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2005年12月31日 (土)

出会いと転機(15)

先生の葬儀のあとも、しばらくは油断すると涙がこぼれてくるような日々でした。
絶対にまた教壇に立つのだと闘病し続けられたという話を聞き、先生の無念を思いました。あまりにも早過ぎるご逝去でした。

私にできることはなんだろう。。。しばらくはそのことばかり考えていました。ちょうどその頃、勤めていた塾では様々な問題が起き、ストレスは限界に近づいていました。本当なら、今こそ先生に私はどうすべきなのかお尋ねしたい。。。心からそう思いました。

だけど、自分で考えるしかない。自分にとって、そして、先生のために、一体何が最良なんだろう。。。

先生の遺志を継いで、非常勤でもいいから中学校に入ることも考えました。
ですが、それはやはり何か違うように思えました。
考え抜いた末、私は私らしく、自分にできることを精一杯、今いる子ども達と一緒にやっていくと決めました。きっと見守ってくださっているであろう先生に恥ずかしくないように頑張っていこう。そう決心し、今ある場所で頑張ることを選びました。

しかし、その決心は揺らぎ始めました。どうしても、どう頑張っても、もう踏ん張り切れない限界が来ていました。
この仕事を始めたときからずっと考えていましたが、もし仕事を辞めることになったとしても、絶対年度途中で辞めるのだけは避けようと。年度が替われば学校でも担任が変わるのだから、子ども達と別れるのはそのタイミング以外は許されない。そう自分で決めていました。

その決意さえ揺らぐほど色々なことが重なり、そんなときには勝手なもので、ふと、
(意見を聞かせてほしいのに、なんで先生いてくれないの?)
と恨みがましく思ったりもしました。

これまでの人生であそこまで悩み抜いた決断はなかったと思います。悩んで悩み抜いた末、いつか天上で恩師に会えたら、そのとき恩師の顔を真っ直ぐ見られるかどうかという基準で決断をしました。

それから本当に色々なことがありました。人生最大の壁にもぶつかったかもしれません。本当に苦しかったし、何もかも投げ出して逃げ出そうと思ったこともありました。けれど、ふと恩師のことが頭を過ぎるのです。

心から子ども達を愛していた先生。道半ばにして去らねばならなかった無念。
先生がお元気であれば、もっともっと多くの子ども達が素晴らしい出会いをもらえたはずなのに、その機会はもうなくなってしまった。

私に進むべき道を見つけさせてくれた人。かけがえのない人。なのに何ひとつ恩返しもできないまま会えなくなってしまった。
だから私は逃げちゃいけない。まだまだ先生の足元にも及ばないけど、そして、いくら頑張ったって先生に追いつくことはできないと思うけど、ほんの一歩でも先生に近づきたい。

いつか会えたとき、いつもの笑顔で

「おぅ、お前、よう頑張ったな。」

そう言ってもらえるよう頑張るんだ。
この思いはあの日以来ずっと、私の中で大きな基準になっています。

多分先生は何にも怒ってなんていない。私の不義理さえも全部許してくださっている。そう思っています。だからこそ一層切なくもなるのですが、「先生」とはきっとそういうものなのだとも思うのです。

教え子に何か見返りを求めるなんてことはない。ただ教え子の成長を見守り、幸せを祈る。そんなのが「本物の教師」なんだと思うのです。そして、恩師はそういう方だったと思っています。

大切な子ども達といつも真正面から向き合う。

その気持ちが揺らいだら、多分そのときはこの仕事を辞めるときなのだと思っています。
今でも多分側にいて、笑顔で私を見守ってくださっている恩師に、いつの日か褒めて頂けるよう、これからも努力していこうと思っています。

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今年の締めくくりは。

出会いと転機と題して長々と書かせて頂きました。
「転機」という意味では、最愛の恩師が空の上に行かれてからの方が本当の意味での転機がありました。
そのことについてはいずれまた、続編のような形で書かせてもらうかもしれません。

恩師との思い出を書き終えてしまうのが何だか淋しくて、15話は随分前に書いておきながらも、なかなかアップできずにいました。

今年の最後は私にとって最愛の恩師、坂本英世先生との思い出で締めくくらせて頂きます。
そうは言いながらも、これからも恩師のことは書かせてもらうような気がしますが、15話に渡ってお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。後ほど15話を公開します。

皆様にとって新しい年が素晴らしい年になりますよう、心よりお祈り致します。

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2005年12月30日 (金)

「お金が大事」追記

昨日のブログに書いたテレビ番組の中で、ライブドアの堀江社長のことをどう思うかというテーマで子供たちの意見を求めた場面があった。

その際、堀江社長が小学生の頃書いた文集の記事が紹介された。
そこには「しゅみ:お金あつめ」と書かれていた。

番組では、「小学生のうちから切手集めではなくお金集めが趣味だったんですね」みたいなコメントがされ、そのまま話はまたお金のことに戻っていった。

そのとき、ゲストの芸能人の中に麻木久仁子さんがいた。
私は彼女の視点に感心し、また、彼女の意見を素晴らしいと思った。私は全く気づかずに見過ごしていたから。

子ども達は堀江社長のやり方は汚いと批判した。人の気持ちを無視しているとか、買収で悲しむ人がいるんだから、そういうことはしたらいけないとか、買収は乗っ取りだから悪いことだとか、そんな意見が大半を占めた。

それに対抗する意見としても、経営者は儲けないといけないし、経営と心の問題は別の話だというような意見も出されていた。

出ている意見は全て、子ども達なりには精一杯の正論。ただ、大人の側からすれば、ごく限られた狭い面だけを見て判断している意見に過ぎない。

暫く子ども達の意見を聞いていた麻木さんが、穏やかに子ども達に言った。

「みんなはお金を稼ぐのがいいとか悪いとか言ってるけど、お金の使い方が問題だと思うの。さっきの文集にロケットの絵が描いてあったよね。もしも堀江社長の夢が宇宙に行くことだったら、すごくお金がいるよね。そのためにこのぐらい稼がなきゃいけないなぁっていうのがあって稼いでるんだったら、それはいいと思うのね。」

確か、そんな内容だった。

そして、私は感心した。私の目にはそのロケットの絵は全く入っていなかったから。
確かに堀江社長の夢がロケットを飛ばすことや宇宙に行くことで、そのために子どもの頃からの趣味がお金集めだったとしたら、それは尊敬にすら値する。今色々なことをしているのも全てその夢の実現のためなのだとしたら、それはもしかしたら素晴らしいことなのではないかと思った。(もちろん、やり方などに批判はあるかもしれないが。)

もともと私は堀江社長のことは嫌いではない。批判も色々あるかもしれないけれど、私は批判する気にはならない。

ただ、そんな風に考えたことはなかったし、もしも「宇宙事業」こそが彼の叶えたい夢だったのなら、そのために必要な資金集めは半端な額じゃないのだから、麻木さんの言葉は新鮮に響いた。

もちろん、本人に尋ねた訳ではないから、真実はわからない。全く違うのかもしれないけれど、そういう視点を持てる、また、そういうことを子ども達に言える彼女は素晴らしいなと思った。

「初めにお金ありき」なんじゃない。

そう言葉にするのは簡単だ。だけど、それでは子ども達を納得させることはできないだろう。

そして、例えばもし夢が「自分の理想とする教育を広く伝えるため全国展開で教室を開く」というものであれば、私のようなレベルでの仕事ぶりでは一生実現不可能だろうし、麻木さんが言うように、当然必要となるお金だって全く違ってくるのだ。

もし、そんな夢を実現させるために色々な経営努力をし、儲けている方がいるのなら、それは褒められることこそあれ、決して責められることではないはずだ。

改めて大切な視点に気づかせてもらったことにとても感謝している。

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2005年12月29日 (木)

「お金が大事」

一昨日、家に帰って何の気なしにテレビをつけた。
たまたまそのチャンネルでは小中学生達が色々なテーマについて、芸能人たちを前に自分達の考えを語るというような番組をやっていた。

途中からだったし、新聞すら見なかったため、それがどういう設定の番組で、その子達がどういう人選で出てきているのかはわからなかった。
全国から、色々なタイプの子を集めたようではあったが、少なくともほぼみんな人前で積極的に発言できるタイプの子達であった。

その子達の口から出る言葉を聞きながら、私は恐ろしく、悲しくなった。
もちろん子どもだから、まだこの先色々変わるに違いないし、何年か後に自分の発言を思い出して恥ずかしくなるのかもしれない。そうであってほしいとさえ思うけれど、20名ほどいたであろうその子達の殆どが言ったこと、それは

「お金が大事」

その言葉だった。

ある女の子は言った。

「自分が愛した人が貧乏だったら別れる。」

別の女の子は言った。

「お金があるのは前提で、その上で心重視。」

ある男の子は言った。

「ホリエモンはお金儲けがうまいから好き。」

ある女の子は繰り返した。

「今はお金じゃないって言ってても、大人になったらわかるねん。絶対お金やって。」

私は心底悲しく、恐ろしくなった。

お金がなくてもとか、お金じゃ心は買えないとか、そういう発言をする子もいたけれど、話題はほぼ常に「お金」という価値基準で判断されていた。要は、ある女の子が言った「初めにお金ありき」なのだ。

もちろん、その子達は何も悪くない。素直に思ったことを口にしただけなのだ。

じゃあ何が悲しいかって。。。それは、まだ小さい子ども達の価値判断の基準がお金であり、それを当然と思わせる社会を作ってしまったことだ。

確かに今の社会を見ていれば、子ども達がそんな風に思ってしまっても仕方ない気がする。
多くの大人たちが何か履き違えているのだ。

いずれ書こうと思いながら、まだ自分の中でうまくまとまらず、書けずにいるのだけど、「お金があれば幸せ」なんてことは実は間違っている。少なくとも私はそう思っている。

もちろん、生活もできないほど困窮すれば、幸せも感じられないかもしれない。少なくとも、自分が幸せか不幸せかを考える余裕すらないような気がする。

けれど、贅沢しなければ普通に暮らせる(普通という基準も曖昧だけれど)というのであれば、「お金が沢山あれば幸せで、なければ幸せになれない」という考えは間違っていると私は断言できる。

世の大人達はあの子達の姿を見て何を感じたのだろう。

もしも違和感を感じたのであれば、それはあの子達が悪いのでも、特殊なのでもなく、あの子達をそういう価値観にしてしまった私達自身が深く反省し、真剣に考えていかなければならないのだと思う。

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2005年12月28日 (水)

公園の遊具

最近時々、公園の遊具での事故のニュースを耳にするようになった。
それはなぜだろうと思いながら、ニュースを聞く。

そういうニュースが出た後、ほぼ一様に対応は決まっている。
公園の遊具を撤去したり、使えなくしてしまうのだ。

もちろん、明らかにどこか破損していたり、何かが突出していたりということであれば、すぐに修理されなければならないと思うけれど、なくしてしまうことや使えなくすることは本当にすべきことなんだろうか。

公園の遊具は昔からある。もちろん私たちが子どもの頃から。
昔の遊具はもっと危険な面もあったのではないかと思うけれど、そんなニュースは聞いた覚えがない。
もちろん、多少は事故もあったのだろう。それに対して今ほど社会が神経質になっていなかったということもあるかもしれない。

だけど、それだけではないはず。
ひとつには最近問題視されるようになっている、子どもの運動能力の低下の影響があるのではないかと思う。私たちが子どもの頃であれば、殆どの子が当たり前にできていたことをできない子どもが増えているらしい。

ボール投げができなかったり、両足でジャンプができなかったり、そんな子ども達が増え、それを指導する教室ができているそうだ。
結局、それもまた「教室」で「先生」から習うのだ。何だか違和感が拭えない。

子ども達を安心して走り回らせることのできる場所がないのよとおっしゃる方もいると思うし、それは否定できないところもある。
子どものことだけを考えて、田舎に移り住む。そんなことも現実問題としては難しいだろう。

けれど、都会にだって探せば走り回って遊べる場所も、木登りできる場所も、きっとまだあるはず。ちょっとぐらい怪我をしたって、泥んこになったって、小さいうちにしっかりそういうことをしておかなくてはいけないんだと思う。
その場所を探すことが大変だとしても、それは大変だからしなくてもいいという性質のものではないような気がする。少なくとも子どもの健やかな成長を願うのなら。

実は私、小学6年のとき、校庭のブランコに乗っていたら、そのブランコが真ん中から真っ二つに割れて、握っていたチェーンで手を擦りむいて怪我をしたことがある。
無茶な乗り方をしていた訳ではなく、本当に普通にブランコを漕いでいただけだった。そして、そのブランコは今思えばあり得ないことのように思うけれど、プラスチック製だった。毎日毎日お日様にあたり、風雨にさらされ、子ども達に乗られ、徐々に中央部分がしなってきていたのだ。

多分私が悪かった訳じゃない。けれど子どもだった私は先生に叱られる。。。そう思うと、手の怪我の痛みを感じるどころではなかった。

職員室に報告に行くと、意外にも先生は全く怒ることなく怪我を心配し、その後一緒にブランコを見に出て、多分その後しばらくブランコは使用禁止になり、やがて金属製のブランコに変わった。

