気もしますが、昔の風習や伝統を語り継いでいくことも必要だと思うのです。

もちろん、「迷信」などと言われ、今の時代には全くそぐわないものもあるとは思います。
例えば「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」とか言われても、一般の社会人で昼間に爪を切る人は多分かなり少ないでしょうし、そもそもは電灯などもなく、夜が暗かった頃、そんな暗い中で爪を切るのは危ないからということでできたものというようなことを聞いたことがありますから、今は気にする必要はないのかもしれません。

幼い頃、スイカの種を食べたらお腹からスイカが生えてくるよと言われ、(以前何かで聞いた話ではスイカの種はお腹を冷やすのでというようなことでしたが、真偽は不明です。)神経質なまでに種を避け、ついうっかり食べてしまうとしばらくは不安だったというのは今では笑い話ですが、今の親たちは子どもにそんなことを言ったりするのでしょうか?

数年前までは、元旦には殆どのお店が閉まっていて、だからこそ各家庭でおせち料理などの正月料理を用意しておかなければ、お正月早々食べるものに困る状況がありました。
けれど、今は元旦でもお店は開いていて、わざわざおせち料理などを用意しなくても、全く不便を感じることはなくなったのだと思います。

ゴミ問題などの影響もあるのか、注連縄を飾るお家も明らかに減ってきていますし、七草粥や鏡開き、松の内を過ぎてお飾りを外し、とんど焼きをして家の周りに焼いた灰を盛る、そんな習慣はどんどん消えていっているように思います。

便利になったことは本当にいいことばかりなのでしょうか。
便利になった代わりに、もっと大事で素敵なものをどんどん見失ってはいないでしょうか。

もちろん、私の家にも教室にもドアにはお正月飾りがついていますし、家には小さいながらも鏡餅も飾っています。当然鏡開きも、形だけですがします。

お正月にはお正月ならではのこと、お子さんがいればお節句にはお節句らしいこと、秋にはススキを飾ってお月見を、冬至にはかぼちゃにゆず湯を。
そんなことを小さな子がいるご家庭でもっと意識してもらう。
小さなことかもしれませんが、それも大切な教育のような気がしています。

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