ある意味、もしかすると私は被害者だったのかもしれない。けれど、何も問題になることはなかった。もちろん、怪我の程度も軽かったこともあるだろうけど。

ただ、もし今の時代、同じことがあって、子どもが家に帰ってそれを親に報告したら、学校に乗り込む親、公的機関に訴える親、そんな人も少なくないのかもしれない。ふとそんなことを思う。

そして、責められた側は何らかの対応を迫られ、結局遊具を撤去したり、使用禁止にしたりという対応しかできないのだろう。

もちろん、安全対策は必要なことだ。明らかに危険な遊具を放置するのはおかしい。
けれど、何を持って「危険」の基準にするのか。例えば、ジャングルジムでさえ、幼い子が上まで上って転落すれば十分危険なのだ。そんなことを言い出したらもう何も遊具なんて設置できなくなってしまう。

以前、滑り台で指を切断してしまったというニュースが流れた。公園の滑り台でだ。じゃあ、全国の滑り台は危険なのかも。子どもに使わせないほうがいいんじゃないかしら。。。そんな話になってしまう。

もちろん、怪我をした子は可哀想だと思うし、子どもが悪いなんていう気は毛頭ない。
けれど、曖昧な基準でしかない「危険」な遊具は撤去したり、使用できなくしたりするという対応は、うまく言えないが何かが違う気がしてならない。

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2005年12月27日 (火)

お手伝いと自己肯定感

以前ご紹介した『旬教育』の鷹姫さんの最近のメルマガにも子どもにお手伝いさせることの重要性が書かれていましたが、子どものお手伝いについてちょっと書いてみたいと思います。

他の幼児教育関係の本にもそのことはしばしば取り上げられていますが、なぜ大切なのかといえば、お手伝いをすることで「人の役に立つ」ことを経験し、人から頼られ、感謝されることによって「自己肯定感」を持てるようになる、自分に自信を持てるようになるということのようです。

小さい子はお母さんが大好きなので、お母さんが「助かったわ」とか「ありがとう」とか「嬉しいわ」とか、そんな風に言ってくれるのは子どもにとってもとてもとても嬉しいことなのだそうです。

私は子育て経験はありませんので、恐らくそうなんだろうなということしかわかりませんが、自分を必要とされること、誰かの役に立つこと、それらは確かに幼児期の成長にとって欠かせないもののように思います。

お手伝いに関して、自分の子どもの頃のことを振り返ると、2つばかり思い出すことがあります。

このこともいくつかの本で既に目にしましたが、親は子どもに何かお手伝いをさせるとき、子どもが「勉強するから」と言えば、だったらいいわとお手伝いをさせるのを辞めさせることがあるが、それは決していいことではないとのこと。

実際、私の記憶にある限り、高学年ぐらいになってくると、お手伝いしてと言われたら、したくないときには「勉強してる」と言えば許されることを知っていて、うまくそれを利用していたことを思い出します。
もちろん、受験前や試験前など、どうしても勉強を優先させるべきときもあるのかもしれませんが、「勉強するならお手伝いしなくていい」ということを親が認めるということは、明らかに「家事労働」などと比べ「勉強」の方が大切だと子どもに伝えているということになるでしょう。

自分がそれを利用しておきながら勝手な話ですが、もしあの時母が「勉強なんていいから、先にこれをしてちょうだい」と言っていたら、自分はどうしていたかなと思ったりします。

今、自分がその頃の母親の年齢に近づいてきて、仕事で子ども達に関わる中で、幼児期などには勉強より家事などのお手伝いがしっかりできることの方がきっとずっと大切なのではないかと思ったりしています。

もちろん、勉強もした方がいいと思いますが、お手伝いといっても、小学生ぐらいまでにさせるお手伝いなんて、せいぜい30分もあれば終わるようなものが殆どではないでしょうか?
だったら、勉強を理由にお手伝いをさせないのではなく、お手伝いをした後で勉強をさせる。仮に、お手伝いをしたことで机に向かっての勉強時間が減ったとしても、それ以上に大事な何かを、学んでいるのではないかと思います。

ただ、何より大切なのは、多くの先生方が言っておられるように、お手伝いをすることも育児の一環として、大切な人の役に立つこと、ひいては人の役に立つことの喜び、必要とされることの幸せをしっかり感じられるようにしてあげるということではないでしょうか。

仮に上手にできなくっても、多少のことには目をつぶって、「ありがとう。助かったわ。」と言ってあげてください。きっとそれだけで、次もまた頑張ろうと思えるはずですから。
(どうしても仕上げに満足できなければ、お子さんが見ていないときにやり直すなどされてもいいと思いますが、とにかく、お子さんの前で「こんなのもちゃんとできないの?」的な態度だけは絶対にしないであげてください。)

もうひとつ思い出すこと。それは、小さい子をお持ちのお母さん達に気をつけて頂きたいと思うことです。

うちの母は洗濯の仕方などにも自分のこだわりがある人で、それは幼い私に対しても目をつぶることができないものだったようです。

ある日、お洗濯のお手伝いをしようと頑張っていた私の側で、母は次々と言いました。

「あぁ、そうじゃないでしょ。」
「あ!そんなことしたらダメ。」
「そこはこうしてちょうだい。」

さすがに言い返しはしませんでしたが、私は心の中で思っていました。

(そんなに言うんだったら、全部自分でしたらいいやん。私、もう絶対しない!)

記憶にある限り、それ以来私は本当に最低限の、どうしても避けられないお手伝い以外しない子どもになりました。頑固な私は、実家を離れるまでその姿勢を貫きました。

もしあの時母が、自分の思いをちょっと堪えて、黙って見守ってくれていたら、そして、終わった後、「ありがとう。助かったわ。」と、嘘でも言ってくれていたら、多分その後の20年ほど全然違った展開になっていたんじゃないかと思うのです。

それほどに、幼い子への言葉がけは重要なのです。
小さいから何言っても大丈夫だろうというのは絶対間違っています。実際、私がここまではっきりとその出来事を覚えているのですから。

あと、これは昔の人には仕方ないことなのかもしれませんが、私には3つ上の兄がいるのですが、お手伝いをしなさいと言われるときにしばしば「あなたは女の子なんだから」と言われることがあり、すごく納得がいかなかったことも覚えています。

なんで兄はお手伝いをせずに許されて、私は「女だから」という理由で手伝わなきゃいけないのか。。。子供心にその理不尽さに納得が行かず、好きで女に生まれたんじゃないと思ったものです。

その後、なぜ私がお手伝いをしなくなったかを知る由もないうちの母は、「うちには男の子しかいないからね。。。」とお手伝いしない私にイヤミを言ったりもしたものでした。
(母の名誉のために。。。他にもなかなか困ったチャンな面を持つ母ではありますが、私にとってはかけがえのない大切な母です。)

世のお母さん方!幼児期に上手に育てれば、子どもも幸せ、少しの間目をつぶって我慢すればいずれはお母さんも幸せ(上手にお手伝いしてくれる子になるはずなので)だとすれば、これを頑張らない手はないと思いませんか?

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2005年12月26日 (月)

便利さの代償

先日、仕事で遅くなり、気づいたら間もなく終電という時間になっていました。当然日付もかわり、そんな時間に帰るのは少し怖いなと思って表に出ました。

これまでも0時近くに教室を出ることはしばしばありましたが、完全に日付もかわり、1時が近いような時間になったのは恐らく初めてだったのではないかと思います。

表に出て、終電を逃しては大変と駅に向かって小走りで駆け出しながら、ちょっと驚いていました。
普段見る、21時、22時頃の様子となんら変わりがないのです。

私の教室は大通りに面しており、駅までも歩いて3分ほどですから、驚くほどのことではないのかもしれません。けれど、もう夜中の1時前です。なのに、街には煌々と灯りがつき、今が一体何時なのか、まだ早い時間なのではないか、そんな錯覚にさえ陥りかけました。

電車に乗って自宅の最寄り駅を降りても、その印象はあまり変わりませんでした。

そして私は怖くなりました。

深夜が深夜ではないことが。。。

24時間営業の店が増え、確かに生活は便利になったかもしれません。
深夜の一人歩きも不安を感じることが減り、表向き、街は安全になったのかもしれません。

けれど、どうしても違和感はぬぐえません。

田舎の方でコンビニなどに行くにも歩いては行けない、もしくはコンビニ自体がない、そんな地域では夜遅く若者達がたむろしていることも少ないようです。実際、集まろうにも街は真っ暗、どの店も閉まっているとなれば、集まりようも限られます。

その昔、まだ私が若かった頃、私が住む街の繁華街は日付が変わっても開いているお店はかなり限られていました。

今でもよく覚えていますが、会社に入社して2年目の頃、同期の子達と「今日は朝まで」という企画をしたことがあります。けれど、朝まで開いている店を探すのに疲れ、結局どうにか見つけた1時まで開いている店を最後に、ひとり暮らしの友人宅に押しかけました。

この街はそんな街でした。だから、深夜の繁華街はゴーストタウンのようで、当然街でたむろしている若者は殆どいませんでした。

同じ頃、会社の人にドライブがてら京都に連れて行ってもらったとき、0時を過ぎても街に溢れかえる若者達、途切れることを知らないタクシーの列に言葉を失ったものでした。

私は自分の住んでいる街が大好きです。以前よく言っていたことが
「この街は適度にいい子ちゃん達が集まってる街」というものでした。
街自体が、所謂「不良になること」をある程度抑制してくれていたように思うのです。

そんなに短絡的に考えてはいけないのかもしれません。
それでも、私たちは便利さの代償に何か大切なものを失っている気がするのです。

夜中の街は真っ暗ではいけないのでしょうか?
24時間営業、お正月は元旦から営業、そういうことが当たり前になってきている私たちの感覚は、何かに毒され、どんどんと大切なものを見失ってはいないでしょうか。

深夜の街でふとそんなことを考えました。

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2005年12月25日 (日)

念のため。。。

今日は休日なので、仕事しなきゃ~と思いながら、仕事のメール打ったぐらいでちょっとのんびりしています。(していていいのかは微妙ですが。。。)

世の中はクリスマス、子どもたちは冬休みという訳で、今日はちょっとどうでもいいことを。
というのも。。。昨日久しぶりにまたちょっとした事件(?)があったもので。

昨日仕事のキリがついて、ホッとしていると電話が鳴りました。とある塾長先生でした。

「先生!今日のブログに独身って書いてましたよ?!」

??? なんかいけなかったかしら?

この先生、とてもいい方で、先日もあることを「ちょっと気をつけた方がいいですよ」と言ってくださったばかりだったので、独身ってことを公言しない方がいいってことかしら?と思いつつ、

「はい?そうですけど??」

・・・・・・・・・・。

「えぇっ!?独身なんですか!!」

私的にはブログにもめいっぱいそれがわかる表現をしてきていたんじゃないかと思うのですが、先生が誤解されたのには理由があったようです。
そして、その理由は。。。実は過去何度も経験してきたものと同じでした。。。

まさかと思いますが、もしかしたら、教室に通ってくれている子のお母さん方でも、その話題に触れちゃいけないかしら。。。とか思って気を遣われている方がおられるかもと、ちょっぴり不安になりましたので、念のため。

私、実は困ったことに、自分のことを「先生はね。。。」と言えないのと同時に、子どもたちのことを「生徒が。。。」と言えないのです。

これは学生時代、教育実習に行ったころからずっとです。実習中も、他の実習生達や実際の先生方の殆どが「先生はね」と自然に言っておられたのに、どうしても抵抗があって言えないのです。
それと同時に、私にとって「生徒」は「子ども」としか表現できないのです。「生徒」という言葉の響きに何だか違和感があって、どうしても言えないんです。。。

お蔭で、過去にも何度も「あ、ご結婚されてるんですか?」とか「お子さんおられるんですか?」とか尋ねられることがありました。

尋ねてくれる方には説明ができるからいいですよね。
でも、お電話をくださった先生は、何かの事情で子どもはいるけど今自分で育ててないのかもと、その話題に触れちゃダメかなとか思ってくださっていたようです。(苦笑)
他にもそんな方がおられるかもしれない。。。

まあ、別に独身だろうが結婚していようが、子どもがいようがいまいが、私は私な訳ですけど、新しい年を迎える前に一応宣言させて頂きます。

残念ながら(?)これまで一度も結婚したことも出産したこともありません。
何かお気遣い頂いていた方がおられましたらどうぞお許しください。

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2005年12月24日 (土)

出会いと転機(14)

親族のご挨拶で、先生のお兄さんがおっしゃいました。

「私は弟を尊敬します。」

闘病中もずっと、また良くなって教壇に立つのだと言い続けておられたそうです。全身全霊を子ども達の指導に傾けて生きた先生でした。そんな生き方を誇りに思うとお兄さんはおっしゃいました。素晴らしい言葉でした。

恩師は脳腫瘍だったそうです。
健康管理には気を配り、前年には人間ドックにも入り、隅々まで調べてもらって健康のお墨付きをもらっていたそうです。ただ、脳の検査だけはしておられなかったのだと。

倒れられたときには既に転移が始まっていて、完治の見込みは殆どなかったそうです。
それなのに、先生は私にくださった賀状にあんなひと言しか書いておられなかった。それは間違いなく、心配をさせまいという心配りだったに違いありません。

もうどうしていいかわからず泣きじゃくっている私を、泣きながらも気丈に振舞ってくれている友人が支えてくれ、先生のお棺にお花を入れさせて頂けることになりました。

正直、怖かった。亡くなられた先生のお顔を見るのはイヤでした。先生がもうこの世におられないことをどうしても認めたくなかったから、列に並びながらも逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。

とうとう自分の番が回ってきて、お棺の中に横たわる先生を見た瞬間、ただひたすら悲しみの涙だったものが、一瞬あったかい涙に変わりました。

とてもとても穏やかなお顔でした。うっすらと微笑んでおられるようなお顔でした。最後の最後までみんなに愛情を注いで、「もう泣くな。気にしなくていいから。」そう言って下さっているかのようでした。

式の帰り、友人たちと語らいました。
そのとき、また、底知れない恩師の愛情を知らされました。

何度も病室に足を運んだ友人に、色々な思い出話などをなさりながら、何度も私のことを話題に出してくださっていたそうです。そして、一番こたえたのはこんな言葉でした。

「結婚はしてもせんでもどっちでもええ。誰か側におって、あいつの話を聞いてくれるヤツがおったらええんやけどなぁ。」

ずっとまともにご連絡もしていなかったのに、恩師は全てお見通しでした。もちろん、結婚していないことはご存知でしたが、「早くいい相手が見つかればいいのにな」ではなく、私の性格何もかも全てをお見通しのその言葉に、本当に計り知れない先生の偉大さと愛情を感じました。

卒業して20年もの月日が経って、子ども達からは「おばさん」と呼ばれても文句も言えない年齢になっていながら、私は変わらずに先生の「手の焼ける教え子」だったのだということが、情けない反面、とてもとても嬉しく、心が温かくなるのをしみじみと感じました。
(あと少しつづきます。)

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2005年12月23日 (金)

幸せな贈り物

明日はクリスマスイヴ。
例によって私には仕事以外の予定はありません。

特に今年はクリスマスが近づいていることさえ殆ど意識せぬまま、気づけば年の瀬になっていたという感じです。

今日は祝日ですが、もう子ども達は冬休みなのでレッスンをすることになっていました。
都合が悪ければ冬休みの間の別の日に振り替えも可能としていたため、今日のレッスンはひとつだけになりました。

可愛い1年生の女の子とお母さん。お母さんの手には小さな紙袋。

「今日○○(彼女のお名前)がパンを作ってきて、先生にあげたいというので。ひとつだけなんですけど、どうぞ。」

そう言って、紙袋を差し出されました。
お礼を言って受け取ると、お母さんは一旦帰られました。

彼女にもう一度お礼を言いながら、「見てもいい?」と尋ね、中を見ると、それはそれは可愛い姿のパンが。

「こんなに可愛いの、もらっていいの?」

そう尋ねた私に彼女が言いました。

「もうひとつあるからいいの。」

感激しました。
たった2つしかないパンなのです。自分が一所懸命作ったたった2つのパンのひとつを私に持ってきてくれたのです。

もう一度お礼を言って、レッスンを始めました。

レッスンの終わり、今日は初めてお父さんがお迎えにいらっしゃいました。帰る仕度をしている彼女を待ちながら、お父さんにパンを頂いた話をしました。

「2つしかないのに、ひとつ持ってきてくれたんですよ。」

そう言って、もう一度彼女に

「いいの?私がもらったら、パパやママの分もないんでしょ?」

そう尋ねると、

「いいの。ちょっとずつ食べるから。」

そう言ってくれました。
本当に本当に幸せな気持ちになりました。

ちょっともったいないですが(笑)、彼女が届けてくれた素敵な贈り物を公開します。とっても可愛いでしょ?

present

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2005年12月22日 (木)

何よりほしいもの

自信なんてものは努力の上にしか成り立たないのでしょうし、そうでなくて持てるのはきっと「過信」や「慢心」でしかないのでしょう。

私は自分に自信が持てない。
それはただ単に、自分がまだまだ経験不足、努力不足ということなのです。それはよくよくわかっているのです。
だけど、もしできることなら、今すぐ5年ぐらい経って、それだけの経験と実績を手に入れられたら。。。そんなことを思ったりします。

昨日、可愛い男の子が体験に来てくれました。
とても愛くるしくて、とても賢い素敵なお子さんでした。
お母様も素敵な方で、お子さんへの教育に関して大変真剣にお考えなのがひしひしと伝わってきました。

現在年中さんの彼は、私がもっとも危険視している「機械的反復学習」の教室に通っているとのこと。お母さんご自身も色々なお話を聞かれ、何がいいのか何が悪いのか、正直判断がつかないご様子でした。

私の今お話できる限りのことをお話しました。
ただ、この話題になるといつも困るのです。

一般に人は強く否定されればされるほど、どこかで「いや、そんなことはないのでは?」という気持ちを持ってしまうような気がするのです。

おまけに、その教室ではその指導の「素晴らしい点」をきっとお聞きになっているはずですし、私の立場は言ってみれば「同業他社」な訳ですから、相手を批判するのは自分のところに誘いたいからと取られることもあるはずです。

更に、私自身、幼児教育を学び始めてからはまだ僅か3年足らずで、機械的反復の危険性を実感し始めてからまだまだ日が浅いのです。

ですから、伊藤先生や糸山先生、こだま先生のような素晴らしい先生方のように断言するだけの実績も経験もまだ殆どありません。

だから、どうしても強く言い切ることができないのです。

もちろん、思いを込めて、少しでも伝わるよう精一杯言葉を選んでお話したつもりです。

けれど、昨日の段階では「その教室は今すぐ辞めます」とまでは思って頂くことはできなかったと思います。
お家でゆっくり考えて頂くことにして、伊藤先生のご本をお渡ししました。

もし一緒にレッスンさせて頂けることになったとしても、あちらを辞めてくださらない限り、効果は殆どあがらないと思います。
それどころか、今日1時間ほど見せて頂いた限り、素晴らしい能力を持っている可愛い彼がその芽を摘まれてしまうかもしれないのです。
だから本当にもどかしいのです。

心から自信を持って、絶対にダメなのだと断言できる経験と実績。
それが今私が何よりほしいものです。

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2005年12月21日 (水)

出会いと転機(13)

「先生が亡くなられました。」

私はどうしたらいいのかわからなくなりました。
お見舞いに行けなかった。
その上、最悪のタイミングで先生宛のお便りが届いたはず。
先生にもご家族にも、決して償いきれない後悔が私を襲いました。

ぼろぼろ涙がこぼれました。どうしていいのか本当にわかりませんでした。それでもあと少しで子ども達がやってくる。子ども達には変わらない姿でいなければ。。。とにかく必死でそれだけを考えました。

過去、少々辛いことがあろうが、子ども達にバレたことはありませんでした。若い頃、失恋して泣きはらした目を翌日子どもに指摘されても
「寝る前に水飲み過ぎたら、起きたらこんなんなっててん。すごくない?」
そんな風に笑えました。

だけど、その日だけはダメでした。平静を装って授業を始めたものの、いつもと違う私の様子に気づいた中学生が「先生、どないしたん?」そう尋ねました。多分、目も真っ赤だったと思います。

「お世話になった先生が亡くなったん。」

そう口にした途端、子ども達の前、授業中にも関わらず、ぽろぽろと涙がこぼれました。そんな私を見て、やんちゃな中3の子が言いました。

「俺ら、ガッコの先生が死んだって泣かへんやんなぁ?」

周りの子達はみんな頷いていました。
そっか、今の子達はそうなんだな。あんなに熱い先生は今の学校にはいないんだな。。。そんなことを思いながら、改めて恩師に感謝し、今の子達は可哀想だなと思いました。

仕事の都合上、お通夜に行かせて頂くことは叶わず、その翌日の葬儀に参列させて頂きました。ずっと泣きっぱなしで、私の中には後悔以外の何もありませんでした。
葬儀が執り行われる会館に着くと、そこには既にかなりの数の参列者が集まられ、まだ続々と集い続けていました。

同級生達とお互い悲しみの表情のまま「久しぶり」と挨拶を交わし、式の開始を待ちました。
その会場には溢れんばかりの制服姿の子ども達がいました。お通夜にも参列した友人の話では、お通夜にも大勢の子ども達が来ていたとのこと。子ども達は制服もバラバラで、髪が茶色かったり、ルーズソックスをはいていたり、所謂「今時の女子高生」が沢山でした。

恩師は亡くなられるまでずっと、市内の公立中学の先生でした。だから、彼女達は皆、どこかから連絡を受け、それぞれに自分達の意志でここに集ったに違いありません。
その「今時の子達」もみんな、人目をはばかることなく泣いていました。

そっか、時代が変わったんじゃないんだ。先生の熱い思いはずっと変わらずに、子ども達の心に届いていたんだ。。。

私もずっと泣き通しで、友人に支えられながらも、そんなことを思っていました
(つづきます。)

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2005年12月20日 (火)

出会いと転機(12)

夏が始まる頃、友人から突然連絡が入りました。
恩師が入院して闘病しているという連絡。主婦で、多少時間の融通がきくからと、友人はすぐにお見舞いに行き、また連絡をくれました。

結構お元気そうだった。みんなに会いたがっていた。そんなお知らせだったような気がします。

その頃の私は専任講師というよりは、実質的に実務のほぼ全てを任され、もちろん授業も担当し、とにかく慌しくしていました。
お元気だったんなら大丈夫だ。先生は絶対お元気になられるはず。
そう思い、お見舞いに行く日を1日、また1日と延ばしていました。

その間、友人は何度か病院に足を運び、その度色々なことを聞かせてくれました。私だけでなく、特に会社員の男子達は平日の面会時間にはなかなか時間を取ることが難しかったようで、

「みんなお見舞いに来たいって言ってるんですけど忙しいみたいで。」

そう言った友人に、恩師は笑いながら、仕事が忙しいのはいいことだ、お見舞いなんて来なくていい、そう言ってくださったそうです。

行かなきゃ、行かなきゃ。そう思いながらもどんどんと時が流れていきました。
そして、また友人から連絡がありました。

「一般の人は面会謝絶になった。」

私はひどく後悔しました。
心から恩師だと思っている方なのに、忙しさを理由にお見舞いに行かなかった。本当に時間がなかった訳じゃない。行く気がなかったんだ。

ひとつだけ言い訳をするなら、恩師は私がまだこんなに中途半端なまんまで先に逝ってしまわれることは絶対ないと思ってもいました。絶対また元気になってくださるはずだと。

その連絡をもらった日の晩、大急ぎで先生宛にお便りを書きました。翌日投函し、今日は先生のもとに手紙が届くはずの日、出勤してから携帯を見ると友人からの留守番メッセージが。

(つづきます。)

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2005年12月19日 (月)

出会いと転機(11)

やりたいことをやると決めてからは、それまで転職活動で上手くいかなかったことが嘘のように、強運が続きました。

履歴書を登録したらすぐに個別指導の塾から連絡があり、週に3回仕事ができることになりました。

その合間でできることを探していたところ、日中にできる教育関係のアルバイトの求人が見つかり、応募しました。しかし、たった5人ほどのアルバイト採用にも関わらず、会場には100人を超える女性が集まっていました。
確かに時間帯も仕事内容も、少し子育てに余裕ができた主婦の方にはもってこいの条件で、こりゃ無理かもと思い、終わったら退出しても構わないと言われていたため、ペーパーテストを記入し終え、会場を一番に退出しました。

もうダメだったんだろうと思っていたところ、後日会社から電話があり、土曜日に入れるかを確認されました。多分、それが無理だったら私は採用にならなかったに違いありません。
結局、大丈夫ですと答えた時点で採用が決まりました。

そして、個別指導塾で数ヶ月が過ぎた頃、私のいた教室は順調だったものの、経営者の別の教室がうまくいかなくなったという理由で、担当していた授業のいくつかを経営者に譲ることになり、新たな仕事を探さねばと思っていました。
ちょうどそのとき、空いている曜日の空いている時間帯に、小中学生の数学と国語の講師募集の記事を見つけたのです。

これは絶対自分のための求人だ。そう思えるほど希望通りの条件に迷わず応募。それが一番長く勤めることになった個人塾でした。

それからいくつかの変化があり、やがて個人塾に専任講師として勤めることになりました。
ここでは本当に色々な経験をさせてもらいました。多少のストレスを感じながらも、可愛い子ども達と過ごせることは間違いなく幸せなことで、気づけば会社を辞めて6年目になっていました。

恩師とは年賀状のやり取りだけになっていました。
それでも私の中で恩師はいつでも大きな存在でした。いつか相談に乗って頂こう。そう思うことが色々ありながら、日々の忙しさにかまけてそのままになっていました。

年賀状にはいつもひと言だけ添えられている先生の言葉。その年の年賀状には

「去年は入院生活を経験しました。」

そう過去形で書かれていました。
そっか、先生何かご病気だったんだな。でも、もうよくなられたんだな。それを読んでそう思いました。そして、そのまま数ヶ月が過ぎていきました。
(つづきます。)

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2005年12月18日 (日)

昔の遊び

このところ、以前にも増して色々なことを考えています。
その中でふと気になったのが「昔の遊び」。

昔といっても、自分が子どもだった頃にやっていたことですから、本当の意味で「昔」なのかどうかはわかりません。

私が子どもの頃には当然、テレビゲームなどというものはなく、遊びといえば外遊びか家の中で家族と一緒に遊ぶ。そんなものが主流だったように思います。

まだ幼い頃には外では、3歳年上の兄や近所の友達に混じって、ビー玉やメンコをしたり、空き地で虫を探したり、泥遊びをしたり、そんなことをしていました。

家の中では、ブロックや積み木で遊んだり、母に教わっておはじきやお手玉をしたり、けん玉をしたり、塗り絵をしたり、カルタ取りをしたり。。。そんなことが遊びの全てでした。

少し大きくなってからは表の道にチョークやローセキ(と呼んでいた気がする)で、「かかし」や「けんけんぱー」、陣取りなどを描いて遊んだり、家では少し難しいプラモデルや、オセロやダイヤモンドゲームのようなボードゲームなどをしていました。もちろんトランプもやりました。

周りの子達も恐らく似たような遊びをしていたと思います。

今思えば、それらは全て「頭」にも「心」にもよい遊びだったのです。
小さいうちからしっかり指先を使えるようになることは、賢くなるためには不可欠です。

昔の遊びの全てには自分自身で工夫したり、練習したりしなくては楽しくないものが沢山ありました。

ほとんど全て安価なものです。今なら、おはじきもけん玉も、それこそ100均に行けば手に入るほどです。

道にチョークで描いて遊ぶというのは難しい時代かもしれません。裏の空き地もなかなかない時代だと思います。
それでも、家の中での遊びなら、いくらでも昔に帰れるのではないでしょうか?

最初に何があるか。家に当たり前のようにお手玉やおはじきがある。けん玉がある。親がやってみせる。そうすれば、子どもにはそれが当たり前になる。

もちろん、いずれは他のお友達のおうちなんかでゲームの存在を知るかもしれません。けれど、自分で工夫する遊びを知っている子は、ゲームにのめり込むことはあまり心配しなくていいのではないかと思います。少なくとも、工夫する遊びを知っている子がゲームだけをやり続けるようにはなりにくいと思うのです。

それに、仮にお友達のところでやったって、お子さんが小さいうちは確固たる信念を持って家にはゲーム機は置かないと決められるのもいいと思います。

私が小学生の頃、同級生の中に、家にテレビがないという子がいました。情報はラジオで得るのだと。

子供心に、その子のことを可哀想だなと思っていましたし、テレビも買えないおうちなのかなと思ったりもしていました。けれど、そうではなかったのだと思います。私が知る限り、その子のおうちがテレビも買えないような切り詰めた生活をしているとは思えませんでしたし、彼の話ではお父さんがそう決めていると言っていたように思います。

今になって、そのお父さんの信念は素晴らしいなと思います。幼い頃にはテレビは見せない方がいいと、最近でこそ結構知られるようになってきましたが、そのお父さんは時代を遥かに先取りして、子ども達にテレビを見せない生活を選んでおられたのでしょう。

幼い頃から家にテレビがなければ、子どもにとってはそれが基準になるはずです。

であれば、子どもにとっての「遊び」は自ら工夫してするものだという価値観を最初に育めば、後はそれがその子の基準になるはずです。

幼いお子さんをお持ちのおうちの方、一度遊びを見直してみられませんか?

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2005年12月17日 (土)

出会いと転機(10)

そこから私は変わりました。
挑戦する前から諦めていたこと、だけど、ずっと自分の夢だったこと、それをやってみよう。もし1年やって全くダメだったとしても、まだどうにか20代。そこから再就職の道も見つけられるかもしれない。

色んな意味でギリギリのタイミングだったかもしれません。あの頃はまだ転職組でも女性は30歳というのがひとつの壁になっていました。もし、あのとき既に私が30を目前としていて、初対面の社長にあの言葉をもらっても、きっと決心はつかなかったのではないかと思います。

とにかく1年。そう決めて、自分のやりたいことを始めました。

まず探したのは「ものづくり」できる場所。
ずっと以前から私は何かつくる人になりたかった。職人に憧れていた。だけど、平凡な才能しかなく、それだけで食べていくのはきっと無理だと、やる前から決めてどこかで逃げていました。

そして、ものをつくるのと同じぐらい大きな夢は「子ども達と共に学ぶ」ことで、その両方をやることを選びました。

ものをつくるというのは、彫金教室に通うことから。子ども達と共に学ぶことは、たまたま見つけた個別指導塾の求人で講師のアルバイトから。そんなスタートを切りました。

既にひとり暮らしをしていた私の収入は激減しました。
転職先を探していたときは、以前の会社でもらっていたお給料は最低ラインで、そうでなければ生活できないと思っていましたが、会社を辞めてからの1年。私の年収は失業保険を合わせても100万ほどしかありませんでした。

将来の不安がなかったと言えば嘘になります。
ただ、大きな発見がありました。

会社員時代ずっと、お給料を頂くのは大変なこと。だから、嫌なことも我慢しなくてはいけないのだ。そう言い聞かせていました。好きなことをやって暮らせるはずなんてないのだと。

そして、そのとき得ていた収入でも自分では全く贅沢をしていた訳ではありませんでしたから、それ以下の収入ではとてもじゃないけれど暮らせない。そんな切り詰めた生活ではストレスが溜まるに違いない。そう思っていました。

けれど、それはどちらも思い込みだったことに気づきました。本当に大きな発見でした。

好きなことをしていれば、少々収入が減ったって、好きだった服が買えなくなったって、殆どストレスはありませんでした。ずっとおかしかった体調も気づけば全て治っていました。

そして、やりたかったことをして過ごす日々は、この上ない幸せを感じさせてくれました。

その後、個別指導のアルバイトを始め、それだけでは当然生活できるはずもなく、お昼間にできる某教育系出版社のFAX回答サービスのアルバイトを掛け持ちで始めました。
(つづきます。)

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2005年12月16日 (金)

出会いと転機(9)

実は気が小さい私は、それから気になる会社にいくつも履歴書を送り、面接を受けました。
ただ、「この仕事がしたい。」「ここで働きたい。」と強く思える会社はなかなかありませんでした。

中途半端に新しい会社を決めるのであれば、何のために元の会社を辞めたのかわからない。そう思うと、妥協はできない。だけど、無職の状態でひと月が過ぎようとする頃から、私は焦りと不安で押し潰されそうになっていきました。

そんなある日。とある建築関係の企業が乳幼児の英語教育教室をライセンス展開するための立ち上げスタッフという求人を見つけました。

英語は昔から苦手。だけど、教育関係の仕事には興味がある。ダメもとで履歴書を送りました。そして、面接を受けられることになりました。

子会社として新しく設立された会社で、社員はまだ殆どおらず、会社自体はまだ機能していない段階。いきなり社長自らが面接をされました。

試験ではいきなり、仕事上絶対に読む必要のある英文のレターが渡され、その和訳をさせられることになりました。また、0歳児から受け入れるという話も伺い、私の能力では無理だし、また、私がしたいことでもないとすぐにわかりました。

と同時に、社長にとっても私が必要な人材ではないことは恐らく3分もせずにわかったはずでした。にも関わらず、その社長は私のために1時間近い時間を割いて下さいました。

今ではもうお名前すら覚えていないこの社長との1時間は、正に神の声とでも言いましょうか、大きな大きな転機を私に与えたのです。

退職した経緯や自分のしたい仕事などについて色々聞いてくださった後、社長が言いました。

「なんでやってみる前から無理だって決めてるの?まだ若いんだから失敗したっていいじゃない、やりたいことやってみたら。」

頭を殴られたような衝撃がありました。
と同時に、その言葉はすんなりと私の中に入ってきました。

その結果、私が辿り着いた答えは

「人生一度きり。やりたいことをやってみよう。」

というものでした。

震災を経験し、いざとなったときの人間の強さを知りました。
だったら、失敗してもきっとなんとかなる。やるのは今しかない。

初対面の方のたったひと言が迷って決められずにいた私を大きく後押ししてくれたのです。
(つづきます。)

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2005年12月15日 (木)

子どもは本当にすばらしい

恐らく、塾でお仕事をされている先生方の殆どが自分の塾に来ている子達のことを心から可愛いと思っておられると思います。
もちろん私もこの仕事に関わるようになってからずっとそうでした。どんなにできない子でも、やんちゃな子でも、みんな本当に可愛かった。

けれど、自分で教室で今の指導法での指導を始めてから、可愛い上に素晴らしい子達を何人も見られるようになりました。
3年生の子達のお話は先日しましたが、同じ時期に入ってくれた現在4年生と6年生の男の子がいます。

6年生の男の子は、来てくれたときが既に4年生。脳の発達の面から言えば既に少し遅いスタートでした。正直なところ、算数はできる方とは言えないぐらいの状態。周囲の低学年の子達の伸びがあまりにも目覚しく、自分の中でも(やっぱり高学年になってからじゃなかなか伸びないなぁ。。)と今ひとつ成果が出してあげられないことをもどかしく感じてきました。

しかし、2年数ヶ月を経た今、恐らく彼は学校のクラスの中では算数はできる方から数えた方が早いはずです。時々、今日は1番に終わったとか、誰もわからなかったけど自分だけ答えられたという報告をしてくれます。

高学年でも希望がない限り週1回1時間だけのレッスンです。教科書に沿ったワークと平行して、算数パズルのようなものもやっています。その内容で週たった1時間なのに、彼は未だにずっと学校より先の内容を学習し続けることができています。

他の低学年の子たちと比較しすぎて気づかなかったけれど、恐らく彼も十分に力をつけて伸びているのですね。

そして、もうひとりの4年生がまた素晴らしい。今週のレッスンでもまた感心しきりでした。
所謂「分配法則」や「結合法則」の考え方を使うような計算の工夫や、四則混合の式の1ヶ所が□(空欄)になっていて、そこの値を求める複雑な問題も、やり方を覚えているのではなく、その計算をしたらもとの数より大きくなるとか小さくなるとか、大体このぐらいになるはずだとか、そういうイメージが確実にできるため、一見4年生にはかなり難しいであろう問題にも躊躇わずに取り組み、答えを出してしまうのです。

「68×14+14×32」のように、わざと少し順序を入れ替えたような式でも、彼はちゃんと「14が68+32で、100個」という把握ができます。
また、「37×105」のような式があり、工夫して解きなさいとなっていたのですが、もともとそういう掛け算でも筆算を書くことが殆どない彼は、問題集の余白に「3700」と「185」を書いていました。もちろん、37に100かけた答えと5をかけた答えで、それはどちらも暗算です。
要するに、彼にとってそれは「工夫」ではなく当たり前の作業ということです。

この彼はもちろん、どんぐり(糸山先生)の文章題にも抵抗なく取り組み、どんどん解いていきます。わからなければ絵を描くし、彼の場合は既に絵を描かずして解ける問題も沢山あるようです。頭の中にイメージがしっかり浮かんでいることの証拠だと思っています。

彼らは私に本当に沢山の新しい発見と感動をくれます。
これまでの経験で勝手に持っている先入観や固定観念を見事にどんどん覆してくれます。
彼らと共に、私ももっともっと成長していきたい。心からそう思っています。

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2005年12月14日 (水)

出会いと転機(8)

仕事がいやだからとか、人間関係に我慢できないからとか、そういう理由での退職だけはしたくない。そう決めて仕事を続け、その頃までには恐らく何百回も会社を辞めたいと思ったような気がしますが、6年目を迎えた頃には、仕事への不満も人間関係のストレスも、殆ど感じることはなくなっていました。

そして、震災に遭いました。
間違いなくこれもひとつの大きな「出会いと転機」をもたらしました。

私自身、揺れが収まった部屋でかすり傷ひとつない自分にまたひとつの奇跡を感じました。自分の上に落ちてきたものの順番がひとつでも違えば、少なくとも大怪我は免れなかったという部屋の状態でした。

震災で色んな人の本質が見えました。
普段意識していなかった人の心の温かさ。逆に、普段はいい顔していた人の心の冷たさ。
そんなものに沢山触れました。

震災後、生活がある程度落ち着くまで会社で仕事を続けていました。
ストレスもなく、待遇への不満もなく、ただ、とうとう会社でやりたいことが見つけられなくなっていました。どう探しても目標が設定できなくなってしまったのです。

親会社から天下りでやってくる社長は、入社後既に3人目になっていました。
ただ、親会社は国内有数の総合商社だったため、その企業からの天下りというのは、正直なところ頭はよくても現場には合わない印象がありました。

しかし、3人目の社長は違いました。本社社長の秘蔵っ子とも言われていた社長は、大変な切れ者で、人の心も大事にする尊敬できる方でした。
この社長がいるなら、もう少し頑張ってみようかなと思ったりもして、退職願を出す前に相談させて頂いたのです。

社長の口から出た言葉は次のようなものでした。

「君のためを思ったら、辞めて他で頑張った方がいい。」

やっと巡り合った尊敬すべき社長。とても可愛がってくださった社長。
その方にそう言われ、私の気持ちは固まりました。

ただその後、次に何がしたいのか明確なビジョンのないまま、社内的な事情を考慮して、あろうことか次の仕事を決めずに退職することになりました。
(つづきます。)

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2005年12月13日 (火)

出会いと転機(7)

予想もしない言葉でした。正直言って途方に暮れそうになりました。

これまで先生と一緒に働けるのを夢見て、迷うことなく教師の道を目指して進んできました。教育実習も終え、いずれは教師になるんだと思い続けてきました。

けれど、先生の言葉は重かった。
私の性格を誰よりもよくわかっていてくださったかもしれない先生。
ずっと私が教師になる日を楽しみにしてくださっていた先生。
その先生が口にした言葉は、決して軽い気持ちで発せられたのではないことはわかりました。私の性格をご存知だからこそ、こいつは学校という組織に入らない方がいい。そう思ってくださったに違いないのです。

もともと私は在学中に教員採用試験を受けるつもりはありませんでした。
私にその目標をくれた先生は短い間ながらも一般企業に勤め、その後教師になられた方でした。子供ながらに他の先生とは何か違うものを感じていました。

だからこそ私もまずは社会に出てみようと決めていました。
自分が社会を知らないのに、子供たちに向かって「社会に出たらね。。。」なんて語れるはずがない。そう思っていたのです。

それから教員採用試験を受けて、いつか先生と同じ場所で仕事をするんだ。
私の中に迷いはありませんでした。

なのに、この日の先生の言葉で、私はどうすればいいのかわからなくなりました。迷いなく進んできた道。このまま歩み続けるつもりだった道。それは私が進みべき道ではないのだと、私にその夢をくれた先生が言ったのです。

もともと、まずは3年という期限を決め、3年の間に少しでも色々な経験をさせてくれるところにということで、一応はバブルの名残もあった売り手市場と言われた頃に、友人たちや教授などには「どこ?それ?」と言われるような規模の会社への就職を決めていました。

その選択は変えるつもりはありませんでしたから、社会に出て色々な経験をしながら、もう一度自分の道を見つめ直してみよう、そう気持ちを整理しました。

その後、無事大学を卒業し、一般企業での仕事が始まりました。望んだ道とは言え、想像を遥かに超える経験を沢山しました。いくら自分がきちんと仕事をしても、何かトラブルが生じれば、客先に頭を下げなければならない。理不尽なことも沢山ありました。体を壊しかけたこともありましたし、数え切れないぐらい辞めようと思ったこともありました。

ただ、そんな経験を積む中で、距離を置いて学校という組織を見つめたとき、私の目指すものは学校では実現できないと思うようになっていきました。

自分の能力では一度に40人もの子供に満足いく指導などできるはずはないとも思いましたし、それがわかっていながらその立場に身を置いたら、きっと私は自分の力不足をイヤというほど感じて、ストレスを感じ、子供たちに真っ直ぐに向き合い続けることができなくなるような気がしたのです。

結局、色んなことを考えながら、会社員生活は6年目を迎えていました。
(つづきます。)

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2005年12月12日 (月)

出会いと転機(6)

そんなことがあって少しずつ私の中で先生への気持ちが変化していきました。
失礼なことを口にするのは相変わらずでしたし、「可愛くない女」という言葉を一番最初に私にぶつけた人である先生を私は一生忘れないでしょう。
それでも私は先生のことが大好きになっていきました。

その年の年賀状にも、いつもの台詞が書かれていました。

「今年も俺のクラスやからな。」

3年でも先生のクラスになれるんだ。それは既に嬉しいことに変わっていました。
けれど、蓋を開けると私は先生のクラスにはいませんでした。

直接の担任だったのは中2の、その1年間だけ。授業を持って頂いたのも中3までの2年間に過ぎませんでした。
ですが、中3になる頃には私の中で将来の夢が固まり始めていました。

「中学校の先生になって子供たちと感動を分かち合いたい。」

それが私の抱いた夢でした。
私自身が先生からもらった数々の思い出を、いつの日か私も子供たちと分かち合いたい。そう思うようになりました。

高校に進学し、教育学部を目指すことを伝えたとき、先生はとても喜んでくれました。それ以来、「お前と一緒に仕事できるのを楽しみにしてる」といつも励まして下さいました。

その後、一番相談に乗っていただきたかった時期に先生はコロンビアの日本人学校にご家族と共に行ってしまわれました。そして私は教育学部で学び始めました。

4回生になった夏の頃。友人から先生が戻ってこられたらしいと聞いていました。ご連絡をしようと思っていたある日、就職活動でスーツを着て電車に乗っていると、その車両にはどうやら野球部らしい中学生達が乗っていました。すると、聞き覚えのある声が。

振り向くとそこに先生が以前と全く変わらないお姿で子どもたちと話しておられました。

「先生!」

周りの子達のことも忘れ、思わず声をかけた私をほんの一瞬誰だ?という風に戸惑った後「おぉ、〇〇か~~!久しぶりやなぁ。」
と言ってくださいました。だけど、なぜだか先生は少し照れておられるようで、なんでかな?変なの。。。と思いながらも、最寄り駅に着き、またご連絡させて頂きますと言ってお別れしました。

私の中では永遠に先生はあのときのままの先生で、私は先生の生徒なのですが、数年ぶりに会い、スーツ姿で多少のお化粧もした私は、きっと先生の目にこれまでと違った印象を与えたのでしょう。

それから少し経った頃、進路についてのお話もしたかったので、ご連絡をして会って頂けることになりました。先生と2人でビールを飲みながら、先生のコロンビアでのお話を伺ったり、私のこれまでの学校生活の話をしたりしました。

そのとき先生がおっしゃいました。

「お前は先生にはならん方がええかもしれん。学校も段々住みにくくなってるからなぁ。」

(つづきます。)

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2005年12月11日 (日)

出会いと転機(5)

表面的には普通に接することができるようになっていったものの、その後も小さな事件はいくつも起こりました。

ある日の授業中、脚を組んでいた私を見て、先生はその態度をたしなめるつもりだったのかもしれません。でも、先生の口から出た言葉は予想もつかないものでした。

「お、お前脚組むんか?!脚組む女は経験済みらしいなぁ。」

まだ純情で純粋だった私。全く予想の範囲を超えた言葉。数学の授業中、みんなの前でかけられた言葉。
気づけばぼろぼろと涙がこぼれていました。それはそれで先生が予想外。おろおろする先生をクラスのみんなは責め立てました。

また、あるときには部活での問題を同じ学年の部員が集まって話し合っているところに、顧問でもない先生が割り込んできて、よく事情もわかっていないくせにあれこれ言うことに腹を立て、売り言葉に買い言葉で部活の副部長を辞めたなんてこともありました。

とにかくちっちゃな衝突は何度となくあったと思います。そして、私はずっと先生が好きになれないままでした。

それをわかっていながら、先生は何度も私に言いました。

「〇〇、お前、来年も俺のクラスやからな。」

その言葉を聞くたび、とても気が重くなっていたのを思い出します。

一体何がきっかけだったのか、今でもどうしても思い出せないのですが、その後先生との関係は劇的に改善されます。
もしかすると、先生の熱い思いにようやく気づいたからだったかもしれません。

先生はいつでも一所懸命でした。全身全霊をかけて私たちと向き合ってくださっていたように思うのです。

その年の宿泊訓練の直前に、学年で喫煙者が見つかりました。
その頃、私たちの学年は今であれば絶対問題になっているであろうほどすごいレベルの厳しさで管理されていました。抜き打ちの持ち物検査は日常茶飯事。徹底して締められていたにも関わらず、複数人の喫煙者が見つかったことで、宿泊訓練は文字通り「訓練」と化し、予定されていた楽しい行事は全て中止。期間中は延々と班単位、クラス単位、学年単位での反省会が重ねられました。

最終日、連日の反省する姿を見て、先生方もようやく少し笑顔を見せてくれるようになっていたとき、また問題が起こりました。

よりによってうちのクラスの男子が数人、夜に女子の部屋に入り込み、また、見回りに来たときにその部屋の女子達もそれを隠してごまかしたということが発覚しました。

帰りのバスはうちのクラスだけお通夜のようでした。他のクラスはしっかり反省もしたしということで楽しく帰っているにも関わらず、うちのバスだけは私語もできる雰囲気ではなく、ずっと泣いている子達もいました。

学校に着いた後、うちのクラスだけは全員が残され、激怒した先生がルールを破った男子達をものすごい勢いで殴りました。殴られた男子は床に倒れこみました。先生がそんな風に人を殴る姿を初めて見ました。悲しい悲しい顔でした。

そして先生は「こんなもの嘘や!!」そう言って、貼ってあったクラス目標の紙をバリバリと破り捨て、そのまま教室を出て行ってしまいました。

先生のただならぬ雰囲気に、とにかく謝るしかないと先生を追いかけるために友人と2人で教室を出たときに目に飛び込んできたのは、側の階段にしゃがみこみ、肩を震わせる先生の背中でした。

男子達を殴ったときのあんなに悲しそうな先生の顔を見たことがありません。そして、近寄ることさえ許さないほど悲しみに満ちた背中も。。。
(つづきます。)

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2005年12月10日 (土)

やり切れぬ思い

きっと今日は多くの塾長先生、塾講師の方たちが何らかの形でこのことを取り上げるでしょう。

私達塾講師にとっては恐らく、一般の大人よりもっともっと心が痛むニュースだったに違いありません。

亡くなった女の子はもちろん絶対的な被害者で、まさか「先生」がそんなことをするなんて夢にも思っていなかったでしょうに、本当に本当に言葉もありません。

そして、その出来事を知ってしまったであろう、その塾の子ども達の心を思うと、こちらも何も言葉が見つかりません。

中学受験のクラスだったのであれば、こんな時期にそんなことが起きて、子ども達は一体どうなってしまうのだろうと、そのことはとても気にかかります。

この事件の加害者は間違いなく逮捕された塾講師です。それは間違いありません。
そしてきっと、前科があった講師を採用していた塾に対する批判なども出てくるのでしょう。

ただ、大手などはわかりませんが、普通、提出された履歴書に虚偽がないかを調べるということはそうそうなされないのではないかと思います。きっと、加害者の履歴書には前科のことなど書かれていなかったに違いありませんし、学生講師の採用に、前科のあるなしまでチェックする意識など、恐らくどの塾も持ち合わせていない(少なくともこれまでは持ち合わせていなかった)のではないかと思います。

それに、窃盗や傷害の前科があったとしても、その背景にある事情までを図り知ることなどはできないでしょう。

まずお断りしておきますが、今回の事件、亡くなられた彼女のことは本当に本当に悔やまれてなりません。間違いなくあってはならない事件だったと思いますし、そんなことをしてしまった加害者をかばうつもりもありません。それをお断りした上で、誤解を恐れずに敢えて書かせて頂こうと思います。

突き詰めれば、きっと加害者自身もある種の犠牲者だったのではないかと思うのです。

一般的な感覚では到底理解できないことです。大切な子どもを手にかけるなどということは想像もつきません。ですが、加害者は一部の保護者の話によると、指導熱心だったとのことです。また、関西の有名私立大の学生だったことを見ても、それなりに頭もよかったであろうことは想像できます。

普通であればあり得ないことをやってしまうのは、加害者がこれまで育ってきた環境、社会にもやはり責任があるのではないかと思うのです。

実際、現在大学生の子達であれば、自分達の教え子だという学校や塾の先生方も多いのではないでしょうか。加害者も、きっと間違いなく誰かの「教え子」であり、更に間違いなく、誰かの「子ども」なのです。

私はずっと思っています。最近頻発する少年犯罪にしても、本当に愛情をたっぷり注がれてきた子どもがそんなことをするとは到底思えないのです。それは親が愛情を注いでいるつもりでも、子どもがそう感じていない場合も含めてではありますが。

「夜回り先生」として有名な水谷先生もいつもおっしゃっていますが、子ども達は愛に飢えている。だから、優しくしてくれる人を求めて夜の街に足を踏み入れてしまう。引きこもってしまう。犯罪を犯してしまう。。。

このことに関しては、スピリチュアルカウンセラーの江原氏も同様のことを言っておられ、私もそんな気がしています。

子どもの将来のためにと言って、幼いうちから夜遅くまで勉強をさせる。その結果、有名中学、有名高校、有名大学へと進んでも、人格がきちんと育っていなければ、いずれ社会に出て破綻をきたす可能性はとても高いと思うのです。

もしかすると、今回の加害者もそんなひとりだったのかもしれない。
そんな風にも思うのです。

もちろん、だからと言って許せるわけはありませんし、私が女の子の親だったら、殺したいとさえ思うかもしれません。

ただ、今回のことを「あり得ない事件」として片付けてはいけないと思うのです。大人である私達が、もっともっと真剣に「子育て」や「教育」のあり方、人として本当に大切なものは何か、そんなことをしっかりと考えていかなければならないと思うのです。

「勉強ができないヤツはダメなヤツだ。」
そんなことを平気で小学生達に言って洗脳する中学受験塾もあるそうです。そんな指導を受けて育った子が、人を大切になどできるはずはないと思うのです。
それでも多くの親御さんが、大切であるはずの我が子をそんな塾に託すのです。

もっともっと真剣に考えましょう。
私ももっと勉強します。そして、幸せな子どもを一人でも増やせるよう努力します。
だから、皆さんも一緒に頑張ってください。大切な子ども達の素敵な未来のために。

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2005年12月 9日 (金)

出会いと転機(4)

先日は高校時代の恩師のお話をご紹介しましたが、今日はその続きを。
私の人生を語る上で絶対に欠くことのできない先生のお話です。

先生との出会いは中学2年のときでした。少し記憶が不確かですが、前年に他校から異動してこられ、2年になって担任として私の前に現れました。

最初の印象はとにかく色が黒くて、しょっちゅうタバコを吸っている、あんまり先生っぽくない人だなという程度のものでした。

年度の初め、出席順に席が決められ、ひと月ほどしたらクラスのみんなの意見を聞いて席替えをするからと先生はおっしゃいました。その頃はまだ最初の認識のまま、私にとっては「先生のひとり」でした。

ひと月ほどが経ったある日、先生が突然言いました。

「おう、席替えするぞ。1班、○○、△△。。。」

それは、既に先生によって決められた席順の発表でした。
当然教室はざわめきます。生徒達は口々に

「先生、みんなの意見聞くって言うてたやん。」
「なんで勝手に決めるんですか?」

そんなことを言いました。特に学級委員をしているような子達はかなり抗議し、理由を尋ねました。

しかし、先生は何も説明してくれません。しまいには

「俺が担任や。担任の俺が決めて何が悪い。」

そんなことを言い出す始末。
抗議していた生徒達も一人諦め、また一人諦め、とうとう私は最後の一人になりました。

困ったことに私は、曲がったことが大嫌い。納得いかないことはとことん追求するという厄介な性格。それは子どもの頃から変わりません。
先生が決めた席が嫌だったとかそういうことではなく、そもそもは自分がみんなの意見を聞くと言ったくせに、理由も言わず一方的に決定事項として報告したことに納得がいかず、納得いく説明を求め続けたのです。

けれど、とうとう最後まで先生はたったのひと言も理由を説明はしてくださいませんでした。表向き、反対者は私だけになり、先生が決めた通りに席替えが行われました。

それから私は先生が大嫌いになりました。学級委員をしていたにも関わらず、完全な冷戦状態。その頃、「班ノート」という班単位で交代で書く日記のようなものがあったのですが、その順番が回ってくるたび、私は先生に対して数ページに渡り、抗議をし続けました。

しかし、先生も負けてはいません。赤ペンで同じぐらいのページ数、それに対して意見を書き返してこられるのです。正直なところ、今はもうそれがどんな内容だったのか全く覚えていません。しかし、恐らくひと月近くはそんな状態が続いたように思います。班の子達はいい迷惑ですよね、班ノートで担任と私が喧嘩し続けているのですから。(苦笑)

本当に大嫌いでした。絶対納得いかない!と思っていました。その記憶ははっきりとあるのですが、なぜ和解(?)したのかがどうしても思い出せません。ですが、しばらくして班ノートでの喧嘩も収束し、その後普通に接することができるようになっていきました。
(つづきます。)

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2005年12月 8日 (木)

貴重なアドバイス

今日は、先日参加させて頂いたワークショップの主催者の先生が教室にいらして下さいました。

とてもバリバリご活躍されている先生の目に、私の小さな教室はどう映るのか少し不安でもありました。ただ、心のどこかで、私が目指す理想の姿はあの先生方とは違うんだという思い込み、もしくは言い訳のようなものを持っていたようです。

レッスン中にお見えになったので全くお構いもできず、遥々お運びくださったのに申し訳ないと思いつつ、どうすることもできませんでした。

レッスンが済んで、何か少しでもお役にたつことをお話しなくてはと思ったのですが、まだまだひよっ子の私にはその先生にご提供できるお話もありませんでした。

代わりに、私の方がとても貴重なアドバイスをいくつか頂きました。正直なところ、自分には経営能力はありません。いかにして利益を生むかということを考えるのはとても苦手です。

ですが、今日頂けたアドバイスはそういうものとは少し違っていて、私でもすんなり受け入れられる、その上本当に今まで意識もしていなかったようなことでした。

自分の理想を持ち続けたまま、もっと多くの子どもや親御さんたちと出会う方法はあるのかもしれない。そう思わせてくださった先生に本当に心から感謝しています。

どんなことにも思い込みや先入観を持つと損をするのかもしれないなと改めて感じた一日でした。

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2005年12月 7日 (水)

「思い」の力

多くの方が著書やメディア、ブログ上などでも同様のことを述べておられますが、
「言葉にすること」「意思表示すること」「決意表明すること」
それらには必ず力があると私も感じています。

「言霊」という言葉がありますが、言葉には力があるというのは本当だと思いますし、また、心を込めて発した言葉は必ず相手に何か響く、逆もまた然りというのもその通りだと思っています。

また、言葉にしなくても、自分の中で強く思うことで、思ったことが実現するし、思ったことしか実現しないという考えにも同感です。

そんな風に思うようになったのにはいくつかの出来事があるのですが、これまで、弱気だったり迷ったりしている受験生などに時々話してきたお話を今日はひとつご紹介しようと思います。

強い信念の下、夢を叶えた彼のことは先日ご紹介しましたが、今日は勤めていた塾で最後に送り出した受験生たちのお話。

小さな塾でしたが、その年は中3生が20人ほどいました。中学校で常に学年5番以内という子、上位10%を常にキープしている子、そんな子達から、かなり厳しい成績の子までバラエティーに富んだ学年でした。

上位クラスでも下位クラスでも印象深い、両極の出来事がありました。

上位クラスのある子は、学区の一番手校の受験を希望していました。
彼女は3年になって北陸から転校してきたため社会などの進度が違い、転校前は学年トップクラスを常に維持していたようなのですが、こちらでは思うようにその位置を取ることができませんでした。

感情表現がストレートで、わからないとてきめんに不機嫌な態度になるくせに、しばらくすると必ずわかってニコニコ顔になる可愛い子でしたが、もしかすると「すぐ不機嫌になる」方だけ担任の印象に残ってしまったのか、担任との相性は最悪の状態でした。

進路指導のときにもかなり厳しいことを言われ続けたようです。私が信じられなかったのはその子とお母さんを前に、担任が「お前が受けても絶対落ちる。だから受けさせない。」というようなことを口にしたそうです。

正直なところ、テストの成績や普段の力を見ている限り、合格確率は悪くても五分五分という印象の彼女に「絶対落ちる」とまで言い切った担任は私にはちょっと理解できませんし、それでなくても受験が近づいてきて、ナイーブになっている子供に向かって、そんな無神経な表現は本当に腹が立ちました。

けれど、彼女は強かった。人目も気にせず泣きながらその話を聞かせてくれた彼女はきっぱりと言い切りました。
「絶対受ける!なんて言われても絶対受けて合格してやる!」

志望を変えなかった彼女に担任は最後までひどい態度をとり続けたようです。けれど、彼女には高校進学のその先にまだ目標があったのです、「お医者さんになりたい」という。その夢の実現のためには彼女はどうしても一番手校に行きたかったのです。

彼女は頑張りました。しかし、併願で受けた私立も第1志望のコースより2つ下のコースにしか受かりませんでした。彼女はまたショックを受け、ほんの一瞬くじけそうになりましたが、必死で自分を奮い立たせ、自分の決めた第1志望の公立校を受験しました。

結果は無事合格。

もちろん勉強も頑張りましたが、あの意志の強さがなければきっと叶わなかったのではないかと思っています。

そして、こんなこともありました。

下位クラスで、とにかく自分に自信がなく、常に「俺なんてあかん。」「俺はダメや。」そんなことばかり口にする子がいました。

この子は小さい頃から、悪いことをすると泣くまで徹底的に叱られていたようです。この子のお母さんは明るくて素敵な方なのですが、その育て方には少し問題があったのではないかなと思っています。

母親から認めてもらえないという気持ちを抱いて育った彼は、何をしても自分に自信が持てません。真面目に勉強に取り組んでいましたし、成績は中の上あたりでしたから、彼の力なら志望校にはまず通るだろうと思っていました。

正直なところ、あれだけ真面目にやっている割には伸び悩んでいる感はありました。それでも志望校は実力相応の学校でしたから、周囲もそう心配はしていなかったと思います。

ただ、私がずっと気にして、何度も何度も言ったことは「俺なんてあかん」「どうせ俺なんて」という口癖をやめるようにということでした。
そんなことばっかり言ってたら絶対よくないし、あなたはちゃんとできているのだからと、何度も言い聞かせたのですが、幼い頃から刷り込まれたコンプレックスは、そのぐらいでは消すことができませんでした。

結果、彼は志望校には通えませんでした。

彼に関しては「努力不足」とは思えませんし、持っていた学力が足りなかったわけでもないと思っています。
それはやはり「言葉の力」、「思いの力」が残念な結果をもたらしてしまったのではないかと今でもそう思っています。

いずれ書かせて頂こうと思っていますが、私自身、志望の教育学部に合格できたのは思いの力に他ならないと思っています。

試験が近づいてくると、不安にならない人なんてまずいないでしょう。
そのときに、不安な言葉じゃなく、自信のある言葉を口にする。不安になったら、楽しいことを考える。無理してでもそうすることは、きっとムダにはならないはず。

強く願えば、そして、その願いが自分にとって本当に叶えるべき価値のあるものであるなら、それはきっと叶うのです。

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2005年12月 6日 (火)

嬉しい出来事

先日、津々浦々の塾長先生が集まるとあるワークショップに参加させて頂きました。
ただ、参加させて頂く前からある程度わかっていたものの、やはり錚々たるメンバーがお集まりで、私は完全に場違いでした。

それはわかっていたことだから構わないのですが(主催者の方にはいい迷惑ですが。。。)その会で素晴らしい先生方とお知り合いになりました。

そして、今日そのおひとりがわざわざ関東から私のちっちゃな教室に足を運んでくださいました。

私が心から素晴らしいと思っている指導法とその教材などをご紹介し、その後、少しだけレッスンも見て頂きました。

他塾の先生にレッスンを見て頂くのは初めてのことで、ものすごい指導力や経営力をお持ちの方から見ると、一体どんな風に見えるんだろうなと内心気になっていました。

まあ、そうは言ってもレッスンが始まって目の前に子どもがいれば、もう子どものこと以外殆ど気にならなくなるのですが、先生をお見送りした後、果たしてどんな感想を抱かれたんだろうと思っていました。

私の指導力に関してはもちろんまだまだ未熟なところだらけで、それを指摘されるのは全く構わないものの、私が本当に良くできる、素晴らしい子たちだと感じているこの子たちを見て、どう感じられたのかが気になっていました。

今日の全てのレッスンを終え、ご挨拶のお電話を差し上げたところ、多少の社交辞令もあったかとは思いますが、子ども達のことを絶賛してくださいました。

低学年の子が1時間集中して算数などの問題に取り組むこと、更にその問題のレベルも決して低くないこと、それらを評価してくださいました。

専門家の方(同じお仕事をしている方)に見て頂いて、そんな風に言って頂けたことがとっても嬉しくて、未熟な私に一所懸命ついてきてくれた子どもたちに心から感謝したい気持ちでいっぱいになりました。
正確には私が子どもたちに支えられてここまでこられたんだと思うのですけど。

K先生、本日はわざわざ遠方からはるばるありがとうございました。
今後とも宜しくご指導のほどお願い申し上げます。

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2005年12月 5日 (月)

出会いと転機(3)

そんな調子のまま夏休みを終え、2学期が始まったある日、そのとき解答を写そうとした問題の意味がわかったのです。本当に突然、「あ、こういうこと?」と線が繋がったのです。

すると、思ってもみなかったことに、これまで習ってきた全ての内容が理解できるようになったのです。

そして、気づけばもうひとつの数学も、こちらほどではないものの理解できるようになっていました。更に驚いたことに、他教科全てにもいい影響が出たのです。

その高校の通知簿はなんだか珍しく、5点刻みの20段階、100点満点でつけられ、45点以下が赤点だったと思うのですが、1学期の終わりの数学の成績は両方とも赤点ギリギリの50点。
それが、確か2学期の終わりだったと思いますが、75点、70点ぐらいまで上がり、他教科も含めトータルで確か80点近くアップしたのです。(まあ、それまでが恐ろしく悪かったという話もありますが。。。)

担任が終業式の日にみんなの前で嬉しそうに言ってくださいました。

「このクラスに、1学期から2学期にかけて80点ぐらい通知簿が上がった人がいます。良く頑張りました。」

もちろん、誰のことかはおっしゃいませんでしたが、信じられないことにそれは確かに私でした。

この先生に出会えなければ、きっと数学はずっと苦手なままだったに違いありませんし、無事進級できていたかどうかさえあやしいところです。

また、満点が当然のようなテストにも関わらず、私個人を見てくださって、その私が5点取れたことを心から褒めてくださる先生でなければ、そこまで頑張れなかったとも思います。

この先生との出会いは間違いなく、今の私が存在する大きな大きなきっかけだったと思っています。

小さなことかもしれませんが、恩師にもうひとつ感謝していることがあります。
私は高校に進学したとき、進みたい道が2つありました。ひとつは中学校の教師になること。そして、もうひとつは服飾デザイン関係の仕事に就くこと。

ですから、私の進路希望は大学の教育学部かデザインの専門学校かというものでした。高1の進路希望調査のとき、この学校で専門学校を進路希望の中に挙げることがおかしいという意識が微塵もなかった私は、堂々とそのまま先生に伝えました。

すると、先生は一切バカにすることなく、呆れることもなく、ただ穏やかに「だったら神大の教育学部を目指しなさい」とだけおっしゃいました。

自分でも、免許や資格が必要なのは教員だということはわかっていましたので、だったら教育学部を目指そうと、すんなり思えたのです。

でも、もしあのとき先生が「何を馬鹿なことを言ってるんだ」とか「進学校にいながら、何ふざけたこと言ってるんだ」とか、少しでもそんなことを口にされていたら、もしかすると天邪鬼な私は何が何でもデザインの道に進むんだ!と思っていたかもしれません。

とにかく、本当に感謝して止まない恩師のお一人です。

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出会いと転機(2)

1年の時の担任は、奇しくも数学の先生でした。その頃私がもっとも苦手としていた教科です。

その先生はある日こんな話をしてくださいました。
先生は地図に興味があって、地理を専攻したかったんだけど、目に問題があり、色がきちんと見分けられないため、その道を断念して数学の教師になったのだと。

夢を諦めても、高校の数学の先生になられたのですから、間違いなくとても頭のいい方だったのだと思います。ですが、そんなご経験があったからか、本当に親身に素晴らしいご指導をしてくださいました。

クラスの子の大半は、小テストでは当然満点。悪くても2問中1問は完答。そんな感じでした。その中にあって私は数少ない0点連発の生徒だったのです。

そのくせ、なぜか学級委員などをするハメになり、先生とは何かとお話をする機会もありました。正直なところ、いい加減にやっていて点が取れない訳ではなく、私が真面目にやっているということは先生は感じてくださっていたんだと思います。

用事で職員室に行くと、20点満点のテストでたった5点取っただけの私を「○○さん、今日は頑張ってたね~!」と褒めてくださるのです。決してとってつけた風でもなく、当然嫌みでもなく、笑顔で心からそう言ってくださるのです。

もう、何が何でもこの先生の教科だけはできるようになりたい!
そう思わせてくれました。しかし。。。いかんせん、既に数ヶ月躓きっぱなし、数学は2つに分かれていて両方とも目も当てられない状態。
何からどうすればいいのかもわからぬまま、日々出される大量の宿題の解答解説をひたすら赤ペンで写し、少しでもわかるようになりたいと必死で解説の意味を考える日々がしばらく続きました。

ノート提出があったとき、私のノートは見事に真っ赤っかで、多分ただの1問も自力で解いた問題がなかったのではないかと思います。それを提出した後、担任に呼ばれました。

「○○さん、これは何ですか!?」

確かに全て真っ赤で書かれたノートです。宿題をやったとは言えないのかも知れません。ですが、事実を言うしかない。そう思って、先生に伝えました。

「とにかく全部わかりませんでした。だけど、提出しないといけないし、だからと言ってできないのに答えを黒で丸写しする訳にもいかないのでこうしました。」

先生は「わかりました。」とだけ言って、そのノートを受け取ってくださいました。

それからもしばらくは真っ赤っかのノート提出が続きました。一応は進学校でしたから、1回の試験の範囲がかなりあり、ただひたすら読んで写す作業にもかなりの時間がかかりました。でも、なんとしてもこの数学だけはできるようになりたいと、他の教科を犠牲にしてでもその先生の数学だけは試験範囲の問題の解答解説を全てとにかくしっかり読み、わからないながらも問題と照らし合わせながら、ノートに写す。そんなことをしばらく続けました。

サボっていてできないのではないということを考慮してくださってか、1学期の数学は2つともかろうじてぎりぎり赤点を免れました。ただ、相変わらずわからないまま、チャートや問題集を写す日々が続いていました。
(もう少し続きます。)

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出会いと転機(1)

私の人生で、何度か印象深い出会いがありました。
これまでご紹介したのももちろんその中のひとつではあるのですが、これまでを振り返ってみると、本当に大切なタイミングで必ず素晴らしい出会いを頂いているように思います。

その中でも、今の私を語る上で欠かすことのできない恩師との素晴らしい出会いについて書かせて頂きます。お時間のある方はお付き合いください。

私は多分、学校の先生方との出会いにはとても恵まれていたのではないかと思っています。
未だに幼稚園の頃の先生とも年賀状だけですが交流が続いていますし、お世話になった先生、色んな思い出がある先生、挙げればきりがありません。

ですが、その中でも、あの先生との出会いがなければ私の人生は全く変わっていたかもしれないと思う恩師がお二人おられます。お一人は中学時代の恩師、私が教師を志すきっかけをくださった方です。
そして、もうお一人は高校時代の恩師、教育学部への進学を勧めて下った方。

今日はまず、高校時代の恩師のことをご紹介させて頂きます。

これはいずれ自分のことを振り返って書かせて頂こうと思っていますが、私の両親は躾には厳しかったものの、教育、特に進学に関しては本当に疎く、また、私自身も偏差値だの、どの学校が難しいだの、そんなこと全くわかっていないような子どもでした。

当時の私の内申書から、学校に勧められるままに願書を出し、よくわからぬままに運良く紛れ込むことができたのは学区では一番の進学校でした。

この進路指導についてはまたいずれ書かせて頂くかもしれませんが、セーラー服は着たくなかったのに。。。そんな思いを抱いての入学でした。

さすがに、入学するまでにはその高校が学区一の進学校だということはわかっていましたので、自分は最下位クラスで当然だろうと、成績が悪いことは特に気にも留めていませんでした。

今思えば自分でもなぜだったのかはわからないのですが、高校に入った途端、私は数学で完全に躓きました。後に見直してみると、一番初めは中学でもやった因数分解や解の公式などから始まっていたにも関わらず、小テストはいつも0点。定期テストは追試の常連。そんな有様でした。

テストの点数や順位は別にどうでもよかったのですが、留年するのはさすがに困る。だけど、自分では一所懸命やっているつもりなのにこの状態ではとてもじゃないけど着いていけない。。。入学して2ヶ月近くは毎日のように高校を辞めることを考えていました。

ただ、辞めたらもう一度どこかを受験できるのか。1年遅れになるのではないか。そんなことをあれこれ考えているうちに、できないながらも徐々に学校生活自体には馴染んでいきました。
(続きます。)

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2005年12月 4日 (日)

ある出会い

まだ私が中学校の教師を目指していた学生時代。教育実習の一環で、ある養護学校に実習に行ったことがある。
あまりに昔のことで、それが何日間だったのか思い出せない。どんな実習だったかも、正直ほとんど覚えていない。

けれど、今でも鮮明に覚えていることがある。
ある男の子との出会い。

私たち実習生はあるクラスの子達と一緒に過ごすことになる。
十数人の子どもがいたのではないかと思うそのクラスに、実習生は同じぐらいいた。
子ども達とはまともに会話が成り立つ訳でもなく、初対面の私たちにすんなり子ども達が馴染んでくれる訳でもなく、先生方の指示に従って、そのときできる精一杯のことをするほかに何もできなかった。

そんな中、クラスの中のひとりの男の子がとても可愛く思えた。その「可愛い」というのは、正直なところ外見的なものではなかったし、会話ができる訳でもない。理由もわからないけれど、とにかく可愛かった。
だからといって、私は彼の担当だった訳でもなく、特別扱いする訳でもなく、実習生のひとりとして接し、実習を終えるときが来た。

先生方が子ども達に言った。これでこの先生達とお別れですと。
正直言って、その言葉がどの程度この子達に理解できるのかはわからなかった。
ただ、心の中で、この子ともうお別れなんだなぁと淋しく思っていた。

正にそのとき、突然その子がみんなのところを離れ、実習生の方に向かってきた。
そして、何も言えないのに、私の腕をつかんでぴったりくっついたまま離れない。
本当に驚いた。涙が出そうになるのを必死で堪えた。

先生がお別れだからと言っても、彼はなかなか離れようとしない。
私たちの間にはなんの言葉もなかった。なかったというより、しゃべりたくてもしゃべれなかったのだから。
だけど、彼は感じてたんだ。私が自分のことを好きだということを。お別れが淋しいと思っていることを。そして、彼もそう思ってくれたんだ。

とてもとても嬉しかった。
と同時に、怖いなと思った。

子どもは純粋で敏感だ。
大人の嘘はきっと見抜く。
大人は騙せても、子どもはきっと騙せない。少なくとも「心」の嘘はきっと見抜かれる。

子どもと関わる仕事を選ぶなら、絶対子ども達には真摯に向き合わなくては。
改めてそう思わせてくれた出来事だった。

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2005年12月 3日 (土)

夢を叶えた彼の話

昨日少し書いた、夢を叶えた男の子の話。

彼と出会ったのは、私が個人塾に勤めた最初の年だった。
担当した中1のクラスに彼はいた。

野球部で体は大きく、愛らしい顔をしていて、雰囲気はくまのプーさんのような穏やかな優しい子だった。

とても真面目で努力もするのだけど、残念ながら成績はあまり芳しくなく、真面目な性格から、英語や国語はまだ得点できるものの、数学はかなり厳しい状態だった。

年度途中で担当したとき、正負の計算の符号のつけ方が全く規則性のない間違い方をしていた。その後、何度も何度も練習をしたのだけれど、どうしても間違いのパターンが読めない。
せめて規則的な間違い方であるとか、引っかかりやすいところで引っかかっているであるとか、そういうことなら私も何とかできたかもしれないけれど、講師歴も浅く、パターンも掴めず、ただ問題をこなさせるしか方法がなかった。

彼は出会った最初の頃からずっと、高校は工業へ進むのだと言っていた。正直なところ、現状では公立の普通科は厳しかったから、目標自体が工業であるのは彼にとってもいいことかもしれないと思っていた。

工業に進んだら数学がもっと必要になることは彼もわかっていた。だから一所懸命だった。私も時間外の補習も沢山して、数学に関しては他のどの子よりも時間をかけて指導した。
けれど、彼の数学の成績は芳しくないままだった。

やがて彼は3年生になった。学校の進路指導も始まる。学校の先生も成績を見たら工業を薦めないのは当然のことだろう。進学した後についていけなくて挫折するかもしれない、そんなこともお考えになったんだろう。

親御さんでさえ、「工業じゃない方がいいんじゃない?」と何度も彼に尋ねたそうだ。

だけど彼の意志は固かった。全く、微塵も揺らぐことはなかった。

ただ、残念なことに市内の公立の工業を受けられるだけの成績を残すことはできなかった。

自宅から通える範囲にある私立の工業高校は、その頃私立男子校の中では偏差値が低かったため、工業高校だからという選択ではなく、そこしか行くところがないからという選択で進学する子が多かった。当然、あまりいい話は聞かない。

そんな高校で、この穏やかで優しい彼がやっていけるんだろうか。。。私だけでなく、学校の担任ももちろん親御さんも心配したはずだ。それに、工業高校に行かなくても自動車整備士への道はあるはずだ。私も正直なところ少し迷った。どう言ったらいいのかを。

けれど、当の本人は全く迷いはないらしい。周囲の説得にも全く耳を貸さず、そのままその高校を受験した。
そして、無事合格。春から高校生活が始まった。

高1の1学期に会ったとき、先生に選ばれて学級委員長になったよと教えてくれた。学校も勉強も楽しいと、彼は笑顔で話してくれた。

偶然にも、彼とは誕生日が一緒だったので、卒業してからも誕生日にメールをくれたり、お正月には年賀状をくれたりしていた。

そして、彼は卒業後、自動車整備の専門学校へ進学した。
1年数ヶ月が過ぎたある日、久しぶりに彼からメールが届いた。

「自動車整備士試験に合格したで~~。めっちゃうれしい。」

そう書かれていた。
感動して少し泣いた。

人から見れば小さな夢かもしれない。
有名校に進学して、有名企業に就職することを夢見る人には、取るに足らない夢かもしれない。

だけどそんなことは関係ない。
彼は彼自身の夢を叶えた。彼にとってそれは最高のことだ。
あとほんの少しで、彼は本物の自動車整備士として仕事を始めるんだ。

私の今はまだ叶っていないもうひとつの夢。
それはこの教室で第二、第三の彼、彼女に出会い、共に学び、いつか夢を叶えるその姿を見届けること。

今どんなに勉強ができなくたって構わない。
わかるようになりたい。わかるようになってあの高校に行きたい。あの資格を取りたい。
そんな気持ちを持っている子達と一緒に学びたい。

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子どもの夢

自分の記憶にある一番最初に抱いた夢は4歳のときの「おもちゃ屋さんになりたい」だった。
なぜおもちゃ屋さんだったのかにははっきりとした理由がある。その頃私はものを包むのが好きだった。幼い私にとって、ものを包んでくれるのは「おもちゃ屋さん」だったのだ。だからそれが私の夢になった。

次に覚えているのは、小学4年の頃。「お習字の先生になりたい」だった。その理由は至って単純で、習っていたお習字が楽しかったことと、その先生が優しかったこと。それだけだったんじゃないかと思う。

中学に入り、今では思い出すのも恥ずかしいような、詩とも言えないような詩を書き始めた私の夢は「もの書きになること」に変わった。詩人かエッセイストになりたい。そんなことを思っていた。

そして、中学3年になる頃、私の夢は「中学の先生になること」と「デザイナーになること」に変わった。夢だから何を思ってもいい訳で、その両方がそれからずっと私の中で夢であり続けた。

今思えば、正確には「デザイナー」ではなくてもよくて、クリエイターもしくは職人になりたかったんだと思う。とにかく「作る仕事」がしたいということを思っていた。

そして、それらの夢は揺らぐことなく私の心にあり続け、そのまま大人になった。
私の夢はほんの少し形を変え、自分の教室で子ども達と一緒に勉強をし、教具を作ったり、趣味でものづくりをしたりしている。

私には今の仕事以外に何も他にしたい仕事がない。
もしもこの仕事ができなくなったらどうするだろう。。。そんなことを考えたこともあるけど、やっぱり何にも思いつかない。

夢を見つけられたこと。持ち続けられたこと。どちらも私には当たり前で意識もしなかった。だけど、今の子ども達を見ていると、私はとてもとても幸せだったのかもしれないと思ったりもする。

すごい同級生がいた。
中学時代、彼は何度も言っていた、将来はローランドで働くと。15歳のときに会社まで決めた具体的な夢を持っていた彼。だけど誰もが恐らく気にも留めていなかった。

卒業後、ほとんど会うこともなく、私は大学生になっていた。
ある日電車で偶然、その彼に再会した。中学卒業後、国立高専に進んだ彼は、私達より一足先に社会人になっていた。

「こういうものです。」

差し出された名刺にはローランドの文字。
かっこいい。心からそう思った。

塾に勤めていた頃、一番最初に送り出した受験生の中に「自動車整備の仕事がしたい」と全く揺らぐことなく進路を決めていた子がいた。
周囲に何を言われても一切迷うことなく、彼は夢に向かって進んだ。
そして、高校卒業後、専門学校へ進み、国家試験に合格したとの知らせをくれた。

夢を持つと強い。
辛いことがあったって、苦しい時だって、夢があれば頑張れる。

子ども達が夢を持って生きられる、そんな社会を作るために私ができることはなんだろう。

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2005年12月 2日 (金)

最近感動したこと(3)

次はこの問題です。

ヒント

0・・・イ    1・・・ア    2・・・アイ    3・・・アア    
4・・・アイイ  5・・・アイア  6・・・アアイ     7・・・アアア

この続きを30ぐらいまで表に埋めていくものです。
皆さん、お分かりになりますか?

その日のレッスンでは既に1回の予定枚数以上を彼女らはあっさりとやり終えていたので、もうそのプリントで終わりになってもいいからねと、1時間うちの残り15分以上を彼女達に与え、極力見守りました。

さすがの彼女達も

「イ?ア?アイ?なんじゃこりゃ?」

とひと言。
しかし、彼女達の凄いところはどうにか考えてみようとするところ。
しばらく悩んだ末、ようやく

「なんかヒント!」

まずは8、9までの答えだけを教えました。するとしばらくまた考える。
うんうんうなっている姿を見ながら、「イが出てきてからしかアは出てこられないのよ」ともう少しヒント。

ぼんやり何かが見え始めた様子の彼女。とりあえず10は正解を出しました。うんうんと頷くと、それを見てまた考える。でも煮詰まっている様子。

「アが並んだ後はどうなってる?」ともう少しヒント。

その辺りから、じわじわと何かが掴めてきた様子の彼女。ひとつ、またひとつと表を埋め始めました。時折おかしいところだけ私が黙って見詰めると、もう一度考え直して正解になっていきます。

「あ、わかった!」という閃き的な反応はないままでしたが、彼女は確実に法則を見つけ、全ての問題をクリアしました。

これだけ少ないヒントで、それも実際に自分の頭で考えて解き終えた初めての子が彼女でした。
そして、程なくもう一人の彼女も正解に辿り着きました。

もうひとつ感動したのは、考えている途中でレッスン時間が来たのです。今日は既に予定枚数以上を終えていたので、そのプリントは預かって続きは今度にしようか?と尋ねた私に、それはもう即答で

「いや!やる!」

そう言ったこと。結局彼女達はその1枚のプリントに30分近くの時間を費やしました。

その結果、私の目の前で、自分達の力で答えに辿り着いてくれたのです。本当に感動しました。

最初は1桁の引き算ができなかった子です。
その後もここでのレッスンは週1回1時間だけ。その間のおうちでの宿題は5分前後で終わるプリントが10枚あるだけ。その結果なのです。

彼女のお父さんも大喜びしてくれたそうです。

「こんな問題、○○○(反復プリント学習)に行ってたって絶対できるようにならない」

そう言って。

子ども達は本当に素晴らしい力を持っています。
特に私が拘っている、幼児・低学年期には、周囲の大人が望ましい環境を用意すれば、本当に無限の可能性を秘めているように思えるのです。

私は彼女達の未来が楽しみでなりません。

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2005年12月 1日 (木)

最近感動したこと(2)

数学やパズルがお得意な方には簡単すぎると思いますが、まずは次の問題を考えてみてください。

ヒント
□□□□□■←1  □□□□■□←2  □□□■□■←5

□■□□■□←これはいくつでしょう。

多少問題は端折りましたが、本当にこんな問題です。彼女は普通の公立小学校の3年生。他に勉強の習い事はしていません。その彼女がしばらく考えました。そしてふと言いました。

「ん?組み合わせてできる数(のカード)はないの?」

正直ちょっと驚きました。ただ黙って頷くと、彼女は数を書き並べ、まずは1から4までの組み合わせでできる数を調べ上げました。そして全て足しても7にしかならないことに気づきます。

「ここ8?」

もう一度だけ頷きます。するとまた8までを使って作れる数を考え始めました。今度は全て足しても15。隣のマスに「16」と書いたところでじっとマスを見つめた彼女が言いました。

「あ!倍になってる!」

その後は何も言わなくても、数を書き並べなくても、32、64と書き、プリントのもっと複雑な問題を解き上げました。

次はこれでした。(これはヒントの一部だけご紹介)

□□□□■     □□□□■     □□□□□
□□□□■←2  □□□■■←5  □□■□■←10

これはあっという間でした。
右から1、3、9、27、81が二段重ねになっていることにすぐ気づきました。

この後の4段重ねの5進法はもう言うまでもなくあっという間に気づいて解いていきました。(因みに、彼女たちは二進法だの五進法だのそんな言葉は全く知りません。)

そして、いよいよ最大の難関のプリントに辿り着きました。

教室を始めてからこれまで、高学年で入会してくれた子たちもいたため、彼女たちより先にこれらの問題に取り組んだ子達が何人かいました。現在5、6年になっている子たちです。
その子達の殆どは結構よくできる子達でしたし、少なくとも学校の算数では全く問題ないような子達でした。それでも、今から彼女らに渡そうとしているプリントをノーヒントで解けた子はいませんでした。

ノーヒントどころか、ヒントを出して出して、しまいには色を塗ったものを見せて、それでもできなかった子もいました。
大量のヒントでかろうじてどうにかこうにか答えに辿り着いた子はいたにはいましたが、本人は「解けた」という感覚は全くなく、案の定、ほぼ同様のプリントが宿題に出ていたのですが、それには手が出なかったのでした。

高学年であり、普通かそれ以上にかなりできる子達でさえその状態でした。もちろん、小学生でこれができなくたって困ることは全くないですから、できないものを無理に反復させて覚えこませるようなことをしませんでしたが、そんな難問をまだ3年生の彼女達はどんな風にやってみせてくれるんだろうとワクワクして見守っていました。
(もう少し続きます。)

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最近感動したこと

何から書き始めようか迷いましたが、最初はやはり日々のレッスンを通して、最近とても感動したことを書かせてもらうことにしました。

もちろん、子どもたちには常に感動させられているのですが、今日のお話は私がこの教室を立ち上げたとき、一番初めにここに来てくれた女の子のお話です。

私は2年前の夏休みから教室を始めました。完全に0からのスタートで、彼女は友人のお嬢さんでした。
1年生の1学期に習う1桁同士の引き算で既に算数アレルギーが出始めていた彼女に慌てた友人が、ここに連れてきてくれたのが始まりです。

それまでほんの少しだけ反復プリント学習塾に通っていたことがある以外はお勉強の習い事はしていなかった彼女。(ちなみに、通っていたのに((から?))算数アレルギーになりかけていたのですが。)
私が一緒にレッスンするようになってから、ただの一度も彼女が「できない子」だと感じることはありませんでした。

夏休みの間に学校より先のことまで十分理解し、身につけた彼女は本当に驚くほどぐんぐんと伸びていきました。

私にとってももっとも理想に近いタイミングで学習をスタートした彼女。
更に彼女の家庭環境が素晴らしい。家族はみんな本当に仲がよく、お母さんはお料理上手でいつも朗らか。だけど数学は苦手なので彼女に口うるさくなることは殆どない。お父さんは理系のセンスの素晴らしい方で、子どもの教育や躾にもしっかりとしたポリシーをお持ち。機械的反復にはもともと懐疑的で、お父さんご自身がパズルなどが大好き。
一家の生活もとても規則正しく、教育への熱心さも本当にバランスがいいのです。

また、彼女は同級生のお友達と同じタイミングでスタートできたので、いい意味でのライバルがいる。「お友達に勝ちたい」のではなく、「お友達に負けたくない」「同じようにできるようになりたい」そんな思いを抱くことができました。

あらゆる面において、私の理想とする環境の中で学ぶ彼女が賢くならないはずはない。そう思ってきました。

もちろん、彼女とそのお友達はこれまでにも本当に何度も何度も私を驚かせてくれて、彼女たちは既にお母さん以上の算数の能力を身につけているほどになっています。

その中でもつい先日、本当に感動したお話をご紹介します。

その日は規則性を見つける学習の発展で二進法、三進法、五進法の考え方を使う問題が出てきました。
ただ、いつもそうなのですが、基本的に初めには何も説明しません。まずプリントに書かれていることを子ども達自身に読ませ、できる子にはそのままやらせる。悩んでいる子には最小限のヒントを出すという進め方をします。特に、3年目になる彼女たちはもう慣れたもので、これまで見たことのないようなものでも、何も言わずにまずじっと考え始めます。
(長くなるので一旦ここで。次へ続きます。)

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今日からはじめます。

今日から12月。本当に毎日が早いです。
先に始めた読書感想ブログはお蔭様で少しずつではありますが、読んでくださっている方も増え、また、素晴らしいご縁も頂いています。

ただ、もともと子どもの頃からあれこれ考えるのが好きだったせいか、いつも何か考えており、更に書けば長くなる。だけど時折、私はこんなことを考えているんですよ、感じているんですよとお伝えしたいこともあるのです。

ブログを書いていくにつれ、どうしてもあちらのブログにただの自分の思いを綴りたくなってきて、でも、それをしてしまうと折角「読書感想」と名づけたブログが嘘になってしまう。私の考えていることにはご興味のない方にまで読んで頂くことになってしまう。

考えた末、こうしてもうひとつのブログを立ち上げることに致しました。
こちらのブログは不定期更新になるかと思いますが、子ども達や教育、社会に関わる日々考えたこと、感じたこと、嬉しかったこと、困ったこと、そんなことを徒然に綴っていく予定です。

お時間のある方はお付き合い頂けると嬉しいです。

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